第1章:始まりの唄
――視界の裏側で、無機質な閃光が弾けた。
網膜を焼き切るような光の直後、全身を包んでいたネットリとした東京のアスファルトの熱気が、一瞬にして消え去った。
代わりに足裏を乱暴に突き上げてきたのは、ひどく冷たく、不揃いに削られた硬い石畳の感触。
「……は?」
肺に流れ込んできた空気に、思わず咽せた。
排気ガスの匂いがしない。代わりに鼻腔を突いたのは、獣の脂が焦げるような生臭い匂いと、鉄錆、そしてどこかで焚かれているむせ返るような薪の煙。
乾いた夜風が頬を撫でる。
俺は、無意識のうちに息を殺し、ゆっくりと上空を見上げた。
空には、不気味なほど赤く濁った月と、青白く凍りつくような月の二つが、重なり合うように浮かんでいる。
そして、その双月の光を遮るように――巨大な影が、音もなく空を滑っていった。
コウモリではない。鳥でもない。
ビル一つ分はあろうかという漆黒の巨体。空気を切り裂く強靭な皮膜の翼。
ファンタジー系の作品でしか見たことのない、本物のドラゴン。
「……マジかよ」
俺の口からこぼれた声は、自分でも呆れるほど情けなく、乾いていた。
視線を下ろせば、目の前には天を突くような巨大な白亜の城壁がそびえ立っている。
腰に無骨な長剣を下げ、金属の鎧をすり鳴らしながら歩く兵士たち。粗末なランプの光が揺れる露店。飛び交う、聞いたこともない異国の言語。
いわゆる異世界転移。
アニメや小説なら、ここで主人公が歓喜し、己のチート能力に期待して駆け出す場面だ。
だが、20数年間、現代日本という安全な泥沼で生きてきた俺の脳髄が叩き出した指令は、好奇心でも興奮でもなかった。
――動くな。目立つな。立ち尽くしていれば、死ぬ。
生存本能が全身の毛穴をブワッと開かせた。
周囲の景色に溶け込もうと、路地裏の暗がりへ一歩後ずさった、その瞬間。
「――おい。そこのお前」
背後から、声がした。
心臓が跳ね上がり、反射的に振り返る。
暗がりの中に立っていたのは、銀の胸甲に深い青色の外套を纏った、長身の騎士だった。
腰に帯びた剣の柄には、すでに手が添えられている。
だが、不思議なことに、俺はその騎士の口から発せられた未知の言語の意味を、まるで母国語のように完璧に理解していた。
「……何か、御用ですか」
俺は両手をゆっくりと胸の高さまで上げ、敵意がないことを示しながら答えた。
騎士は、俺の異質な服装と、手ぶらであること、そして何より目を数秒間値踏みするように見つめ、小さく鼻を鳴らした。
「……いや。敵意はないようだな」
騎士は剣の柄から手を離し、呆れたように肩をすくめた。
「お前、ひどい顔をしているぞ。まるで自分のいた世界が丸ごと消えちまったような、迷子の顔だ。……事情があるなら、ギルドへ行け。そこでなら、身分証のない野良犬でも拾ってくれる」
「……ギルド」
「ついてこい。裏路地に入って、チンピラに身ぐるみ剥がれる前に案内してやる」
騎士の背中は、隙だらけに見えて全く隙がなかった。
俺は余計な口を叩かず、ただ黙ってその背中を追うしかなかった。
◆
案内された先は、街の喧騒の中心に建つ、一際巨大な木造の建造物だった。
分厚い樫の木の扉には、二本の剣と獣の頭骨を交差させた、野蛮な紋章が深く刻み込まれている。
ギギィッ、と。
重い扉を開け放った瞬間――物理的な熱気と獣の匂いが、津波のように俺の全身を殴りつけてきた。
「――おい! そのオークの皮は俺のパーティーが狩ったもんだろが!!」
「あァ!? 寝言は死んでから言えや、このクソ野郎!!」
怒号。ジョッキが割れる音。安酒のむせ返るようなアルコール臭。血と汗と、そしてむき出しの欲望の匂い。
広いホールには、傷だらけの鎧を着た大男や、杖を持ったローブ姿の人間たちがごった返している。店の奥では、魔法らしき小さな爆発音が鳴り響き、店主の野太い怒声が飛んでいた。
冒険者ギルド。
それは言葉通りの、命をチップにしたならず者たちの混沌の見本市だった。
「ほら、受付が空いてるぞ。行け」
騎士は顎でカウンターをしゃくると、俺の返事も待たずに夜の街へと消えていった。
俺は唾を飲み込み、カウンターへと歩み寄った。
「はいはい、新規の登録ね?」
カウンター越しに声をかけてきたのは、愛想の良い笑顔を顔に貼り付けた、目つきの鋭い受付嬢だった。
彼女の視線が、俺の頭の先から足元までを、わずか一秒で舐め回す。
「……変なナリね。武器は? 持ってない。じゃあ、剣術か魔法の心得は? あら、魔力も……全く感じないわね」
受付嬢の言葉は、氷のように冷徹だった。
「……どっちも、使えない」
俺が正直に答えると、彼女はペンを走らせる手を止め、ふっと吹き出した。
「素直なのはいいことよ。変に実力を偽るバカは、数日後には平原で冷たくなってるから」
受付嬢は引き出しから、くすんだ銅色のプレートを無造作に取り出し、カウンターに放り投げた。
「じゃ、今日からあんたはFランクの雑用班ね。荷物運び、ドブ掃除、ポーションの瓶洗い。何でも屋よ」
「……雑用班」
「ええ。ここはウルシア王国。大陸でも二番目にデカい、冒険者至上主義の国よ。
力のない新人の雑用係は、ある意味で一番需要がある大事な歯車なの。……せいぜい、魔物の餌にならないように、地道に小銭を稼ぐことね」
俺は、冷たい銅のプレートを握りしめた。
ウルシア王国。その国名だけが、なぜか鼓膜の奥にこびりついて離れなかった。
◆
ギルドから前借りで紹介された、軋むベッドしかない安宿の一室。
ギルドの備品である、麻と革でできたこの世界のスタンダードな服に着替え、俺は窓枠に寄りかかった。
窓の外には、石畳を照らすオレンジ色の魔導ランプの光。
二つの月。巡回する重武装の騎士たちの足音。
俺はこの世界の人間じゃない。常識も、歴史も、何も知らない。
なのに、なぜ俺は彼らの言葉を理解し、彼らも俺の言葉を理解している?
(……言語翻訳のチートか? それがオレに与えられた能力? 他にないか)
腕を振ってみる。ジャンプしてみる。念じてみる。
何も起きない。筋肉量も、身体能力も、現代日本にいた頃の平凡な20代後半のまま。正真正銘、ただの凡夫だ。
窓の外、夜空を横切るドラゴンの影を眺めながら、俺は自嘲気味に笑った。
「……ドラゴンのいるファンタジー世界で、何の力もない雑用係かよ」
だが。
その言葉を口にした瞬間。
――ドクンッ。
胸の奥で、心臓が不自然に大きく跳ねた。
音のない、強烈な予感。
論理的な説明など一切つかない。だが、魂の奥底で確信してしまった。
俺は絶対に、この世界の、途方もなく巨大で血生臭い騒動のド真ん中に巻き込まれる。
背筋に冷たい汗が伝う。
なのに――恐怖に震える俺の口角は、なぜか、ほんの少しだけ歪に吊り上がっていた。
翌朝。
安宿の硬い羊毛の薄布団を剥ぎ取り、俺は重い身体を起こした。
夢ではない。窓から差し込む朝焼けの光の中に、相変わらずあの異様な白亜の巨壁と、羽ばたく怪鳥のシルエットがくっきりと浮かび上がっている。
洗面器の冷たい水で顔を洗い、破れかけた革のブーツの紐を固く結び直す。
今日から俺は、この見知らぬ世界で雑用係として生きなければならない。生き延びるためには、なりふり構わず地の底を這い回る覚悟が必要だった。
「お、来たな新人! シャキッとしてろよ、朝の荷車搬入は時間との勝負だ!」
ギルドの裏手に回ると、昨日俺をギルドへ連れてきた青い外套の騎士が、汗を光らせて荷車に樽を積み込んでいた。名前はバルトンというらしい。王都の警備隊とギルドの連絡員を兼ねているベテランの男だ。
「バルトンさん……これ、全部俺たちが運ぶんですか?」
積み上げられた木箱と酒樽の山を見上げ、俺は引きつった声を上げた。
「当たり前だろ! 王都に入る隊商への食糧補給だ。お前みたいなガッツのある新人は助かるんだよ。ほら、手足を動かせ! 文句は汗を流してから言え!」
俺はため息を飲み込み、ズシリと重い木箱を担ぎ上げた。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、皮膚に粗末な麻の服が擦れて痛む。だが、手を止めるわけにはいかない。
荷車を押し、石畳の緩やかな坂道を上っていく。
視界の開けた場所に出た瞬間、王都全体を円状に囲む巨大な白壁が、朝日に照らされて眩いばかりの光を放ち始めた。
「すごいな、この壁……近くだと余計に巨大に見える」
俺が思わず足を止めて見上げると、荷車の横を歩いていたバルトンが、自慢げに胸を叩いた。
「驚いたか? こいつはただの石垣じゃねぇ。ウルシア王都を守る絶対の盾――聖域障壁が組み込まれてる」
「聖域障壁?」
「ああ。外の野生の魔物や、凶悪な魔族を一切寄せ付けねぇ結界の壁だ。……まあ、千年前の封魔戦争の時に造られた古の技術らしくてな。現代の魔法使いどもには、構造の半分も理解できてねぇらしいが」
千年前の封魔戦争。
昨日から何度か耳にしていた単語に、俺の胸の奥がチリリと痺れた。
「……その封魔戦争ってのは、本当の歴史なんですか?」
俺がそう尋ねると、バルトンは一瞬だけ表情を曇らせ、鼻で笑った。
「さあな。歴史書に書いてある通りなら、千年前、大陸を根こそぎ支配しようとした魔族ってバケモノどもに対して、人間、エルフ、ドワーフ、あらゆる種族が同盟を組んで戦ったそうだ。最後には、なんとか魔族を封印して勝利した……って話になってるがね」
「封印……倒し切ったわけじゃないんですね」
「……鋭いな、新人」
バルトンは声を落とし、周囲を警戒するように視線を走らせた。
「そうさ。封印だ。完全に消滅させたわけじゃねぇ。どこかの大地の底に、強大すぎる魔族どもを閉じ込めただけだ。
……まあ、千年も前の昔話だ。今じゃ俺たちのひいひい爺さんのそのまたひいひい爺さんの時代の、童話みたいなもんさ」
そう語るバルトンの目は、笑っていなかった。
千年前の爪痕。それが今なお、この圧倒的な白壁となって王都を覆っている。
◆
隊商へ荷物を引き渡し、ギルドの喧騒の中へ戻ってきたのは、日が高く昇った昼過ぎのことだった。
汗と泥に塗れた身体で、冷えた水を一気に飲み干す。
「ふぅ……死ぬかと思った……」
「お疲れさん、新人くん! ほら、これが今日の午前の給金よ」
カウンターから受付嬢が、チリンと小さな音を立てて、数枚の薄い銅貨を投げ渡してくれた。
手のひらに載った、数枚の金属。これが俺の命の値段か。乾いた笑いが漏れる。
その時だった。
俺の後ろの酒場スペースから、低く殺気立った冒険者たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「おい……聞いたか? グリンデル王国の境界付近で、また八咫烏の奴らが動いたらしいぞ」
「八咫烏だぁ……!? あの、聖剣や魔剣ばかりを執拗に狙ってるって噂の犯罪集団か!?」
「ああ。一説によりゃ、一人一人が我が国の聖騎士並みか、それ以上のイカれたバケモノ揃いだって話だ。一体何企んでやがる……」
「何って、決まってんだろ。剣だよ。《聖剣》と《魔剣》だ」
耳をすます俺の背中に、会話の熱量がじりじりと伝わってくる。
「この大陸のどこかに眠るとされる、六本の聖剣と四本の魔剣……そして五つのアーティファクト。……近頃、その噂が各地で同時多発的に飛び交ってやがる。単なるおとぎ話じゃねぇ」
「馬鹿言え! 聖剣や魔剣なんてものが本当に存在してみろ、魔族が本当にいたってことじゃねえか!」
「だから各国の王族どもが、血眼になって探し回ってんだろうがよ……!」
聖剣。魔剣。アーティファクト。
そして、それらを狙う謎の組織、八咫烏。
ファンタジーの記号のような単語が飛び交うたびに、俺の皮膚の表面がゾワゾワと泡立った。
ただの物語ではない。この男たちの声には、生々しい恐怖が混じっている。
「ねえ、新人くん」
突然、目の前で受付嬢が静かな声で話しかけてきた。
いつの間にか、彼女の顔から営業用の笑みが完全に消え去っていた。
「……気になる?」
「え?」
「聖剣とか、魔剣とか、魔族の噂。……あんた、さっきから息を殺して聞いてたでしょ」
彼女の鋭い瞳が、俺の心の奥底を見透かすように射抜いてくる。
「……まあ、少し。ただのおとぎ話にしては、みんな真剣すぎる顔をしてると思って」
俺が誤魔化すように答えると、受付嬢は肘をカウンターにつき、声をひそめて俺の顔へ寄せた。
「おとぎ話……そう思いたいのよ、みんな。魔族なんて言葉、子供を脅かす時の脅し文句でしか使いたくないの。だけどね……」
受付嬢は、ギルドの外――遠くの空を見つめるように視線を泳がせた。
「ここ数ヶ月、各地のギルド支部から届く報告が、あからさまにおかしいの。原因不明の村の消失、異常な魔力の波長、そして……現れ始めた聖剣や魔剣たち。少しずつ、確実におかしくなってる」
「おかしく……」
「ええ。何かが始まろうとしてる。千年の平和のメッキが剥がれ落ちて、太古の凄惨な時代が、また目を覚まそうとしてる……そんな嫌な予感が、街中に満ちているの」
彼女の指先が、冷たく震えていた。
毎日、無数の命の売り買いを目撃しているギルドの受付嬢が、本気で怯えている。
俺は握りしめた銅貨をポケットへ押し込み、短く礼を言ってギルドを後にした。
◆
安宿の部屋へと戻り、冷えた床に座り込む。
窓枠の外。遠くの雲の切れ間から、夕闇に染まる巨大な黒龍の姿が見えた。
王都の人々は、巨大な白壁の保護の下で、あの龍を見上げても誰一人として悲鳴を上げない。壁があるから安全だ。千年の平穏が守られていると信じ切っているからだ。
だが――俺には見えた。
白壁の向こう側で、うねりを上げて広がる、黒くドロドロとした絶望の波が。
「……やってやるよ。雑用係だろうが何だろうが……生き残ってやる」
静かに狂い始めた世界の中で。
何一つ持たない男の、最初の歯車が、重々しい音を立てて噛み合わさったのだった。




