第2章:友好国ミリアー2
「そういえばさ」
カナが、焚き火を小枝で突きながら声を潜めた。
「私たちの向かってるミリア、今ちょっと……いや、かなり騒がしいらしいよ」
「騒がしい?」
「うん。……神獣クラスモンスターが、二体も同時に解体場に運び込まれたって話」
――ドクン。
昼間のスライムの感覚が、フラッシュバックのように俺の右腕に蘇り、胸の奥が激しくざわめいた。
「ああ、クリスタルワイバーンと、アークサーペントだっけか」
「そう。おそらく大規模な縄張り争い。どっちも自分のテリトリーだって一歩も譲らなくて、一晩中地形を変えるレベルで殺し合って……最後は相打ちで両方死んだんだってさ。死ぬまで戦うなんて、どんだけプライド高いのよって話だけど」
「ミリアは今頃、神獣の素材を狙う商人や腕利きの職人、冒険者でごった返してるだろうな。神獣クラスの素材なんて、一生に一度拝めるかどうかの代物だ」
ガロウが薪を足す。
焚き火の火が、パチッと高く爆ぜた。
神獣の死骸。
もし、俺の能力がそれに触れたなら、一体どうなる?
想像しただけで、喉の奥に強烈な渇きを覚えた。
「……騒がしい理由は、それだけじゃあない」
リードが、炎を見つめたまま、重々しい声で言葉を継いだ。
「ミリアには、今もう一つ……とびきり厄介で血生臭い事案がある」
「聖剣ラナ、だな」
ガロウのその一言で。
焚き火の周りの空気が、一気に数度、冷え込んだ気がした。
「……聖剣ラナ」
俺は思わず、その単語をオウム返しに呟いていた。
「噂、聞いてないの?」カナが意外そうに眉を寄せる。
「俺は数日前にこの世界に落ちてきたばっかりの、転移者だぞ」
「ああ、そうだったね。……実はね、つい先日、ウルシア王都から聖剣ラナを回収する精鋭部隊が編成されて、発見された遺跡に派遣されたのよ。
そこまでは良かった。彼らは確かに、遺跡の奥底から聖剣ラナを持ち帰ることに成功したわ」
カナは言葉を切り、自分の腕を抱きしめるように摩った。
「でも……その場にいたリーダー格のAランク冒険者が、聖剣の柄に触れた瞬間に……狂ったのよ」
「狂った……?」
「聖剣の強大すぎる魔力に魅了されて、精神をぶっ壊されたんだ。そいつは、自分の仲間だった回収部隊のメンバーを……全員その場で皆殺しにした」
リードが、淡々と、凄惨な事実を告げる。
「そいつは今、聖剣を抱えたまま、ミリアの国境付近にある古城に籠城してる。
……で、今度はミリアとウルシアの連合で、その魅力されたAランク冒険者を討伐し、聖剣を奪い返すための奪還部隊を大々的に編成するって話だ」
焚き火の向こう側で、夜の闇がさらに一段と濃くなった気がした。
「聖剣ってのは……世界を守るための武器じゃないのか?」
「本来はな。だが、聖剣ってのは強烈な意志を持ってる。……使う人間の方の精神が脆いと、どっちが主でどっちが道具か、分からなくなるのさ。剣に心を喰われるんだ」
ガロウが忌々しげに吐き捨てる。
「魔族の封印が揺らいでいるという噂と同時に、各地で聖剣や魔剣、アーティファクトが発見され始めた。世界が、千年前の封魔戦争をもう一度繰り返そうとしているみたいにな」
聖剣。魔剣。アーティファクト。
聞くだけなら、ただの胸躍る英雄譚だ。
だが、その英雄譚が、血と肉を伴って、街や人を巻き込み始めている。
「異世界ボーイは何がなんだか分かんないでしょ」
カナが無理に笑って、少し肩をすくめた。
「あんたのいた世界より、たぶんこっちのほうが修羅場多そうね」
「……やめてくれ。俺は一生、ギルドの雑用係で平穏に終わる予定なんだ」
「願望ってのは、いつだって叶わないことが多い」
リードが、炎の向こうから俺を真っ直ぐに見据えて言った。
「世界が、キミを放っとかないかもよ?」
その言葉が、やけに重く、予言のように俺の胸に突き刺さった。
火を見つめながら、不意に自分の右手のひらが気になった。あのときの、悍ましいぬめりと、強大な力の奔流。
この世界に来て、俺はまだ本当に何もしていない。
でも、何もしていないうちから、俺はすでに謎の力を持ってしまっている。
それが、少しだけ、いや――どうしようもなく恐ろしかった。
四日目の昼前。
街道を囲む森が一段と深くなり、頭上の枝葉が太陽の光を遮って、昼間だというのに薄暗い影が落ち始めたころ。
「……警戒しろ」
荷車の横を歩いていたリードの声が、不意に、極限まで低く落ちた。
「風下にゴブリンの臭いだ」
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
ギィィィヤァァァァッ!!という、耳障りで甲高い下劣な笑い声が、頭上の木々の間から響き渡った。
「上だッ!!」
リードの鋭い叫びと同時。
ヒュンッ!と風を切る音が鳴り、一本の粗末な矢が俺の頬を数ミリの差で掠め、すぐ横の荷台の木箱に深々と突き刺さった。
次の瞬間には、頭上の太い枝から、緑色の肌をした醜悪な小さな影が、刃こぼれした短剣を振りかざして次々と飛び降りてくる。
歪な黄色い牙。血と泥に塗れた腰布。ただ人間を嬲り殺すことを快楽とする、知能の低い悪意の塊。
「馬車の下に隠れてろ、新人!!」
ガロウの怒号に、俺は反射的に荷車から地面へ転がり落ち、車輪の陰に身を伏せた。
俺を狙って飛び降りてきた一匹目のゴブリンの首を、カナの双剣があっさりと、まるで紙でも切るかのように交差して切り裂いた。
黒黒とした血が吹き出し、俺の目の前の土にボトボトと嫌な音を立てて落ちる。
別の枝から奇襲をかけようとした二匹目は、空中にいる無防備な状態のまま、リードの放った矢に正確に喉笛を射抜かれ、声も出せずに絶命した。
さらにその後ろから、三匹目と四匹目が同時に馬車へと飛びかかった瞬間。
「オラァァァッ!!」
ガロウの背丈ほどもある大剣が、空気を叩き潰すような凄まじい風切り音を立てて横一文字に唸った。
メチャッ! という、肉と骨がまとめて粉砕される嫌な音。
二匹のゴブリンは、悲鳴を上げる間もなく、上半身と下半身を文字通り真っ二つに薙ぎ払われ、森の奥へと吹き飛んでいった。
「……四匹か。群れにしちゃあ、随分と少ないな。はぐれか?」
刃についた黒い血をブンッと振り払いながら、ガロウが警戒を解かずにぼそりと呟く。
俺からしてみれば、心臓が口から飛び出るほど恐ろしい本物のモンスターの襲撃だ。
だが、Bランクである彼らにとっては、道端の小石を蹴り飛ばす程度の日常業務でしかない。これが、プロの冒険者。
「大丈夫かい、新人くん?」
リードが周囲の木々に警戒の視線を向けたまま、俺に声をかけてきた。
「ああ……なんとか」
俺は息を整えながら答えたが――俺の視線は、すでに別のものに釘付けになっていた。
車輪のすぐ傍に転がっている、リードの矢に喉を射抜かれたゴブリンの死骸。
ひん剥かれた濁った目。ひきつった醜い口元。人型に近いが、間違いなく人間ではない異形の生物。
(……行けるか?)
自分自身に問いを投げかけた。
おそらく能力の対象は、人間以外の生物の死骸。
悍ましい死体に触れたいという好奇心と、触れたくないという嫌悪感が、俺の頭の中で激しく綱引きをしている。
「……ちょっと、反対側の荷物が落ちてないか見てくる」
俺はわざと荷車の裏手へと回り込み、護衛たちの視線が死角に入った一瞬の隙を突いて、しゃがみ込んだ。
そして、ゴブリンの死骸の細い腕を、思い切って掴んだ。
――グチュンッ。
スライムの時とは全く違う、もっと硬く、重たく、そして生々しい感触だった。
ゴブリンの肉体が、まるで内側から破裂するように「ぼふっ」と崩れたかと思うと、骨と肉と硬い皮膚がぐちゃぐちゃに混ざり合い、一気に細長く伸びて俺の右腕へと絡みついてきたのだ。
「……なんだ、これ」
俺の右手の中に握られていたのは、奇妙な形をした曲剣だった。
刀身は歪にねじ曲がり、ところどころがノコギリのように欠けている。だが、その刃先だけは、不気味なほどに黒光りして鋭利だった。
柄の部分はゴブリンの骨と皮が融合したような独特のザラつきがあり、強く握り込むと、手のひらに吸い付くようにピタリと馴染む。
試しに、その刃物で空を軽く払ってみる。
――ヒュッ!
細く、鋭い風切り音。見た目の無骨さに反して、驚くほど軽量で振り回しやすい。
力任せに叩き斬る剣ではなく、相手の隙を突いて急所を切り裂く、卑劣で野蛮なゴブリンの性質そのものを体現したような武器。
(……なるほどな。防具だけじゃなく武器にもなるのか)
対象となるモンスターの魔力や性質を読み取り、最適化された武具として俺に形を与える。
俺が手を離すと、手の中の刃物は一瞬にして砂が崩れるように元のゴブリンの死骸へと戻り、地面にドサリと落ちた。
生物の死骸を、俺が纏っている間だけ武具に変える異能――武装化。
俺の能力の輪郭が、また一つ、ハッキリと理解できた。
「おーい! 荷物は大丈夫そう!?」
カナの声に、俺は心拍数を落ち着かせて立ち上がった。
「ああ。問題ない。無事だ」
「顔色、ちょっと悪いよ?」カナがダガーをしまいながら笑う。「まあ、いきなりゴブリンが降ってきたらビビるよね。ちょっと危なかったし。今夜、街に着いたら軽めに一杯飲む?」
「明日に響くから、飲みすぎるなよ」
「それ、私が言おうとしてたセリフなんだけど」
カナと軽口を叩き合いながらも、ゴブリンの死骸から離れるにつれて、俺の胸のざわめきは徐々に薄れていった。
能力の正体が少しずつ解明されていく分、それと同時に得体の知れない恐ろしさも増していく。
自分だけが持っている、常軌を逸した武器。切れ味は抜群だが、それを収める鞘がまだ見つからない。そんな危うい感覚だった。
◆
夕方。
鬱蒼とした森が途切れ、パッと視界が開けた瞬間。俺たちの目の前に、巨大な街の輪郭が姿を現した。
高く堅牢な石壁に囲まれた、大きな都市。
王都ウルシアよりは一回り小さいが、それでも十分に国と呼べる規模だ。無数の煙突から夕飯の支度の煙が空へ伸び、開かれた城門の前には、商人や旅人たちの長い列ができている。
「あれが、隣国ミリアの王都だ」
ガロウが、首の骨をゴキリと鳴らして笑った。
「あそこは飯がうまいんだよなぁ。肉の焼き方が分かってる」
「それ大事だよねー」カナが伸びをする。「ウルシアの宿屋のパン、ちょっと固すぎない? 歯が折れるかと思ったよ」
「カナは味にうるさいからね」
リードは弓を肩に担いだまま、遠くに見えるミリアの街を、狩人の目でじっと眺めていた。
「……あの辺りかな」
「何が?」俺が尋ねる。
「神獣の死骸が運び込まれてるっていう、巨大な解体場さ。街の南側……煙が濃く上がってる辺りだ」
リードが顎で指し示す。
「それと……暴走したAランク冒険者から聖剣ラナを奪還するための合同部隊が集結している軍の駐屯地も、あのすぐ近くだ」
言われて目を凝らすと、確かに街の南側だけ、空気がどこか異質にざわついているように見えた。
煙の量も尋常ではなく、遠目にも黒い甲冑を着た兵士たちや冒険者の影が濃く集まっているのが分かる。
ここからでは詳細までは見えないが、街全体が巨大な火薬庫のように、落ち着かない呼吸を繰り返しているような危うさがあった。
「俺たちの仕事は、あくまでこの物資をギルドの倉庫へ届けて、引き渡すまでだ」
ガロウが大剣の柄を叩いて言った。
「だが……もし聖剣ラナを奪還した部隊の一員にでもなれりゃあ、一気に名が上がるし、金も破格だろうな」
「確かに。ロマンはあるな」
なぜ俺が肯定したのか、自分でもよく分からなかった。
自ら首を突っ込む気なんて、サラサラない。ただ、「絶対に無関係ではいられない」という嫌な予感だけが、薄く、だが確実に喉元に貼りついていた。
「でもさ」カナがニッと小悪魔のように笑う。「おとぎ話の伝説に関わるのって、ちょっとワクワクしない?」
「俺は全くしない」俺は即答した。「安全な場所で平穏に終わるのが俺の理想だ」
「あはは、いいねそれ。私も冒険者になったばっかりの頃は、似たようなこと思ってた時期があったなぁ」
「今は違うのか?」
「今? うーん……絶対に死なない所で、誰よりもおいしい思いがしたいかな!」
それはそれで、ものすごくタチの悪い危険な願望だ。だが、自分の欲望にどこまでも正直な彼女の生き方は、嫌いではなかった。
馬車はゆっくりと、ミリアの街へと近づいていく。
陽が完全に沈みかけ、空に浮かぶ二つの月が、その青と赤の姿を濃くしていく。夜風が少し冷たくなり、馬の吐息が白く曇った。
聖剣ラナの暴走。
神獣の死骸。
魔族の封印の揺らぎ。
まだ全部が、俺には関わりのない他人事のはずだった。
なのに、なぜかその全てが、蜘蛛の糸のように自分の首のすぐ近くに絡みついてきているような気がしてならなかった。
――ただの雑用係でいたい。
本気でそう願いながら、俺はミリアの巨大な城門を見上げた。
だが、この時の俺はまだ知らなかったのだ。
このミリアの街で起こる出来事が、俺の隠された能力を完全に引きずり出し、この世界の輪廻のド真ん中へと俺を叩き落とす最初の引き金になるということを。




