第17章:獣王の黒翼と魔導の黒翼ー2
膝から崩れ落ちたコピーのヴァリスの顔面へ、上空からウォールの黒銀の拳が落とされた。
――ドカァァァァァンッッ!!!
岩盤すら破壊する極大の一撃。
地面が大きく陥没し、激しい土煙が立ち上る。
煙の中から、コピーのヴァリスの身体が、紫色の光の霧となって解け、消散していった。
「あの消え方……本物なら、即死してるレベル……っ」
クレーエの絶望的な呟きが、空に虚しく響く。
ウォールは静かに振り返り、遠くの土煙の中から立ち上がろうとしている本物のヴァリスを見た。
腹にめり込んだ強烈な一撃は、内臓を破砕し、骨を折っているはずだ。
それなのに――ヴァリスは血反吐をぶち撒けながら、腕を地面につき、無理やりその身体を起こし上がらせていた。
「……流石だな」
ウォールは、素直に感心した声を上げる。
「あの一撃を直接受けて、まだ戦意を保って立つか」
「……ヘヘ……っ」
ヴァリスは口から血をダラダラと垂らし、凶悪に笑った。
「……クレーエを……泣かすんじゃあねぇよ……ッ」
「ヴァ、ヴァリスぅぅ……っ!!」
クレーエはブルブルと震える手で、空中に次の魔法陣を描き始める。
だが、今度の陣は、さっきのコピー生成の陣よりもずっと薄く、そして精密な幾何学模様を描いていた。
(……今は……! 形だけでも……情報だけでも……ッ!)
クレーエの瞳の奥に、恐ろしいほどの集中と光が宿る。
彼女は、戦うウォールの姿を必死に見つめていた。
ウォールの筋肉の一筋の弛緩と緊張。体内の魔力の巡り。放たれる闘力の波長。
一瞬一瞬の膨大な戦闘データを、彼女自身の目と魔術の領域で、完璧に写し取っていく。
(この人の存在そのものを完全にコピーして再現するなんて……今の私の魔力じゃ到底無理……っ! でも……せめて枠組みだけでも……ッ!)
クレーエは、自らの戦力の限界を正しく理解していた。
だからこそ――彼女は自分の生き残るギリギリのラインで、恐ろしい成果を回収しようとしていたのだ。
ヴァリスが、血反吐を吐きながら身体をさらに獣化させていく。
背中から狼のような漆黒の毛並みと巨大な尾が生え、両肩には竜の骨のような不気味な装甲が突き出し、牙はさらに長く伸びる。
「……第2ラウンドだぁ……ッ!」
ヴァリスが、血塗れの拳を握りしめる。
「――ここからが、本当の本気だぜぇ、竜王サマよぉッ!!」
「……そろそろ終わりにしようかと思っていたところだが」
ウォールは肩を軽く回した。
「もう少しだけ……お前の意地に付き合ってやろう」
ウォールの背中の巨大な被膜翼が、バサッと大きく広がった。
黒銀の鱗が首筋から両頬、額へと完全に覆い尽くし、目の色が完全に竜のそれへと昇華される。
――ズズズズズズズズッッッ!!!!!
竜気が爆発した。
ただ彼が気合を入れたというだけで、城壁の上にいた強者であるパラディンたちが、耐えきれずにドサドサと膝をついた。
「うっ……! く……呼吸が……空気が重すぎる……ッ!」
「後退せよ! これ以上近くにいたら、圧だけで肺が潰されるぞッ!」
兵士たちは本能的な死の恐怖に従い、後方へと後退していった。
ウォールとヴァリスの間の空間だけが、人類の干渉を許さない神話の領域へと変貌する。
「ウオォォォォォォォォッッ!!!!」
ヴァリスが血反吐を撒き散らしながら飛びかかった。
爪、拳、脚、尾、牙――己の持つすべての肉体兵器をフル回転させ、猛風のようなラッシュを竜王へ叩きつける!
だが――ウォールは、その攻撃を一切『受けない』。
一歩目を左斜め前へ。
二歩目で完全に死角の懐へ。
三歩目にはすでに、ヴァリスの無防備な顎の下へ、彼の竜の拳が滑り込んでいた。
「――【ドラゴン・殴り】」
ガッッッ!!!!!
顎を直接撃ち抜かれたヴァリスの視界が、真っ白に弾け飛んだ。
巨体が宙へ浮き上がり、そのまま荒野の石畳を何度もバウンドして転がっていく。
だが――それでも、倒れない。
「まだ……まだぁぁぁぁぁッッ!!」
獣化した巨大な尾が地面を深く抉り、強引にその滑落を止める。
ヴァリスは血みどろの顔で、膝を震わせながら立ち上がろうとした。
「……終わりにするか」
ウォールが、少しだけ呆れたように呟く。
「ここまで肉体を破壊されてなお、まだ戦う意思が残っているのか」
「あるに決まってんだろ……ッ!」
ヴァリスは、血で霞む虚ろな目で歯を食いしばった。
「俺がここで倒されたら……クレーエが死んじまうんだよ……! あいつは昔っから頭も良くて魔法も天才だが……直接の殴り合いはからっきしなんだ……ッ!」
その背後で、クレーエが涙目で叫んだ。
「わ、私は戦えるもんっ! 魔法ならヴァリスより凄いんだからっ!」
「今回の……お前の本当の任務は……強い騎士のデータ採取と無事の撤退判断だろうが……ッ!」
ヴァリスは、意識が飛びかけながらも必死に笑った。
「カラスも言ってたろ……! 『クレーエの複製魔法は、八咫烏の最終計画にとって絶対に必要なピースだ』ってなァ……!」
ウォールは、その言葉を聞いた瞬間、黄金の縦瞳孔をわずかに細めた。
(……必要なピースか。ならば……ここで消しておく必要があるな)
ウォールは、ヴァリスから視線を外し、後方のクレーエへ向けてゆっくりと一歩を踏み出す。
――その、コンマ一秒の隙。
クレーエの体内の全魔力が、最高潮に満ちた。
(――今ッッ!!)
クレーエの脳内で、ひとつの完全な概念像が完成した。
竜王ウォールの、骨格と筋肉の全動き。
体内を巡る魔力と闘力の流動パターン。
攻撃の瞬間の思考の波長。
戦いながら、恐怖に震えつつも片時も離さず見続けてきたそのすべてのデータが、一枚の美しい設計図となって脳裏で繋がったのだ。
「――《明鏡・竜王ウォール》ッ!!」
クレーエの手の中に、掌サイズの小さな紫色の光の結晶が生成された。
彼女はそれを、ウォールに見つからぬよう、服の奥へとそっと深く握り込んだ。
(できた……! これでいい……! これを持ち帰れば……いつか……ッ!)
その直後。
ウォールの圧迫的な気配が、目の前まで一瞬で肉薄した。
「っ……!?」
次にクレーエの視覚に映ったのは、視界を埋め尽くすような巨大な竜の拳だった。
ドガァァンッ!!
不完全な防御障壁ごと、クレーエの華奢な体が空中で大きく弾き飛ばされた。
後方のパラディンたちが慌てて光の結界を張り、後方に衝撃がいかないように衝撃波を緩和する。
「クレーエぇぇぇっ!!」
ヴァリスが血を吐きながら叫び、最後の力を振り絞ってウォールへと飛びかかった。
竜と獣の拳が空中激突し、互いに後退する。
だが、完全にバランスを崩し、膝から崩れ落ちたのはヴァリスの方だった。
ウォールの容赦のない竜の膝蹴りがヴァリスのみぞおちにめり込み、そのまま追撃の肘打ちが彼女の背中に叩き落とされる。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴。
ヴァリスは力なく倒れ、冷たい土の上へと突伏した。
ウォールが、とどめを刺すべく、その重い拳を高く振り上げる。
――だが。
その拳は、途中でピタリと止まった。
傷だらけのクレーエが、血を流しながらヴァリスの身体の上に覆いかぶさるように飛び出してきたからだ。
震える細い腕を広げ、涙で顔をグチャグチャに濡らしながら――。
「や……やめてください……っ!! 降参……降参ですっ……!! 私たちの負けですぅぅっ……!!」
声は震え、膝も笑い、今にも気絶して倒れそうだ。
だが、その小さく握りしめた手の中には、先ほど完成させた竜王のデータの結晶が、静かに隠されている。
ウォールは、しばらくの間、彼女たちを上から無言で見下ろしていた。
やがて――彼は、振り上げた拳を静かに下ろした。
「……いけ」
ウォールは、そのまま背を向けた。
城壁の上のパラディンたちが、慌てて声を上げる。
「竜王殿! 追撃を行わないのですか!?」
「今逃がせば、後々必ず大きな災いとなりますッ!」
「……俺の本当の任は、この『ウルシア王都の守護』だ。……あの男との約束は、これで十分に果たした」
ウォールは、肩越しに低く告げた。
ヴァリスが、血の海に顔をつけながら、死に損なった猛獣のように嗤った。
「……覚えていやがれ……オッサン……」
「フッ……次は、もっと俺を楽しませる強さを持って来い」
クレーエは、何度も、何度も頭を深く下げながら、倒れたヴァリスの巨体を肩に背負い、必死に立ち上がった。
「す、すみません……すみませんっ……」
「あんな奴にペコペコ謝ってんじゃねぇよ、クレーエ……っ」
ヴァリスは、彼女の頭を力なく軽く小突いた。
「……目的は、ちゃんと果たせたんだろうな……?」
クレーエは、小さく頷いた。
握りしめた手のひらの中で、光の結晶がトクンと静かに脈打っている。
(――とったよ。竜王ウォールの型を……!)
今はまだ、ただの骨組みに過ぎない。
だが、八咫烏の本拠地へ持ち帰り、そこに潤沢な魔力と時間を注ぎ込めば――。
いつか、本物の竜王ウォールと寸分違わぬ最強の複製が誕生する。
「じゃあな、竜王! ……次に会う時は、お前を殺してやるからなぁッ!!」
ヴァリスが振り返って叫ぶ。
「楽しみに待っている」
ウォールは短く答えた。
次の瞬間、クレーエの足元に紫色の転移陣が展開された。
二人の影は、光の粒子となって空へ溶けるように消え去っていったのだった。
◆
「……追撃の魔法陣の展開は?」
「いつでも可能ですが……」
「やめておけ」
ウォールは、半竜化の形態を解き、いつもの人間の姿へと戻りながら言った。
「今は、疲弊した兵の手当をし、不安がる民を安心させるのが先決だ」
彼は、城壁の下の城下町を見下ろした。
恐怖に怯える顔。泣き叫ぶ子どもたち。
それでも、店を閉めずに歯を食いしばって立ち続ける商人たち。
「竜王様万歳ッ!!」
「ウルシアは守られたぞぉぉぉッ!!」
兵士や民衆からの地鳴りのような歓声が、徐々に王都全体へと広がっていく。
「カエサルのこの俺が、ウルシアの地で英雄扱いか。……フッ、これもあの男の計算のうちだとしたら、実に食えない男だ」
ウォールは、歓声を背に受けながら、可笑しそうに笑った。
(――さっきの小娘に、土壇場で別の目的を果たさせてしまったか)
気づいていないわけではない。
クレーエが戦闘中に己を凝視し、何かを抽出していたことなど、百戦錬磨の竜王が見抜けないはずがないのだ。
だが――それでも良しと、竜王は判断したのだ。
竜王ウォールは、豪快に口元を歪めた。
(十中八九……俺の複製を創るための情報を盗んでいった、というところか。……フハハッ、構わん! 世界で一番強い俺の複製と戦える日が来るのだとしたら……実に楽しみではないか!)
その頃。
王都から遥か離れた空の上。
クレーエは、ヴァリスの背中におぶられながら、手の中の紫色の結晶を愛おしそうに見つめていた。
「……とったよ、ヴァリス。最強のデータを」
「おう。さすが、うちの天才魔導士だ」
ヴァリスは、血を流しながらも豪快に笑う。
「次に会う時は……あのクソオッサンに、そっくりそのまま竜王ウォールをブツけて絶望させてやろうぜ!」
その恐ろしい言葉の実現が、そう遠くない未来であることを、二人は確信していた。
大陸のどこかで、新たな世界の壊滅の芽が、静かに芽吹いた瞬間であった。




