第18章:流星の黒翼と封牢の黒翼ー2
カエサル王都上空の空気が、大爆発を起こした。
――ガガアァァァァァァンッッッ!!!!!
五重の楔が砕け散った瞬間、ローディオの全身から解き放たれた聖光と闘力の津波が、カエサル王都の上空の空気そのものを物理的に叩き潰した。
歪んでいた重力が正常へと巻き戻り、それどころか数百メートル四方の気圧が急激に跳ね上がる。
先ほどまで彼を縛り付けていたドス黒い呪術の残滓が、光の粒子となって一瞬で蒸発していった。
「っ……あ……あぁ……っ!?」
クロウの喉から、ひゅっと掠れた悲鳴が漏れた。
身体が動かない。剣に身を捧げ、数多の修羅場を潜り抜けてきた彼の生存本能が、全身の細胞一つひとつに「動くな、殺される」と絶叫の警告を発していたのだ。
目の前に立つ男の姿。
全身を自身の血で染め、無数の切り傷を刻まれた大柄な男。
……なのに。力を半分以下に封印されていた時とは、放つ威圧感の次元が根本から違っていた。
「ハァ……ハァ……! やっと重い鎧を脱いだような感覚だなァ……ッ!」
ローディオは、血に濡れた己の太い両手を一度握り込み、首をゴキゴキと鳴らした。
彼の背後には、圧倒的な聖なる魔力が実体化し、巨大な後光のように大気を揺らしている。
「待たせたな、若ぇの! ここからは……手加減なしの喧嘩の時間だァァッッ!!」
ドガアァァァァンッッ!!!
ローディオの姿が、完全に消えた。
残像すら残さない。超音速の踏み込みが爆音を上げ、尖塔の石造りの足場が粉々に爆砕する。
クロウは必死に二本の曲刀を交差させ、眼前に防御を展開した。
――だが。
(……読めな……い……!?)
殺気がない。魔力の予兆すらない。
どこから殴ってくるのか、どこに踏み込んできたのかすら、全神経を研ぎ澄ませたクロウの認識を遥かに置き去りにしていた。
――ドスッ。
音は、攻撃が完了した後に聞こえた。
「がぁぁっ……!?!?!?」
クロウの肺から、すべての空気が噴き出した。
クロウの腹部の真ん中に、ローディオの太い拳が深く、深くめり込んでいたのだ。
ガードしていたはずの二本の曲刀の上から、骨ごと、内臓ごと、直接叩き潰すような理不尽極まりない超打撃。
ドガガガガガァァァンッッ!!!
クロウの身体が、人間砲弾となって後方へ吹き飛んだ。
王城のいくつもの石柱を突き破り、地表の石畳を数百メートルにわたって削り取りながら滑落していく。
「クロウッ!?」
カラスが初めて冷徹な仮面を崩し、悲鳴のような声を上げた。
カラスは即座に指先を噛み切り、自身の血で空中へ素早く解呪と封印の複合陣を描き出す。
「――封印術・不倒の鎖ッ!」
黒い鎖がローディオの足元から這い上がり、その動きを止めようと絡みつく。
――だが。
「遅ぇんだよ、親玉さん」
カラスの耳元で、死神の囁きが聞こえた。
ズガアァァァァンッッ!!!
カラスの顔面が、横から叩き込まれたローディオの拳圧だけで激しく歪んだ。
鼻骨が砕け、視界が赤く染まり、カラスの身体が真横の空中へと派手に弾き飛ばされる。
ドサッ……!
瓦礫の中に叩きつけられたカラスは、口から血を吐きながら必死に立ち上がろうとした。だが、膝がガタガタと震えて力が入らない。
封印術師としての強靭な魔力障壁を張っていたからこそ即死を免れたが、骨は数本折れ、内臓は大きなダメージを受けていた。
煙の中から、ローディオがゆっくりと歩み出てくる。
「二人まとめてかかってきても構わんぞォ? 来いッ、八咫烏! ウルシア王国が誇る最高峰の力を、今日は心ゆくまで味わわせてやる!!」
返り血を浴びたローディオの、悪魔のような狂喜の笑顔。
カラスと、血まみれで這い上がってきたクロウ。
今後世界の裏側で歴史を操るはずだった二人が、その男の圧倒的な暴威の前に、明確に恐怖で身体を震わせていた。
「……バケモノが……っ」
二人同時に漏らした言葉は、気取りも何もない、魂の底からの本音だった。
◆
「……クロウ。まだ立ち上がれますか」
カラスが、掠れた声で隣のクロウに問う。
「……ハッ……あぁ……もちろんだ……」
クロウは血を吐き捨て、折れかけた膝を無理やり伸ばした。二本の曲刀を構える手は、武者震いと恐怖で激しく震えている。
「あんな……あんな最高にイカれたバケモノを前にして、退けるかよ……!」
「……やりますよ、クロウ。……私たちの命を削る、最後の手段です」
カラスの瞳から、一切の生気が消え去った。
彼の身体の全身の毛穴から、ドス黒い呪いの炎が、火柱となって立ち昇り始める。
「――自害封陣」
カラスは己の命の輝きを直接触媒にし、古代の禁忌の術式を完成させた。
「――《封印・暗い喰らい》」
ローディオの立つ空間の右側が、突如としてド黒い絶対の虚無に包まれた。
「……ん?」
ローディオが微かに首をかしげた、そのコンマ一秒後。
――ズルリ……。
音も、衝撃もなく。
ローディオの右腕が、肩から先ごと、綺麗にこの世界から消滅した。
空間ごと、右腕の存在そのものを喰らい尽くし、別次元へ封印するという、カラスの寿命と引き換えに放たれた最悪の禁忌封印術。
右腕を失い、断面から血すら噴き出さない自身の肩を見下ろし――ローディオは一瞬だけ丸く目を見開いた。
そして。
「――ハハハハハハハハハッッッ!!!!!」
腹を抱えて、カエサルの夜空に響き渡る特大の爆笑を上げたのだ!
「ガッハッハッ! 右腕封じか!! お前ら、マジで本気だなァ!!」
右腕を失った激痛など一切存在しないかのように、ローディオは残された左腕のガントレットをバキバキと鳴らした。
カラスが、荒い息を吐きながら、冷や汗を流して告げる。
「……右腕。あなたの利き腕であり、最強の拳の基点。……完璧に次元の彼方へ封じさせてもらいました。これ以上戦えば、いくらあなたとて命を――」
「死ぬとでも言いたいのか?」
ローディオの笑い声が、ピタリと止まった。
左手一本になった男から放たれる圧力が、右腕を失う前よりも遥かに苛烈に跳ね上がる。
「甘ぇよ、八咫烏。……腕がなくなろうが、脚がもげようが、関係なく目の前の敵をブチ殺せるから……最強って言うんだよ」
背筋が凍りつく。
カラスとクロウの心臓が、恐怖で痛いほど跳ね上がった。
――この男は、ダメだ。
腕を封じようが、能力を削ろうが、殺す以外に止める術がない。そして今の自分たちには、この男を殺す術がどこにも存在しない。
クロウが、震える息を整えて曲刀を構え直そうとした。
「……もう少しだけ……! もう少しだけやらせろ、カラス……!」
「――クロウ、引きなさい」
カラスの声は、氷のように冷たく、決定していた。
「これ以上戦えば、私たちは確実にここで全滅します」
「……だがッ……!」
「ローディオは……右腕を失ってなお、まだ本気の底を残しています。……ここで死ぬのは、我が八咫烏の悲願にとって無意味です。……撤退します」
クロウは悔しさに歯を強く食いしばり、血が出るほど唇を噛み切ったが……やがて、諦めたように剣を鞘へと収めた。
カラスは、右腕を失ったまま立つローディオに向けて、静かに深く一礼した。
「……光の厄災ローディオ。あなたという存在を、決して侮っていたつもりはありませんでした。
……ですが、私たちの想定を遥かに超える、化け物でしたよ」
ローディオは、左手で鼻を鳴らした。
「ハッ。褒めても何も出んぞ。……またやろうぜ。次はもっと骨のあるヤツを連れて来い」
カラスは、薄く冷たい笑みを浮かべた。
「……その右腕の封印。我が命を削って施したものです。解けるまでに、最低でも数年はかかるでしょう。……その封印が解ける前に、またお会いしたいものですね」
漆黒の羽根が舞い散り、カラスとクロウの二人の影は、夜の闇へと溶けるように消え去った。
◆
静寂を取り戻した、カエサル王城の尖塔の上。
ローディオは、血の滲む左手で頭を掻きながら、静かに赤い夜空を見上げた。
「……さて。……あっちの若い衆の戦いは、どうなってるかねぇ」
右腕は、肩から先が丸ごと消えたまま。
だが、彼の顔には焦りも、絶望も、1ミリすら存在していなかった。
むしろ、これから始まる未来へのワクワクとした期待に胸を躍らせている。
「……右腕が使えねぇくらいのハンデ。……あいつらなら、成長して余裕で補ってくれるだろうよ」
赤い夜風が吹き抜け、ローディオの血に染まった聖騎士のマントを大きく揺らした。
「ソー、カリナ、小僧……。……あとは、頼んだぞ」
ウルシア最強の男は、夜空に向かって、優しく、そして誇らしげに笑ったのだった。




