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第17章:獣王の黒翼と魔導の黒翼ー1

 一方その頃――。


 カエサルから遠く離れた、ウルシア王都。


 澄み渡っていた青空が、突如として不吉な黒雲に覆われ、巨大な獣の狂った咆哮が王都の上空を切り裂いた。


「――来たか」


 ウルシア王都を囲む白亜の城壁の上。


 吹き荒れる突風をものともせず、静かに腕を組み仁王立ちしていた巨躯の男――竜王ウォールがゆっくり歩き出した。


 漆黒の重甲冑の下で、岩のような筋肉が軋みを上げて隆起する。


 彼の見据える視線の先――。


 淀んだ黒雲を蹴り飛ばすように、空からひとつの巨大な影が隕石のような速度で落下してくる。


 ズガアァァァァンッッ!!!


 城壁のわずか数百メートル先の石畳に、その影が凄まじい衝撃波を伴って着地した。


 舞い上がった土煙の中から現れたのは、筋肉の鎧を纏った異常な巨躯の女だった。


 上半身の骨格こそ辛うじて人間の女性の面影を残しているが、その太い腕と丸太のような脚は、もはや人の形を保っていない。


 獅子の筋力、熊の爪、そして竜の逆鱗をグチャグチャに混ぜ合わせたような、分厚い獣の毛皮と巨大な鉤爪。全身から噴き出すドス黒い闘力が、まるで灼熱の炎のように陽炎を立ち昇らせている。


 八咫烏――ヴァリス。


「――ふむ。純粋な腕力だけなら、レイズより上か。強いな」


 ウォールが、まるで品評会でもするかのように腕を組んで低く呟いた、その瞬間。


 ヴァリスが、耳まで裂けたような口角を吊り上げ、凶悪な牙を剥き出しにして嗤った。


「おーおーおー! なんだってんだァ!? なんでカエサルの竜王が、ウルシアに突っ立ってんだぁ? あァ!?」


 ヴァリスは、巨大な獣腕の関節をバキバキと鳴らす。


「こっちはよォ! あの光の剣姫カリナって美味そうな女を、頭からバリバリ齧って食べる予定で来たのによォ! メニューが全然違うじゃねぇか!!」


 そのヴァリスの少し後ろ。


 城壁の上のウォールから、明確に安全な距離を取った位置に、もうひとつの小柄な影が、ふわりと音もなく降り立った。


 目深に被った分厚い黒のフード。長い前髪の奥から覗く瞳は、まるで怯えた小動物のようにプルプルと揺れ、手元に抱えた身の丈ほどもある巨大な魔導杖を、落ち着きなく震わせて握っている。


 八咫烏――クレーエ。


「ヴァ、ヴァリスぅぅ……! さ、作戦変更っ……変更だよぉ……! 竜王ウォールがウルシアにいるなんて、聞いてないよぉ……! 想定外すぎるよぉ……!」


「あァ? 何言ってんだクレーエ。お前、来る前に『ウルシアにいる強い騎士の戦闘データ、いっぱい集めたいなぁ〜』って言ってたろーが」


 ヴァリスは、怯えるクレーエのフードの頭を、巨大な獣の腕でわしわしと乱暴に撫で回しながら笑う。


「だ、大体はカラスの予測通りに動くって言ったのに……! わ、私は別に……その……強いっていっても、限度があるというか……」


 クレーエは、涙目でウォールの圧倒的な威圧感を見上げながら震える。


「竜王なんて……強い騎士の枠から、完全に飛び出ちゃってるバケモノじゃない……っ! あんなの死んじゃうよぉ……!」


「ガハハッ! 大丈夫だクレーエ! 俺にとっちゃ、あの竜王ウォールの首をへし折るのも、十分にメニューの範囲だ!」


 ヴァリスの獣腕が、限界を超えてさらに肥大化し、パキパキと筋肉の繊維が悲鳴を上げるような音を立てて凶悪に膨れ上がっていく。


◆


 城壁の上では、ウルシア王国の精鋭パラディンたちが、すでに一糸乱れぬ布陣を整えていた。


「竜王殿! 後方支援の魔術結界、いつでも展開できます!」


「正面のあの化け物の突進は、我らウルシアの盾が受け止めましょう!」


 分厚い白銀の鋼鎧に身を包んだパラディンたちが、大盾を構えて一斉にウォールの前に立ち塞がろうとする。


 だが、ウォールは軽く片手を上げ、それを制止した。


「――退がれ。俺一人でやる」 


 その声は静かだが、一ミリの揺らぎも許さない、絶対の王の威厳を含んでいた。


「お前たちは、ここから後ろの王都の街と民に、風圧すら感じさせるな。……それでいい」


「……は、はっ!!」


 短い返答とともに、パラディンたちは一切の無駄な問答を捨てて陣形を左右へと割り、竜王の前に真っ直ぐな道を開けた。


 ウォールは、ひとつ、深く冷たい空気を肺の底まで吸い込んだ。


「――竜気・解放」


 低い、地響きのような呟き。


 その瞬間、ウォールの周囲の空間が、物理的に軋みを上げて歪んだ。


 見えない圧倒的な圧力が、辺り一帯の重力を数倍に押し潰すような、極限の重い気配。


 彼が背負っていた漆黒のマントが、内側からの圧力に耐えきれずにビリビリと裂け散り、そこから――分厚い【黒銀の竜の鱗】と、巨大な【竜の被膜翼】が展開された。


 鋼の靴を突き破り、足の骨格そのものが、地面を深く抉る竜の鋭い鉤爪へと変態していく。


 瞳は黄金の縦瞳孔へと完全に切り替わり、口元からは灼熱の竜の吐息が白く漏れ出ている。


 人と竜の完全なる融合――【竜王ウォールの半竜化形態】。


「おおぉ……ッ!」


「これが、カエサル最強の……竜王の真の姿……ッ!」


 城壁の上のウルシアの兵たちが、恐怖と畏敬の入り混じったごくりという喉の音を鳴らす。


 ただその姿を現しただけで、彼が人類という枠組みから外れた神話の生物と同格であることが理解できた。


 ヴァリスは、その絶望的な姿を見上げ、恐怖するどころか、心底から嬉しそうに腹を抱えて狂笑した。


「ギャハハハハッ!! いいねぇ! 最高に滾るじゃねぇか! こんな極上のご馳走のいるウルシアに俺を来させてくれたカラスの野郎には、後で感謝しなきゃなァ!」


 ヴァリスは舌なめずりをし、獰猛に身を屈める。


「ん? 待てよ? ウルシアにアンタがいるってことは、カエサルは今誰が留守番してんだぁ? ……まぁいいかあ! そんな細かいことは、アンタの首を引っこ抜いてからゆっくり考えりゃいいことだァ!」


「女だからといって手加減は一切せんぞ。……ある男に、この国の防衛を任された以上はな」


 ウォールは、竜の牙を覗かせてわずかに口元を吊り上げた。


「――全力で来い、八咫烏。でなければ……お前たちがここへ来た本当の目的が、果たせぬまま終わるぞ?」


 その言葉が落ちた瞬間。


 後方で震えていたクレーエの肩が、ビクリッ! と不自然に大きく跳ねた。


「バ、バレてるぅぅ!?!?……なんで!? まだ何もしてないのに……っ!?」


「その挙動と目が、すべてを物語っているぞ、小娘」


 ウォールは、腕を組んだまま、冷徹な竜の瞳でクレーエを一瞥した。


「お前は、この絶望的な戦場を前にして、一番最初に自分の確実な退路と、ここから持ち帰る収穫の計算をする目をしている。……ただ暴れに来ただけの狂人の目ではない」


「ひぃぃっ……!! ご、ごめんなさいごめんなさい見逃してぇ……っ!!」


 図星を完全に刺され、クレーエはフードを深く被り直して、情けない悲鳴を上げながらズルズルと後ずさる。


 だが、そのクレーエの耳元で、ヴァリスが愉快そうに大笑いした。


「ギャハハッ! 何ビビってんだクレーエ! それは竜王サマからの、お前の知性に対する最高の褒め言葉だぞぉ! なぁ、竜王?」


「ああ。あまりにも貴様の魔力の質が高く、そして異質だからな。戦闘中といえど、観察し、警戒せざるを得なかっただけだ」


 ウォールは、まるで世間話でもするかのように平然と答える。


「……だが、今日はそのくだらん目的も果たせず、ここで塵となって散ってもらう」


 次の瞬間――。


「ウオォォォォォォォォッッ!!!」


 ヴァリスの巨大な獣の右腕が、足元の荒野の地面を粉々に抉り砕きながら、音速を超えた突撃で城壁の上の竜王へと襲いかかったのだった!


――ドガアァァァァァァンッッッ!!!!!


 音速を超えたヴァリスの超巨大な獣腕が、大気を爆ぜさせながら、ウォールが立つ城壁の土台ごと真っ直ぐに薙ぎ払った。


 だが――その破壊の一撃がウォールの肉体に届く直前。


 ウォールの巨体が、コンマ一秒の躊躇いもなく、自ら前へと一歩踏み出していた。


 ガンッ!!


 一瞬遅れて、鼓膜を破るような炸裂音が重なって荒野に轟く。


 ウォールが掲げた竜の黒銀の片腕と、ヴァリスの肥大化した獣腕が、正面から真っ向衝突したのだ。


 衝撃波だけで周囲の数十メートルの岩盤が粉々に爆砕し、土煙が巨大なクレーターとなって噴き上がる。


「き、強固な防御壁を上げろッ!!」


「巻き込まれるぞ、城壁から退がれぇッ!!」


 後方のウルシアのパラディンたちが、顔を蒼白にして最大出力の光の障壁を展開する。吹き荒れる石片と風圧の弾丸が、バチバチと音を立てて光の壁を打つ。


 中心に立つウォールは、膝一つ、足元一つとして微動だにしていなかった。


「うむ。……実に良い一撃だ。骨まで響く重さがある」


「ハッ! 腕一本で俺の渾身の一撃を受け止められたのは、流石に初体験だぜぇッ!」


 二人は、親しげな軽口すら叩き合いながら、互いの拳と腕を全力で押し付け合っている。


 だが、二人の足元の強固な岩盤は、互いの放つ異常な出力の拮抗に耐えきれず、メキメキと音を立てて蜘蛛の巣状にひび割れ続けていた。


 ウォールが、ほんのわずかに腕の角度を変え、体重を前方へと押し返す。


 たったそれだけの動きで、ヴァリスの丸太のような足が、ずるっ、と後ろへ数センチ滑った。


 その圧倒的な力関係を目前にして、後方で観測していたクレーエの顔から完全に血の気が引いた。


(まずい……! やっぱり、純粋な素の闘力じゃ、ヴァリスでも完全に押し負ける……ッ!)


 クレーエはブルブルと震える指先で巨大な魔導杖を固く握り締め、深く息を吸い込んだ。


「――《明鏡》ッ!!」


 クレーエの足元の石畳に、紫色の複雑で禍々しい巨大な魔法陣が幾重にも展開された。


 紫の怪しい光が柱となって空へと立ち上り、その光の中から――全く同じ姿をしたもう一人のヴァリスが、ぬうっと現れた。


 肉体の質感、放つ殺気、獣の爪の角度まで、本体と寸分狂わぬ完璧なコピー。


「ギャハハッ! いつ見ても不気味で最高だぜ、クレーエの鏡魔法はよぉ!」


 本物のヴァリスが大口を開けて爆笑する。


「行け、ニセモノ! 竜王の背後からその分厚い首をブチ叩けぇッ!」


「こ、コピーに向かって命令しないでよぉ……っ!」


 クレーエは涙目で文句を言いながら、両手を広げてさらに膨大な魔力を放出した。


「――《魔ノ穿ツ怒リ》ッ!!」


 クレーエの体内から溢れ出た超高濃度の魔術のエネルギーが、本物とコピーの二人のヴァリスへと同時に注入される。


 二人のヴァリスの全身の毛皮が逆立ち、筋肉がさらに二倍近くへと肥大化した。


「「オラァァァァァァッッッ!!!!」」


 ハモる二つの野獣の咆哮。


 本物のヴァリスが右側から、強化されたコピーのヴァリスが左側の完全な死角から。


 二つの超巨大な獣の拳が、挟み込むようにしてウォールの頭部と胴体を同時に襲いかかる!


「竜王殿ッ――!?」


 城壁の上のパラディンたちが思わず悲鳴を上げた。


 だが――ウォールは、笑っていた。


「面白い連携だ」


 ズガアァァァァンッッ!!!


 両側からの死の挟み撃ち。ウォールはその両拳を、それぞれ左右の腕で寸分違わず正面から受け止めてみせた。


 右腕で本物のヴァリスの拳を、左腕でコピーの拳を。


 ひとつひとつの打撃に込められた質量は、山ひとつを削り飛ばすほどの領域。


 それを、ウォールは膝ひとつ曲げず、踏みとどまって受け切ったのだ。


 その背後で、城壁の兵士たちが息を呑み、震え上がった。


「ば……化け物だ……」


「これが……竜王の力なのか……ッ!?」


 ヴァリスは、押し合いながらも黄金の縦瞳孔を極限まで細めた。


「――楽しいなぁ、おい!!」


「それは、こちらのセリフだ」


 ウォールの黄金の瞳が、スッと細くなった。


 次の瞬間――地面が消えた。


 いや、違う。


 ウォールがあまりにも爆発的な速度で前へと踏み込んだため、彼の足に踏み砕かれた地面の石畳が、一瞬遅れて後ろへと超音速で吹き飛んだのだ。


「――【ドラゴン・頭突き】」


 重々しい、冷徹な声。


 ウォールの黒銀の鱗で覆われた頭部が、本物のヴァリスの鳩尾へと、弾丸のようにめり込んだ。


 ドガァァァァンッッ!!


「ぐほっ……!?!?!?」


 腹の中の空気と血液が、一瞬で吐き出される。


 ヴァリスの巨大な身体が、衝撃波の波に乗って後方へ一直線に吹き飛んだ。城壁から数百メートルも離れた荒野の岩盤に叩きつけられ、激しい土煙が舞い上がる。


 残されたコピーのヴァリスが、反射的に横から腕を振り下ろそうとしたが――その拳は空を切った。


 そこにいたはずのウォールの姿が、すでに消え去っていたからだ。


「ひ、左だよッ!!」


 クレーエの悲鳴のような叫びが響くよりも早く――。


 ウォールは、すでにコピーのヴァリスの完全な背後に立っていた。


「うむ。……素晴らしいな。闘力も魔力も、本物と全く同じ密度だ」


 ウォールの竜の足が、容赦なくコピーの膝の裏へと蹴り込まれる。


 ボキァッ!


「がっ……!?」


 膝から崩れ落ちたコピーのヴァリスの顔面へ、上空からウォールの黒銀の拳が落とされた。

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