第18章:流星の黒翼と封牢の黒翼ー1
軍事国家カエサルの王都。
その夜の空は、不気味なほど赤黒く淀んでいた。
大規模な民の地下避難が完了し、ゴーストタウンのように静まり返った王都の全景を見下ろせる、カエサル王城の最も高い尖塔の上。
その中心に、ひときわ巨大で、圧倒的な存在感を放つ影が立っていた。
竜王ウォールですら本能的な畏怖の念を抱き、神獣すらも道を譲る人類の最高到達点。
光の厄災・聖騎士ローディオ。
彼は、赤黒い夜風に茶色の髪を無造作に揺らしながら、いつもの豪快な笑みを口元に浮かべていた。
「……そろそろ、ウチの若い衆が、アジトでコラキだのクエルボだのと、命懸けの楽しい火遊びをしてる頃合いか」
ローディオは、自身の分厚い首をゴキゴキと鳴らし、ニヤリと獣のように嗤う。
「なら……こっちの留守番にも、そろそろ退屈しのぎの御大が来る頃合いじゃねぇか?」
彼が退屈そうに鼻を鳴らした、そのコンマ一秒後。
――ピタリ、と。
王城の上空の空気が、文字通り凍りついた。
姿は見えない。殺気すら完全に遮断されている。
……なのに。その空間に、絶対に人間が触れてはならない致命的な異常が存在していることが、皮膚の粟立ちだけで理解できた。
尖塔の屋根に、漆黒の羽根が一枚だけ、ヒラリと無音で舞い降りてきた。
続けて二枚、三枚……。
それらの羽根が石造りの床に触れた瞬間、空間そのものが墨を垂らしたようにドス黒く歪む。
「……なぜ。あなたが、ここにいるのですか」
空間の歪みから響いたのは、感情の起伏を完全に削ぎ落とした、静かで冷徹な男の声だった。
過剰なほど冷静。だが、その声の底には、世界そのものを呪うような底なしの漆黒の敵意が渦巻いている。
闇の中から音もなく歩み出たのは、目深に被ったフードで顔の上半分を隠した黒衣の男――。
八咫烏を統べる冷徹なる頭領、封印術師【カラス】。
続けて、そのカラスの背中の影から、もう一人の男が滑り出るように姿を現した。
腰に、異様な曲線を描く二本の剣を帯びた小柄な剣士。
その目はどこか優しげにすら見えるが、瞳の奥底から滲み出す闘気は、あの狂戦士レイヴンすらも凌駕するほどに異常に研ぎ澄まされている。
八咫烏の最高剣力、二刀流剣士【クロウ】。
「……なるほど。カエサルとウルシア、それぞれの防衛の配置を逆転させたというわけですか。……軍事国家カエサルの王都に、ウルシアの最高戦力であるあなたが腕を組んで待っているなど、いささか盤外戦術が過ぎますよ」
カラスが、淡々とした口調でローディオを分析する。
「ガーーッハッハッハッ!!」
ローディオは、空気を全く読まない特大の爆笑でそれに答えた。
「その顔! お前らのその想定外の嫌そうな顔が見たかったんだよ! 待ってたぜェ、八咫烏の親玉さんよぉ!!」
ローディオは、バキバキと肩を回し、嬉しそうに嗤う。
「光の厄災ローディオ……。私たちの計画において、まだあなたを相手にする段階ではないのですが。
……不法侵入者がいるのなら、仕方ありません。では、段階を少しだけ早めて、ここであなたを排除するとしましょう」
カラスは、一切の気負いなく淡々と告げた。
「クロウ。行こうか」
「……ああ。カエサル兵の雑魚狩りじゃあ欠伸が出るところだった。強いヤツと真っ向から殺し合うのは、嫌いじゃない」
クロウの声は穏やかで落ち着いているが、剣の柄を握るその指先は、絶頂の歓喜で微かに震えるほど興奮していた。
二人の圧倒的な圧力を前にしても、ローディオは腰の剣を抜こうとすらしない。
腕を組んだまま、ニヤニヤと楽しそうに笑っているだけだ。
一切の防御の構えを取らないその無防備な自然体こそが、逆に恐ろしいほどの威圧感となって二人を押し潰す。
「じゃあ……ご挨拶から行くぜェ!」
ローディオの『右腕だけ』が、空間から不自然に掻き消えた。
――次の瞬間。
ドゴォォォォォォォンッッ!!!
「がっ……!?」
クロウの身体が、弾丸のように後方へと吹っ飛んだ。
全くの死角――クロウの真横の何もない空間から突然出現したローディオの巨大な右拳が、彼の側頭部を無慈悲に粉砕しにきたのだ。
クロウは凄まじい衝撃波と共に、カエサル王城の屋根の瓦礫を三度バウンドしながら叩きつけられ、派手に転がった。
「……は、速ッ……!」
普通なら、側頭部を粉砕されて脳髄が飛び散る完全な即死の一撃。
だが、クロウは殴られる直前のコンマ一秒で、顔の横で二本の曲刀をクロスさせ、ギリギリのところでガードを間に合わせていた。それでも、曲刀の刀身にヒビが入り、彼自身の口からは大量の血が吐き出されている。
「……なるほど。これがあなたの転移魔法の真骨頂。……自身の腕の空間座標だけを、敵の死角へと任意に転移させて殴りつけたのですね」
カラスの表情はフードに隠れて変わらない。だが、その微かな声の震えが、ローディオの非常識な戦術に対する確かな驚愕を含んでいた。
「おうよォ! 面白ェだろ?」
ローディオは、腕を組み直しながら豪快に嗤う。
「魔法で身体丸ごと転移すれば、魔力の揺らぎで着地点を警戒される。だが、こうやって右腕だけを相手の顔面の横に転移させて殴れば、どんなに警戒してる位置取りだろうが関係ねぇ! シンプルだが避けるのは難しいだろ?」
「フッ……ふはははッ! あの威力、完全に警戒したところで腕がへし折れるほどの威力だ」
クロウが、血を吐きながらも楽しそうに立ち上がる。その眼光は、さらに狂気的な鋭さを増していた。
「正面から、ただの斬り合いであなたに挑むのは愚策の極みですね。クロウ一人では、3分で肉塊に変えられる」
カラスが、無言で一歩前に出た。
ズズズッ……。
カラスの足元から、ドス黒い呪術の紋様が蜘蛛の巣のように這い出し、ローディオの立つ足元を瞬く間に包み込んだ。
「ならば、あなたという存在の規模を、私たちと同じ土俵まで削り落とさせてもらいましょう」
カラスが、冷徹な声で術式を紡ぐ。
「――《封印術・五重楔陣》」
バンッ!!
空気がガラスのように爆ぜた。
ローディオの巨大な身体から、立ち昇っていた圧倒的な闘力と聖光の魔力が、目に見えるようにドスッと重く抜け落ちた。
「……お? なんだこりゃ?」
ローディオは、自身の身体を珍しそうに見下ろしながら眉を上げる。
「俺の闘力、魔力、それに基礎的な身体能力の出力を、半分以下に強制的に固定・制限する封印魔法ってところか。
……だが、これだけの高位の封印を、俺相手にかけるんだ。術者であるお前自身にも、それ相応の致命的な代償があるんだろ?」
「……フッ。かけられた瞬間に術の原理とリスクを見抜かれたのは、初めてですよ」
カラスのフードの奥の目が、鋭く光る。
「クロウ」
「……了解。お膳立ては十分だ」
クロウが、再び動いた。
――今度は、背景の夜空ごと消え去るほどの超神速。
二本の曲刀が、流星のような軌道を描き、力を半分以下に削がれ、動きの鈍ったローディオの首と心臓へと同時に迫る。
五重の楔で封印中のローディオの身体能力では、もうこの神速の斬撃は避けられない。
「いいねェ……! 実にいい! 久しぶりに、血が沸騰するほどゾクゾクしてきたぜェ!!」
ローディオは、回避を捨て、ただ両腕のガントレットを胸の前で交差させて構えた。
ギャリィィィィィンッッ!!!
耳障りな金属音が響き、クロウの曲刀がローディオの両腕の装甲を深く切り裂き、鮮血が夜の空へと飛沫を上げた。
「……チッ。肉を斬った手応えでも、腕の骨で受け止められた音でもないな」
クロウが、舌打ちをして呆れたように呟く。
ローディオは、斬られるコンマ数ミリ手前の空間に、圧縮した残りの半分の闘力を集中させ、刃の威力を殺していたのだ。
だが、封印の重さで明確に動きが鈍っている。自慢の腕だけ転移の攻撃速度も、先程のような速さはない。
クロウは、曲刀から滴るローディオの血を見て、最高に楽しそうに嗤った。
「はは……ハハハッ!! さぁ、さっき俺の顔面を気持ちよく殴ってくれたお礼だ……! たっぷり返させてもらう!」
左右から、上下から、斜めから。
クロウの放つ、視認不可能な斬撃の豪雨。
五重楔陣の封印で身体能力と魔力を半分以下に強制的に削られたローディオは、そのすべてを完全に受け止めきれない。
装甲が砕け、肉が斬られ、血を流し、徐々に、確実に後ろへと押し込まれていく。
だが――。
「ガッハッハッハッハッ!!」
ローディオは、血みどろになりながら、最高に嬉しそうに腹を抱えて笑ったのだ。
「良いねェ……! クロウとやら! お前のその剣、最高に重くて速ぇよ!! ガキの頃なら、とうの昔に八つ裂きにされてて、今の俺みたいに笑ってられなかったかもなァ!」
その、底なしの余裕を持った狂気の笑顔に。
斬り込んでいるクロウ自身の背筋が、ゾクリと悪寒に震えた。
「なんだ……この男……バケモノか……?」
クロウが、歯を食いしばりながら曲刀を振るう。
「俺とカラスが連携して、力を半分以下にまで削ぎ落としているのに……まだ、こいつの底が全く見えない……!?」
「おーーい! カラスの親玉さんよぉ!」
ローディオが、クロウの斬撃を顔面スレスレで躱しながら、後方のカラスに向かって大声で叫ぶ。
「この面白い封印術は、そろそろ限界だろォ!?」
カラスが、淡々と、だがわずかに焦りの混じった声で返す。
「……あなたをここで完全に倒し切るには、時間が足りませんね。……あと十秒は、私の魔力回路を燃やしてでも頑張らせていただきますよ」
ローディオは「チッ」と大袈裟に舌打ちをした。
「なんだ、たったのあと十秒かよ! つまんねぇな! ……じゃあ仕方ねぇ、お前らの意地に免じて、残りの十秒間、全部避けないで真正面から受けてやるよォ!!」
「舐めるなァァァッ!!」
クロウの怒りの斬撃が火花を散らし、ローディオの強靭な肉体に、次々と深く赤い傷が刻み込まれていく。
血まみれ。骨の軋む音。
致命傷になり得る一撃すらも、ローディオは筋肉の収縮だけで無理やり受け止め、致命傷を避けている。
だが、それでも――ローディオは絶対に倒れない。
ただの一歩も、その場から膝を折らない。
クロウの目に、戦士としての恐怖が染み出し始めた。
「……嘘だろ。まだ、倒れねぇのか……。十秒間、ノーガードで俺の剣を何十発も受けて……なんで平気な顔で笑ってやがる……」
カラスが、限界を迎えた荒い呼吸と共に、低く囁いた。
「……限界です。五重楔陣の封印……解除」
ローディオの足元を縛っていたドス黒い陣が、紫色の霧となってパリンと砕け散った。
――その瞬間。
カエサル王都上空の空気が、大爆発を起こした。




