第2章:友好国ミリアー1
冒険者ギルドの朝は、泥臭い怒号と乾いた鐘の音から始まる。
昨日と同じように、分厚い樫の木の扉を押し開けた瞬間、むせ返るような酒と汗の匂いが俺の顔をぶん殴ってきた。
だが、この狂騒の空間にも、たった一日で順応しつつある。人間の適応能力は凄まじい。
「おーい! 新人雑用くーん! こっちこっち、待ってたよー!」
カウンターの奥から、昨日の受付嬢が満面の営業スマイルで手を振ってきた。
「おはよう。……その顔、嫌な予感しかしないんだけど」
俺が警戒度マックスで近づくと、受付嬢は悪びれる様子もなく、一枚の羊皮紙を俺の胸元へピシャリと突き出してきた。
【物資輸送補助 ウルシア王都 → 友好国ミリア】
依頼書の内容はシンプルだった。食料、薬、そして工具を山と積んだ馬車二台を、隣国ミリアまで無事に送り届ける。片道の道程はおよそ五日。
護衛は三名。俺の担当は積み込み・積み下ろし・及び夜間の簡単な見張り。
「……おい。俺、剣も魔法も使えないFランクだぞ? 王都の外に出ても大丈夫なのか……?」
「平気平気! あんたは雑用枠だからね。馬車から荷物を落とさず、泣いて逃げ出さなきゃそれで百点満点よ」
受付嬢はウインクを一つ落とし、親指で壁際で屯している一団を指差した。
「護衛にはBランク冒険者を三人もつけるから。野生のモンスターに関しては、あんたは指一本動かさなくていいわ」
彼女が指差した先。
酒場の隅のテーブルを占拠している三人の男女。彼らを見た瞬間、俺の背筋にゾクッと冷たいものが走った。
長弓を背負い、細身のレイピアを腰に差した、長い黒髪で線の細い男。
短く刈り込んだ赤い髪、腰に二本のダガーを下げた、野猫のような目つきの女。
そして――背丈ほどもあるバカみたいに巨大な大剣を背負った、無精髭の大男。
その三人の周囲だけ、他の冒険者たちが明らかに避けて通るような、目に見えない圧力のようなものが存在していた。
「リード、カナ、ガロウ。三人ともBランク冒険者。王都のギルドじゃ、そこそこ名の知れた腕利き連中よ」
受付嬢が声を張ると、三人はジョッキを置いてこちらへ歩み寄ってきた。
「『そこそこ』は余計だな、お嬢さん」
弓使いの男――リードが、柔和な笑みを浮かべながら言う。だが、その目は全く笑っていない。常に周囲の死角を測る、狩人の目だ。
「こう見えても俺達、三人揃えばどんなゴブリンの群れが来ようが負けることはねーぜ?」
大剣を背負った大男――ガロウが、自慢げに自身の分厚い胸を叩く。
「……ゴブリンに勝てるって、それ、自慢になってるのか?」
俺が思わず真顔でツッコミを入れると。
三人はピタリと動きを止め、「おお?」というように一斉に俺へ視線を突き刺してきた。
「お前が噂の新人か」
ガロウが見下ろすように言う。
「昨日、受付のお嬢ちゃんが言ってたぜ。戦えねぇくせに、目は死んでない面白いヤツが入ったってな」
「ただの雑用係だよ。戦えないのは本当だ」
「戦えねぇなら、余計な足手まといにならなきゃそれでいい」
短剣の女――カナが、ガムを噛むような口調で鼻を鳴らした。
「荷車が動かなきゃ、アタシらの仕事も始まらないからね。よろしく頼むよ、新人くん」
「そういうこった」
ガロウはあっさりと右手を差し出してきた。
握り返したその手は、まるで丸太のように分厚く、硬かった。無数の切り傷とタコでひび割れた皮膚。彼らが今までどれだけの血と泥をすすって『Bランク』まで登り詰めたのか、その生き方が手のひらに克明に刻み込まれている。
「昼前には出立するよ! ちゃっちゃと支度しておいで。南門の前で集合ね!」
受付嬢が別の作業をしながら言った。
羊皮紙を丸めながら、俺はギルドの二階へ目を向けた。昨日確認した巨大な大陸地図が壁に掛かっている。
ウルシア王国の西隣に、小さく『ミリア』と記された国。大陸四十二カ国のひとつ。
俺のいた日本よりずっと大きくて、そして、ずっと死の距離が近い世界。
――隣の国へ行く。
文字にすれば大したことのないおつかいだ。だが、異世界に転移してまだ数日の俺にとって、あの強固な白壁の外に出るということは、サバンナのド真ん中に丸腰で放り出されるのと同じ意味を持っていた。
◆
昼前。王都の南門。
そこには、幌馬車が二台、既に待機していた。荷台には隙間なく木箱、麻袋、酒樽。米、干し肉、芋、薬草、包帯、工具。そして見慣れない形をした鉄の農具が束ねられている。
「よし、新入り! 最後の酒樽、奥の方にきっちり寄せて固定してくれ!」
「了解」
ガロウの指示に合わせて、俺は重い酒樽を荷台の奥へ押し込む。ロープを素早く結び、荷崩れしないように楔を打ち込む。
重労働だが、現代日本で理不尽なブラック労働を経験してきた身体には、これくらいどうってことはない。何より、手を動かしている間は、明日死ぬかもしれないという恐怖を考えずに済む。
「へぇ、随分と手際がいいじゃない。積み方が上手いね」
荷車の横でダガーの手入れをしていたカナが、少し感心したように言った。
「こういうのは、積み方がヘタクソだと道中の悪路で荷崩れを起こすんだ。そうなったら、泣きながら全部積み直すハメになるからね」
「そういうのは、積む前に教えてほしかったな」
「お、言うねぇ雑用係〜。その減らず口、嫌いじゃないよ」
軽口の応酬は、ガチガチに強張っていた俺の緊張の糸を、少しだけ解いてくれた。
リードは馬車に寄りかかり、弓弦の張り具合を指で弾いて確認しながら、南門の上の空を静かに見上げていた。
「……今日は、空がひどく静かだな」
「ドラゴンが飛んでいない方が、安全でいいんじゃないのか?」
俺が聞くと、リードは首を横に振った。
「そりゃあね。でも、ドラゴンが上空の縄張りを捨てて、見えないくらい低く飛んだり、姿を隠したりする日は……大抵、ロクでもないことが起きる前兆なんだよ」
言いながらも、リードの声はひどく淡々としていた。
この世界の住人にとって、ドラゴンは伝説ではなく、ただの日常の天気の一部なのだ。
俺の持っている常識のほうが、ここでは完全に浮いている。
ギギギギギッ……!
重厚な南門が、耳障りな音を立てて開かれていく。
武装した門番の兵士が通行証を確認し、交差させた槍を退けた。
門を抜けた瞬間――外の世界の濃い土と獣の匂いが、俺の肺に一気に流れ込んできた。
綺麗に舗装された石畳はすぐに固い土の道へと変わり、道の両脇には手入れされた畑が広がる。だが、そのさらに遠くには、一切の光を拒絶するような黒々とした深い森。そして、空を穿つような山脈の影が連なっていた。
「ウルシア王都、初の出都おめでとう、新入り」カナがニカッと笑う。「どうだい? 壁の外の感想は?」
「……空が広いな」
俺の口からは、そんな陳腐な言葉しか出てこなかった。けれど三人は、その答えに妙に満足そうに頷いた。
「そうだろうな」とガロウが大剣を揺らす。「王都の分厚い壁の中に長くいると、外の世界ってのがどっか遠くの世界って錯覚しちまうんだよな、オレに言わせてみりゃ生きてる実感がねーな!」
「俺は、転移してきた瞬間からずっと、生きてる実感がないけどな」
俺がポツリと本音をこぼすと、三人の視線が一斉にこちらへ突き刺さった。数秒の沈黙の後、リードが少しだけ同情するように肩をすくめる。
「……そうだな。キミの事情の場合は、俺たちの物差しとはスケールの桁が違うからな」
自分から言いふらしているわけではないが、護衛として命を預け合う相手には、俺が『別の世界からの転移者』であることはギルドを通して伝えてある。
そのたびに、彼らのような強者からは、驚きと憐れみの中間のような、ひどく複雑な顔をされるのだ。
「まあ安心しなよ、異世界ボーイ」カナがダガーを鞘に収める。「私らがしっかり護衛してやる。もしモンスターが出ても、あんたの仕事は荷車から落ちないこととおしっこ漏らして腰を抜かさないことだけだからね」
「それも、立派な仕事だ」ガロウが豪快に笑う。「死なずに生きて帰るのも、冒険者の仕事のうちだからな」
その言い方は冗談半分に聞こえたが――彼らの目ん玉の奥は、これっぽっちも笑っていなかった。
最初のモンスターと遭遇したのは、陽が傾き始めた午後のことだった。
ぬかるみの多い薄暗い林道を進んでいると、先頭を引いていた馬が突然「ブルルルッ!」と甲高い嘶きを上げ、怯えたように耳を伏せて立ち止まった。
「……止まれ」
ガロウが低く、だが絶対の命令として声を落とす。
ブクッ、ブクククッ……。
静まり返った森の奥。腐葉土に覆われた地面から、泥が沸騰するような気味悪い音が響いた。
道のド真ん中、空間が歪んだかのように、ぬるりとした半透明の巨大な塊が、地中から這い出してくる。
「スライムか。こんな街道沿いに出るなんて、久々だな」
リードが、微塵の焦りもなく背中の長弓を手に取った。
もう一体。さらに一体。
道の両脇の茂みから、胃液を煮詰めたような酸の臭いを撒き散らしながら、とろりと溢れ出してくる。数は全部で五体。
おとぎ話に出てくるような愛らしいスライムではない。不純物と消化途中の動物の骨を体内に浮かせた、醜悪な動く強酸の塊だ。
「毒とか、酸とか飛ばしてくるのか?」
俺が荷台の木箱の影から尋ねると、ガロウが大剣の柄に手をかけながら鼻で笑った。
「色が薄い。ただの雑魚だ。――リード、カナ」
ヒュンッッ!!
ガロウの指示が終わるより早く、リードの放った二本の矢が、空気を裂いて同時に飛んだ。
矢は、スライムの体内に浮遊する魔力の核を寸分の狂いもなく貫き、二体のスライムがベチャァッ!と音を立てて泥のように崩れ落ちる。
「はい、スライム狩りの時間だよっと!」
カナが獣のような跳躍で飛び出した。
両手のダガーが、残る三体のスライムを文字通りみじん切りにしていく。粘着質な体液が飛び散るが、カナはそれらを紙一重で躱し、踊るように魔物の核を的確に破壊していった。
時間にして、わずか十秒。
「はい終わりー。ほら新人くん、毒はないからビビらないの〜」
ダガーについた粘液を払いながら、カナがからかうように笑う。
「ビビってない」
「えー? 顔、ガチガチに固まってるぞ〜?」
軽口を叩き合う彼らの裏で。
俺の視線と意識は、道端で原型を留めずぺしゃんこの死骸となったスライムの残骸に、強烈に、そして不気味なほど吸い寄せられていた。
胸の奥で、ドクン、と心臓が異様に跳ねる。
――触れろ。
本能が、そう叫んでいた。
「……ちょっと、荷崩れしてないか見てくる」
俺は自分でも驚くほど自然な嘘をつき、護衛たちの視線から隠れるように荷車の裏手へと回り込んだ。
誰もこちらを見ていない。
俺は息を殺してしゃがみ込み、まだ微かに酸の臭いを放つスライムの死骸へと、ゆっくりと右手を伸ばした。
人間ではない。生物の死骸。
指先が、その冷たくて半透明なゼリー状の肉塊に触れた、その瞬間だった。
――ゾワァァァァァァッッ!!!
手のひらから肘にかけて、まるで何万匹もの虫が這い上がってくるような、強烈で悍ましい感触が駆け上がった。
ベチャベチャだったスライムの死骸が、突如として意志を持ったかのように弾け、形を変える。
ドロドロの肉塊が一瞬で硬質化し、俺の右腕全体に、生きた装甲のようにピタリと吸い付き、同化したのだ。
「……っ!?」
俺は思わず息を呑んだ。
右腕を覆い尽くしているのは、青みがかった半透明の機械のような【ガントレット】。
内側は生温かく俺の皮膚に密着し、外側は金属のように硬い。拳を握ると、スライムの核の魔力が回路となって、手の甲に淡い紋様が脈動するように浮かび上がった。
――使い方が、分かる。
脳内に、この兵器のトリガーの引き方が直接ダウンロードされていく感覚。
俺は、林道の脇の太い樹木に向かって、右腕を突き出した。
ピュッ!!
ガントレットの手の甲から、透明な液体が高圧で発射された。
液体が樹木の幹に触れた瞬間、ジュワァァァァッ!と凄まじい音を立てて、分厚い樹皮が黒くドロドロに溶け落ちた。
「……溶解液、か」
俺は震える声で呟いた。スライムが体内に持っていた特性。それを、そのまま兵器として変換したのだ。
これが、俺の能力。
「おーい、新人! 何やってる、出発するぞ!」
ガロウの野太い声に、俺はハッとして顔を上げた。
視線を腕に戻すと、意識が切れたせいか、右手のガントレットはすでに形を失い、ただのドロドロの汚い死骸に戻って地面に落ちていた。
……なるほど。
俺が触れている間だけ武装化し、離せばただの死骸に戻る。
それが、この能力の条件か。
「ちょっと足滑らせただけだ。今行く!」
俺は心臓の鼓動を無理やり押し殺し、何事もなかったかのように荷車へと戻った。
◆
その日の夜。
俺たちは街道脇の開けた広場で野営の準備を整えていた。
パチパチと爆ぜる焚き火の上で、塩漬けの干し肉と芋を入れたスープがぐつぐつと踊っている。空には、不気味な二つの月。
「で、どうよ? 壁の外の初遠征の感想は」
カナが熱いスープの入った木皿を片手に、ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んできた。
「……思ったより、異世界感がねぇなって」
「異世界感、ねぇ」
リードが弓の手入れをしながら、呆れたように苦笑する。
「余裕なのはいいけど、気は抜いちゃだめだよ。今日は俺たちがいたからスライムとの戦闘で無傷で済んだけどね」
「お前らとだから危機感が湧かないのかもな。Bランク冒険者ってのは、どのぐらい強いんだ?」
俺が尋ねると、ガロウがスープを豪快に飲み干して口元を拭った。
「王都のギルドじゃ、Bランクなんてのは掃いて捨てるほどいる中堅だ。
だが、辺境の田舎村なら、Bランクが一人駐留してりゃ大体の脅威に対処できるな」
「じゃあ……王都で聞いたんだが、Sランクってのは、やっぱり別格なのか?」
「別格なんてもんじゃないかな」
リードの声の温度が、スッと一段下がった。
「単独での神獣クラスモンスターの討伐が可能とされる、生きた災害さ。本気で戦えば山が一つ、地図から消し飛ぶって話だ」
山が消える。冗談か本気か分からないその響きに、俺は思わず乾いた笑いを漏らした。
「そういえばさ」
カナが、焚き火を小枝で突きながら声を潜めた。
「私たちの向かってるミリア、今ちょっと……いや、かなり騒がしいらしいよ」
「騒がしい?」
「うん。……神獣クラスモンスターが、二体も同時に解体場に運び込まれたって話」
――ドクン。
昼間のスライムの感覚が、フラッシュバックのように俺の右腕に蘇り、胸の奥が激しくざわめいた。




