第16章:氷炎の狂乱ー1
八咫烏の潜伏拠点へと向かう道程は、鼓膜が痛くなるほど、やけに静かだった。
カエサル王都から遠く離れた外れ。鋭く尖った黒い岩山と、ひび割れた荒野がどこまでも続く灰色の大地。
空気は肺の水分を奪うほど乾ききっており、吹き抜ける風は氷のように冷たい。
――これから、大陸の歴史上でも類を見ないほどの凄惨な血の臭いで満たされる場所へ向かっているとは到底思えないほど、頭上の空だけは、どこまでも残酷なほど青く澄み渡っていた。
「いやぁ、カリナ。今日も一段と美しいなあ 風に揺れるその淡い金の髪、白銀の鎧越しにも分かるしなやかな肢体、そして海より深いその青い瞳――」
カエサルの誇る竜騎士レイズが、まるで朝の挨拶でもするかのような気軽さで、隣を歩くカリナに甘い言葉を投げかける。
こいつは、怪我の治療が完治して部隊に合流して以来、毎朝カリナに顔を合わせるたびに一字一句違わぬこのセリフを吐いている。一種のルーティンらしい。
「レイズ殿。……死地へ向かって歩きながら、私を口説かないでもらえますか。剣がブレます」
聖騎士カリナは、一切の表情を崩さず、深い深いため息をつきながらも歩調を緩めなかった。
「なぁなぁ、いい加減どうよ? 堅苦しいウルシアの騎士なんて辞めて、そろそろ我が家に――じゃなくて、我がカエサルに来ないか? 竜騎士カリナって響き、最高に良いだろ?」
「今、完全に我が家って言いかけましたね」
「気のせい気のせい! 俺の有り余る愛がちょっとフライングしただ――」
――ペシィィィンッ!!
乾いた、とても人間の頭を叩いたとは思えない重い破裂音が荒野に響いた。
「黙って歩け、レイズ。舌を噛み切るぞ」
隣を歩いていた竜騎士ミストが、無表情のまま、鋼のガントレットでレイズの後頭部を容赦なく撥ね飛ばしたのだ。
薄い銀色を帯びた水色の髪が、冷たい風に揺れる。その鋭い目つきは万年氷のようだが、どことなく世話の焼ける弟を小突くような、不器用な面倒見の良さが滲み出ている。
「いってぇぇッ!? ミストお前、頭蓋骨にヒビ入ったぞ!? 怪我明けの病人に対する加減ってもんをだな……!」
「戦の前だ。そんな死臭を舐めきった浮ついた空気のまま突っ込まれて、犬死にされても、その後の事務手続きに困る」
「そこは手続きじゃなくて、俺が死ぬことそのものに困ってくれよ! 泣くぞ!」
その漫才のようなやり取りに、カリナが耐えきれずに「くすっ」と小さく吹き出した。
「……ふふっ。ありがとうございます、ミストさん。おかげで、少しだけ緊張がほぐれました」
「……そうか。ならば、殴ってよかった」
ほんの一瞬だけ。ミストの氷のような口元が、わずかに人間らしい温度を持って緩んだ。
やはり、どれほど強大な力を持つ騎士であろうと、同じ死線をくぐる年頃の女性同士。通じ合うものがあるのだろう。
(戦地に立つ騎士の顔と、気を許す素の顔が、ちゃんと分かれてるんだな……)
俺は、彼女たちの背中を数歩後ろから眺めながら、その強靭な精神性が少しだけ羨ましくなって、耳を澄ませた。
◆
「……ミストさんは、どうして竜騎士になろうと思ったのですか?」
カリナが、前を向いたまま静かに問いかける。
「……大した理由はない。力こそがすべてのカエサルで生まれて、物心つく前から剣と槍を握らされるのが当たり前の家で育って。……気がついたら、竜の背に乗り、この立場に立っていた。それだけだ」
「ふふ、十分すぎるほど大した理由だと思いますけど」
カリナが微笑むと、今度はミストが視線を向けた。
「カリナは? ウルシアの聖騎士などという、息の詰まる立場を自ら選んだ理由は」
「私は……守るための役目が、欲しかっただけです」
カリナは、青く澄んだ空を見上げた。
「教会の孤児院で育てられて、来る日も来る日も神への祈り方ばかり教えられて。ずっと教会の奥で守られる側でいることに、ひどく息が詰まって……。だったら、人々の安全を祈る暇があるなら、自分で剣を持って、大切なものを守る側に回った方がずっと確実で早いなって、そう思ったんです」
「……似ているな」
「え?」
「私も、自分の意志で選んだわけではないが……理不尽から誰かを守るための絶対的な強さが欲しかった。……根っこは同じだ」
風に乗って、そんな静かで熱い会話が後ろまで聞こえてくる。
「「……いいですなぁ〜〜……」」
俺とレイズは、横に並んで歩きながら、全く同じタイミングで、全く同じだらしない声を漏らした。
カリナとミストが、ピタリと足を止めて振り返る。二人の騎士の尊い本音トークを、俺とレイズが鼻の下を伸ばして揃って眺めている図は――どう見ても控えめに言ってセクハラだった。
「……何ですか、二人してニヤニヤと」
カリナが、絶対零度のジト目を向けてくる。
「いやぁ、いいですねぇ! こういう戦場の花とも言える、女の子同士の熱い本音ガールズトークってやつは! 俺の荒んだ心が洗われるようだ」
レイズが親指を立てて爽やかに笑う。
「顔の筋肉の緩み方が絶望的にいやらしいんだよ、お前らは」
ミストが氷点下の声で吐き捨てた。
その瞬間――。
『……へぇ。ああいうのが、いいんだ?』
「――ぐえッ!?」
首元に、冷たく鋭い銀の鎖の感触が食い込んだ。
俺の胸元に下がるラナの心のペンダントが、一切の遠慮ゼロで、俺の頸動脈をギリギリと物理的に締め上げてきたのだ。
『これからの死線の前に、他の女の背中を見て「いいですなぁ〜」とかヘラヘラ言ってる軽薄な相棒に、アタシの力、貸すのやめようかなぁ?』
(めちゃくちゃご立腹だ……!? ごめん、悪かったって! 千切れる!)
「お、おい! 大丈夫か名無しの!? 急に首押さえて白目剥いてるぞ!?」
レイズが慌てて俺の肩を揺する。
「だい、じょぶ……ちょっと、ネックレスの鎖が、首に絡まって……」
『絡まってるんじゃないの。絞めてるの。絞めてるの』
ラナのドSな声は、相変わらず俺の脳内にしか聞こえない。
カリナとミストは怪訝そうに首を傾げ、レイズは「お前、まさか極度の緊張で変な性癖に目覚めたのか!?」と本気で心配し始めて――。
「レイズ」
「はいすみませんミストさん、その拳から出てる氷のオーラをしまってください」
戦場へ向かう道中とは思えない、日常のようなやり取り。
命のやり取りを前にした、軽口という名の精神安定剤。
――これが、狂気に満ちた嵐の前の静けさだって分かっていても。俺は、このバケモノたちと歩くこんなくだらない時間が、少しだけ愛おしいとすら感じていた。
◆
やがて、靴底を踏みしめる大地の色が、明確に変わった。
植物の気配が一切死に絶えた、黒ずんだ岩肌。
巨大な質量で強引に抉られたような、ひび割れた大地。焦げたような魔法の戦闘痕が、そこかしこに生々しく散らばっている。
「ここだな……」
先頭を歩いていたミストがピタリと立ち止まり、前方を指差した。
断崖絶壁の下に、ぽっかりと不気味な大口を開けた巨大な洞窟。
――いや、ただの洞窟ではない。その奥には、崩れた巨大な石壁や、神殿のような太い柱の残骸が続いている。千年前の封魔戦争時代に作られた、古代の砦か何かの跡地だ。
「……武装化、セイレーン」
俺は、右耳のパール・ピアスに微かな魔力を流し込み、武装化を部分展開した。
顔の下半分を波打つ水流のマスクが覆い、両目に透明な解析レンズが展開される。
視界が、一瞬だけ深い深海の青に染まり、すぐに元の景色へとピントが合う。
だが、俺の目を通した世界の輪郭は劇的に変わっていた。
空気中の魔力の密度。地形に残された力の流れ。そして、大地にへばりつくような濃密な死の残滓。
――八咫烏の狂った魔力が、この遺跡の奥へ向かって、何層にもドス黒く折り重なって伸びていた。
(……間違いない。ここが奴らの本拠地だ)
ラナが、ネックレスの奥でピンと張り詰めた声で囁く。
『……感じる? 奥から、とてつもなく大きくて歪な気配が……』
(ああ。二つ……いや、もっとか。まるで早く来いってアピールしてるみたいに、嫌な魔力を撒き散らしてやがる)
鼻を突く、すべてを焼き尽くす【炎】の匂い。
皮膚を刺す、すべてを停滞させる【氷】の匂い。
――炎帝のコラキと、氷獄のクエルボ。
「ローディオのおっさんの読み通りなら、本国の襲撃に向かった別動隊を除いて、この奥で待ち構えているのはあの二人だけだ。……多分な」
俺が言うと、ソーが「多分、かよ」と鼻で笑って肩を竦めた。
「まぁいい。どのみち出たとこ勝負のクソ地獄には、すっかりクソ慣れっこだからな」
今日のソーは、明らかに【悪の人格】が前に出ているようで、その藍色の瞳は血を求めるように深くギラついていた。
今回の奇襲部隊に、ギリーエは同行していない。彼はあくまで盤面を動かす頭脳であり、戦場の駒ではないからだ。
ここにいるのは、俺、ソー、カリナ、レイズ、ミストの五名。
それと、カエサルから選抜されたホワイトナイトが三名。七つ星冒険者が二名。
――特に、七つ星冒険者の【双剣の獣人レオン】と【魔導士のシグルド】は、レイズも太鼓判を押すカエサル屈指の腕利きだ。
「陣形は?」
カリナが、白銀の剣の柄に手を置きながら短く問う。
「俺とソー、それに名無しの野郎が前衛で荒らす。カリナとミストが中衛で光と氷の防壁を張りながら、隙を見て急所を突け。……全体の指揮はカリナ、お前に頼む」
レイズが淀みなく言い切り、ミストが小さく頷いた。
「了解した。……ホワイトナイトと冒険者は、前衛のサポートに回りつつ、私の指示に絶対に従え。……お前たちを、絶対に無駄死にさせないことだけは約束する」
(……なるほど。意味のある死なら、許容して飲み込めって意味だな)
ミストの言葉の裏にある、カエサル軍人としての苛烈な覚悟を察し、俺は唾を飲み込んだ。
その氷のような言葉に、部隊の全員の背筋がピンと伸びた。
――そして、俺たちはついに。
人類の命運を懸けた、八咫烏のアジトの深淵へと足を踏み入れたのだった。
◆
古代の砦の内部は、外の荒れ果てた景色に反して、妙に小綺麗に整えられていた。
崩れかけた天井、苔むした古い柱。その隙間を縫うように、石畳の通路と巨大な広間が続いている。
床に積もった塵や埃が少ない。つい最近まで、何人かの人間がここを日常的に行き来していた証拠だ。
警戒しながら進み、最深部と思われるドーム状の巨大な広間へと到達した時。
――そいつらは、すでに玉座のように積まれた瓦礫の上で、俺たちを待っていた。
「ヒヒヒッ……。本当に来おったか。馬鹿正直で、実に可愛らしい連中だぁ」
広間の中央の瓦礫の上に、腰をくの字に曲げて座り込む老人――炎帝のコラキ。
赤黒いボロ布のようなローブに、干からびた枯れ木のような指。
その両手には、封魔戦争の時代に作られた殺戮の黒塗り二丁拳銃――アーティファクト・デザート&イーグルが、遊具のように弄ばれている。
その隣には、大理石の彫刻のように無骨な男が静かに立っていた。
冷たく透き通った氷の目をした、三十代半ばほどの男。髪は白に近い銀色で、その表情の筋肉は一切動いていない。
――【氷獄のクエルボ】。
その右手には、空間の記憶すら改ざんする鈍色のリボルバー、アーティファクト・コルト。
「……ほう。ネズミの数は――ふむ、我々の想定よりもだいぶ少ないな」
クエルボが、氷の瞳で俺たち十人の奇襲部隊を一瞥する。
その視線には、怒りも、恐怖も、一切の感情が欠落していた。ただ、純粋に処理すべきゴミの数を数えているだけの、無機質な視線。
「まぁいいさ。……両国の本国をガチガチに固めて、少数の兵だけでアジトを強襲する。ヒヒッ……全部、カラスの予測の範囲内だぁ」
コラキが、気味の悪い笑いで肩を震わせる。
「歓迎するよぉ、ウルシアとカエサルの愛しき精鋭たち! 八咫烏のアジトに、よくぞ来てくれたねぇ!!」
「アジト、ねぇ……」
ソーが悪意の笑みを全開にし、腰の聖剣ラナと魔剣オボロの柄に、同時に両手を添えた。
「世界中から封魔戦争の武具やらアーティファクトやらをコソ泥みたいに集めてる連中の割には、ずいぶんとクソ辛気臭ぇところに巣食ってんだなァ? 貧乏くせぇクソ烏どもめ」
「おやおや! 聖剣と魔剣、二つの剣に選ばれただけのお坊ちゃんが、ずいぶんと口が悪いねぇ!」
コラキの蛇のような視線が、ソーの腰元の二振りの剣、そして俺の腰にあるムラマサへと、ねっとりと滑る。
「……まぁいい。わしらの目的のブツが、わざわざ自分たちの足で、わしらの目の前まで歩いて来てくれたんだ。感謝しなきゃねぇ!」
――その瞬間だった。
戦いの火蓋は、一切の予備動作なく、唐突に切って落とされた。
パパァァァァァァァァァァァンッッ!!!!
鼓膜を破るような、強烈に乾いた銃声。
「っ――!?」
俺のセイレーンの眼鏡が、弾丸の軌道を捉えるよりも速かった。
放たれた二発の弾丸は、前衛の俺たちを完全に無視して頭上を飛び越え、後方に控えていた七つ星冒険者――【レオン】と【シグルド】の胸元へと、寸分違わず吸い込まれたのだ。
「レオンッ!? シグルドッ!!」
ミストが氷の槍を構え、叫ぶ。
だが――もう、遅かった。
胸を撃ち抜かれたはずの二人の体から、血は一滴も流れていない。
その代わり、二人の瞳から、一気に正気の光が抜け落ちた。
代わりに、その瞳の奥に浮かんだのは……長年仕えた絶対の主に出会えたような、奇妙で狂気的な安堵の色。
「……お待たせいたしました」
獣人の剣士レオンが、両手の双剣をだらりと下げて、深く首を垂れた。
「コラキ様。……クエルボ様」
魔導士のシグルドが、虚ろな声で続く。
「これで、我らが八咫烏の野望を阻む、ウルシアとカエサルのゴミどもを……確実に、我々の手で皆殺しにできます」
ゾワリ、と。
俺の全身の肌が、おぞましい悪寒で粟立った。
――記憶が、完全に書き換えられている。
「ヒヒヒッ! 驚いたかい? アーティファクト・コルトの弾丸には、対象の記憶そのものを強制上書きする素晴らしい効果もあってねぇ!」
コラキが、舞台役者のように両手を広げて、嬉しそうに解説を始めた。
「今、あのカエサルの誇る七つ星冒険者の二人にとって、絶対に殺すべき敵はお前たち! そして、命に代えても守るべき味方は、わしら八咫烏ってわけさぁ!!」
再び、銃声。
今度は、コラキの持つ《デザート》の銃口から、太陽のように燃え盛る光を帯びた弾丸が放たれ、洗脳されたレオンとシグルドの背中へと撃ち込まれる。
「ぐ、おおおおぉぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!!」
二人の肉体が、内側から爆発したように激しく膨張した。
彼らの体から、常識外れの密度の魔力と闘力が、火柱のように天高く吹き上がる!
地面の石畳が耐えきれずに蜘蛛の巣状にひび割れ、広間全体の空気が、彼らの放つ圧力だけで激しく震動した。
「ヒヒヒッ! 《デザート》の弾丸は、対象の持つ闘力と魔力の最大値を、肉体の限界を無視して【最大百倍】まで強制的に引き上げるブースト弾だ! ……さぁ、お前たち!!」
コラキが、狂気に満ちた笑いで両手を天高く掲げた。
「――かつての仲間同士で、仲良く醜く殺し合えぇぇぇーッ!!!」
次の瞬間。
常軌を逸した「百倍」の力にバフ掛けされたレオンとシグルドが、一切の躊躇いなき純度100%の殺意を燃やして、ミストや俺たちへ向かって飛びかかってきたのだった。
「ミストッ!」
「――分かっている!」
洗脳され、闘力と魔力を【百倍】にまで強制ブーストされたかつての仲間たち。
獣人の双剣士レオンと、重魔導斧を構えたシグルドが、完全に理性を失った狂戦士となって躍り出た瞬間――竜騎士ミストが、一切の躊躇いなく一歩前へ踏み出した。
その細く華奢な背中の後ろに、カエサルの誇るホワイトナイトたちと、残りの七つ星冒険者たちが瞬時に陣形を組んで並び立つ。
「レオン! シグルド! お前たちの相手は私たちが引き受ける!」
カリナが叫ぶ。
「行こう! 前衛は――ソー殿、レイズ殿、そしてキミ!」
「了解!」
「任せろ!」
「……うわ、俺だけ名前の呼ばれ方が適当すぎないか!?」
俺は苦笑しつつ、胸元のラナのネックレスを強く握りしめた。
『行こう、相棒。……あんな悪趣味なオモチャ使って笑ってる奴ら、今ここで絶対に落とすよ!』
(ああ、同感だ)
狂乱するレオンとシグルドをミストたちに託し、俺とソー、レイズの三人は、玉座の瓦礫で嗤うコラキとクエルボへと一直線に駆け出した。




