第12章:レイヴンとヴラーナ
ヒナワが封印されし古代砦の巨大な石門前。
焦げた血の匂いと、暴発寸前の魔力が渦巻く極限の空間で――ソー・ウルシアが、ゆっくりと一歩前に出た。
その横顔には、普段の王子としての温厚で思慮深い面影は一ミリも存在しなかった。
藍色の瞳はドス黒い歓喜に濁り、口元は耳まで裂けるかのような、純粋で醜悪な悪意の笑顔へと歪んでいる。
「へぇ……お前らが、噂の狂信イカれ集団八咫烏か。……大層な名前ぶら下げてる割には、ずいぶんと弱そうなクソガキだなァ?」
ソーが、腰の魔剣オボロの柄を指先で弾きながら、見下すように鼻で笑う。
「はァ? 今、誰に向かってクソガキっつったコラ。……お前、一国の王子様のくせに、ずいぶんと底辺のドブみてぇな口の利き方すんじゃねぇか」
石門の上から見下ろしていたレイヴンが、ピクリと眉をひそめて不快げに凄んだ。
「てめぇこそ、さっきからクソ殺す気満々の目ぇしてんじゃねぇよ。そんな発情期みてぇな目で男を睨むと、一生女にモテねぇぞ、八咫烏くんよォ?」
「殺す気満々だぁ? あたりめぇだろ。今ここでお前の首の骨を引っこ抜いて、そのクソ生意気な口を縫い合わせてやるって決めたからな、クソ王子ッ!!」
――あ、悪ソーが完全に出てきた。
あの下品で攻撃的な口調、そして周囲の空気を凍らせるような血生臭い殺気。完全にそっち側の人格に切り替わっている。
その血みどろの罵り合いを見て、レイヴンの隣にいたヴラーナが、艶やかな黒髪を揺らしてクスクスと笑った。
「フフッ……レイヴィー、落ち着いて? そんなに熱くなったら、せっかくの可愛いお顔が台無しよ?」
「だから! そのレイヴィーって呼び方はやめろって何百万回言ったら分かんだよババ――ッ!」
レイヴンの怒声は、最後まで紡がれることはなかった。
ヴラーナの蠱惑的な笑顔が、にこりと少しだけ深まる。表情の筋肉は一切動いていないのに、その深紅の瞳の奥だけが、絶対零度の吹雪のように冷たく光ったのだ。
「――えぇ? 今、なんて言おうとしたのかしら……? 可愛い可愛いレイヴィーちゃん?」
「……ッ!! よ、よぉーし! クソ殺し合いの時間だぁぁぁッ、クソ王子ィィ!!」
あの化け物みたいなレイヴンが、一瞬で顔を引きつらせて話を逸らした。
完全に尻に敷かれている。
やり取りだけを見ればふざけた三流の悪党のようだが、彼らの放つ気配は正真正銘の最悪にして最強。この二人――間違いなく、物理と幻術という分野の最上位だ。
◆
ソーが悪意の笑みを深めてもう一歩前に進み出ると、レイヴンも石門の縁から立ち上がり、数十メートルの高さを一切の躊躇いなく飛び降りた。
――トンッ。
異常な光景だった。
高質量の体が落下したにもかかわらず、足元の砂埃が一つとして舞い上がらない。筋肉と関節の完全な連動による、落下の衝撃をゼロにする異常な着地技術。
「……よし」
レイヴンが首をゴキリと鳴らし、両の拳を胸の前で打ち合わせた。
「クソ王子、一応名乗れや。本気で殺し合う前の、最低限の礼儀だ」
「ソー・ウルシア。……ウルシア王国第四王子、聖剣ラナと魔剣オボロの適合者だ」
「いいねぇ。俺は八咫烏のレイヴン。あー……お前らを、今日ここで一人残らず全滅させる殺戮者だ」
二人の間に、目には見えないが、触れれば指が吹き飛びそうなほどの濃密な殺気の線が走った。
その絶対のタイマンの空気を裂くように。
ヴラーナがひらりと手首を返し、ソーの脳を直接破壊する幻術を放とうと、白い指を鳴らそうとした。
「フフッ……では、まずは一番元気のいい貴方から、脳髄をドロドロに溶かしてあげましょうか――王子さま♡」
「――ヴラーナぁぁッ!!!!」
レイヴンが、地を這うような野獣の咆哮で怒鳴った。
味方への制止というより、獲物を横取りされそうになった猛獣の本気の威嚇だ。
「そいつに……そのクソ王子に、てめぇの幻術をかけんな」
「……ええ? 何を言ってるの? あなた、放っておいたら殺されちゃうかもしれないわよ?」
「頼む」
普段の暴言が嘘のように、レイヴンは血走った目で、駄々をこねる子供のように短く懇願した。
その瞳の奥にある純粋な戦士としての飢えを見て、ヴラーナは小さく息を吐き、頬に手を当てて妖しく微笑んだ。
「……はぁ。しょうがないわねぇ……。レイヴィーにそこまで可愛い顔でお願いされたら、断れないじゃない」
「だからレイヴィーって言うなブッ殺すぞォォォッ!!!」
そこまでが、戦闘開始前のほんの数秒間で起きた出来事。
だが、そのふざけた会話の裏側で――俺と聖騎士カリナは、すでに死闘のための完全な戦闘態勢を構築し終えていた。
◆
「――来ます」
カリナの声は、氷の湖のように静かで、恐ろしいほど落ち着いていた。
まだ白銀の剣を鞘から抜いていないというのに、彼女の全身からは、周囲の闇を払うほどの圧倒的な光のオーラが立ち上っている。流石はウルシア王国の頂点に立つ聖騎士だ。
ヴラーナの深紅の視線が、ソーから外れ、俺とカリナの方へとゆっくりと移ってきた。
「またお会いしましたね、聖騎士カリナ。光の剣姫という鬱陶しい噂は、大陸のどこにいても耳障りなほど聞こえてくるわ」
「光栄ですね。ですが……私は噂よりも、さらに数段強いです」
シャィィィンッ!
カリナが白銀の聖剣を抜き放ち、眼前の魔女へ切っ先を向ける。
「フフッ、強気な女は嫌いじゃないわ。……楽しみ……♡」
カリナとヴラーナが互いの殺気をぶつけ合う、そのコンマ数秒の隙。
俺は右手の【クリスタルワイバーンの指輪】と左手の【アークサーペントの指輪】と左耳の【黒龍のピアス】の意志回路を全開にしつつ、オーシャンの港町で手に入れた新たな力を起動させた。
(力を貸せ……セイレーン!)
右耳の青いパールのピアスに意識を集中させる。
瞬間、俺の顔の下半分を流線型の青き水流の面頬が覆い、両目には周囲の魔力の波長を視覚化する【透明な水膜のレンズ】が展開された。
幻術使いの天敵。音波を支配し、魔力の屈折を見破る深海の兵器。
(それに加えて……ラナ! 出力の底上げ、頼むぞ!)
『うんっ! 任せて、相棒! 神王獣の魂のフルブースト、全ステータス二十倍化……いっくよー!!』
胸元の【ラナの心】のペンダントが激しく脈打ち胸部と両肩を白銀の装甲が覆い、各武装化の大きさと出力が上がり、俺の身体能力が、人間の限界を遥かに超えて爆発的に跳ね上がった。
その直後。
ヴラーナの白い指が、虚空で滑らかに動いた。
――【重層幻術】。
カリナの足元の空間がグニャリと歪み、彼女の視覚と三半規管を同時に刈り取ろうとする不可視の魔力の網が迫る。
だが――。
セイレーンの眼鏡を通した俺の目には、その無色透明な幻術の魔力の糸が、赤いレーザーのようにはっきりと視認できていた。
「――そこだ、オラァァァッ!!」
俺はセイレーンのマスクに手を当て、肺の底から息を吸い込み、魔力を乗せた【呪言】を咆哮として叩きつけた!
――ビィィィィィィンッッ!!!
俺の口から放たれた青い音波の波動が、カリナに迫っていた幻術の糸を物理的な衝撃で粉々に粉砕した!
視覚と空間の根本を強制的に断ち切る、絶対のノイズ。
「なっ……!?」
ヴラーナの顔に、初めて明確な驚きが走った。
その一瞬の魔力の淀み。カリナがそれを見逃すはずがない。
ダァァンッ!!
白銀の靴底が地面を叩き割り、聖騎士の美しい踏み込みが、一足飛びでヴラーナの懐へと迫る。
「遅いッ!!」
カリナの聖光を纏った一閃が、ヴラーナの首筋を的確に薙ぎ払う。
「……へぇ。前回とは違って、今回はなかなか面白い手品を使うじゃない」
ヴラーナは余裕の笑みを崩さず、紙一重のバックステップでカリナの剣閃を躱しながら、その赤い瞳で、援護に回った俺の姿をねっとりと見つめたのだった。
――ガアァァァァァンッッッ!!!!!
雷鳴のような衝突音が、古代砦の周囲の山々を根底から揺さぶった。
すでに視界から両者の姿は完全に消え去っていた。
残されたのは、目にも留まらぬ速度で交差する赤と金と黒の光の軌跡、そして、一瞬遅れて爆ぜる破壊の音だけ。
レイヴンの拳が空気を叩き潰すたび、爆風だけで周囲の石柱が微塵に砕け、足元の岩盤が巨大なクレーターとなって陥没していく。
対するソーは、聖剣ラナから放たれる輝かしい蒼光と、魔剣オボロの放つ不吉な漆黒の闇を交互に交差させ、肉体の化け物であるレイヴンの猛攻を寸分違わず捌き続けていた。
「ハハハハハッ!! どうしたクソ王子ィ!! 剣を二本もぶら下げといて、俺様のただの拳一つ弾き返せねぇのかァッ!?」
レイヴンが空中で宙返りし、音速を超えた右ハイキックをソーの首筋目がけて叩き込む!
「てめぇこそ……口だけはクソ一人前だが、俺様の髪の毛一本すら千切れてねぇぞォォッ!!」
ソーが悪意の笑みを全開にし、魔剣オボロの刃でその蹴りを間一髪で受け止める!
凄まじい衝撃波が円状に吹き荒れ、二人の足元の地面が数百メートルにわたって削れ飛んだ。
「《神獣召喚・部分顕現》――白虎の爪ッ!!」
ソーの左腕から、青澄んだ光を放つ巨大な『神獣の爪』が実体化し、レイヴンの顔面を削り取らんと襲いかかる!
「ハッ!! そんな神獣のご威光に頼った軟弱な爪ぇ……俺様の肉体で叩き折れるわァッ!!」
――ドカァァァンッ!!
レイヴンは避けることすら拒絶し、そのまま超強化された左拳の一撃で、神獣の爪を真っ正面から粉砕してみせた!
弾け飛ぶ光の粒子。狂気と狂気が交錯する、命を賭けた異常者同士の殺し合い。
「おっそろしい威力の剣だな……! だけど、最高だぜクソ王子! お前、マジで最高だわァッ!!」
レイヴンの真紅の瞳が、狩人のそれに完全に切り替わった。
「マジで殺してやるよ」
ズズズッ……!!
レイヴンの全身の筋肉の繊維が、限界を超えて肥大化し、即座に圧縮された。
皮下血管が赤く発光し、彼がただ息を吸い込んだだけで、周囲の空気の圧力がガラリと変わる。物理の頂点へと至る、レイヴンの真の力。
――ダァァァンッッ!!
空気が爆発した。
レイヴンは空間そのものを蹴り飛ばし、人間の反応速度を超越した弾丸となってソーの懐へと肉薄したのだった!
◆
一方――。
俺と聖騎士カリナの立ち立つ前線では、ヴラーナの放つ幻術との泥沼の攻防が続いていた。
ヴラーナは、自らの幻術を打ち消す俺の存在を最大級の脅威と認識し、カリナの聖光を華麗に受け流しながら、その手に携えた【アーティファクト・ヒナワ】の銃口を、絶え間なく俺たちに向けてきた。
「――死になさい♡」
バンッ!!
ヒナワの放つ、一国を焼き尽くす超高威力の紅き火砕弾!
当たれば、どんな防御魔術を固めていようと一瞬で肉体ごと蒸発させられる極大の暴力。
「カリナ! 左三歩! そっちに幻術の虚像が誘い込もうとしてます!」
セイレーンの眼鏡で魔力の屈折を見破り、セイレーンのマスクから放つ【呪言】で空間のノイズを叩き破る!
「感謝します!」
カリナは俺の指示をコンマ一秒の疑いもなく信じ、左へ鋭く跳躍。直後、彼女が立っていた空間をヒナワの紅い光線が貫き、後ろの山肌を跡形もなく吹き飛ばした!
「……へぇ。私の重層幻術を完璧に見破り、ヒナワの射線を完全に防ぐなんてね」
ヴラーナの赤い瞳が、冷たく凝視してくる。
「お前の安っぽい手品は、俺とラナの絆には通用しねぇよ!」
『そうだよ! あんたの薄気味悪い幻術なんて、私たちの絆の前じゃ透けて見えてるんだから!』
胸元のペンダントから、ラナの叫びが共鳴する。
「ふふ……生意気な子ね。なら――全部まとめて飲み込んであげるわッ!!」
ヴラーナの深紅の瞳が、血のようにドロドロに濁った。
十重二十重に重なる、極大の精神浸食領域。
「ぐ、あぁッ……!!」
喉が焼けるように痛む。全身の毛細血管から血が噴き出しそうになるほどの負荷。
だが――俺はセイレーンの武装化へ意識をさらに集中させ、声を振り絞った。
「おらァァァァァァッッッ!!!!!」
青い音波の波長が、空間を支配していた重層幻術を、真っ正面から打ち砕いた!
「今だ! カリナッ!!」
「はあぁぁぁぁっッ!!」
カリナの身に纏う白銀の聖光が、最高潮に達する。
幻術の膜を剥ぎ取られたヴラーナの眼前に、光の速度で踏み込んだカリナの刃が迫る!
◆
だが――戦場で最も狂気的な激闘を繰り広げていたのは、やはりソーとレイヴンだった。
レイヴンの超強化された拳脚が空気を爆ぜさせるたび、地形そのものが変形していく。
ソーは、暴走寸前の悪意の歓喜に身を任せながら、聖剣ラナの力をさらに解放した。
「《神王獣部分顕現・腕部強化》ッッ!!」
ソーの両腕に、純白と黄金の輝きを放ち、右腕が神王獣化した。
神王の領域の腕力と、魔剣オボロの【朧纏い】。
二つの相反する力が完全に融合した瞬間、ソーの姿が世界から一瞬だけ完全に消滅した。
「――なに……ッ!?」
レイヴンの脳から、ソーの存在そのものの記憶が削げ落ちる。
だが――。
「――読めるんだよ、そういうのはなぁッ!!」
レイヴンは、己の超人的な戦士の勘と経験のみで、目に見えぬ死角から迫る神王獣の拳の存在を直感で察知。
紙一重で首を捻り、自らの胸板を抉らせながらも、その圧倒的な回避を成立させてみせた!
「ははッ!! 最高の殺し合いじゃねぇか、クソ王子!!」
「てめぇこそ……クソ最高にイカれたクソ野郎だぜ、レイヴィーッ!!」
互いに血を流しながら、邪悪に笑い合う。
二人の足元が、同時に地面を砕いた。
――そして、決着のコンマ一秒が訪れる。
ソーの放った魔剣オボロの一閃が、レイヴンの腹部へ深々と突き刺さった。
「……ハッ。クソ油断したなぁ……俺もよぉ……」
レイヴンは血を大量に吐き散らしながらも、狂暴な笑みを崩さなかった。
彼は突き刺さった魔剣の刀身を己の腹筋で強引に固定し、残された全筋力を込めて、ソーの頭部を砕かんと超重量の右拳を振り下ろそうとした!
――だが。
ソーは、最初からそれすらも折り込み済みだった。
「本命は……こっちだッ!!」
神王獣化した腕を解除したソーが右手に構えていた【聖剣ラナ】の白銀の刀身が、蒼い極光を解き放つ。
そして同時に、レイヴンの腹に深々と突き刺さっていた【魔剣オボロ】の柄を、左手で強く握り締め、旋風のように聖剣ラナ共々一気に回転させながら引き抜いた!
――ズババババババババッッ!!!!!
真紅の大量の血飛沫が、空中に派手に舞い散る。
レイヴンの体が――
上半身と下半身で、完全に二つに切断された。
「…………やっぱ……お前……クソ最高の……クソ王子だぜ……」
上半身だけとなって転がったレイヴンは、皮肉でも悔しさでもなく、ただ純粋な戦士としての歓喜の微笑みを浮かべたまま、その二度と動かぬ真紅の瞳の光を失っていった。
◆
その無惨な相棒の最期を、ヴラーナは見てしまった。
「……レイヴィー……?」
彼女の美しい赤い瞳が、信じられないものを見るかのように大きく見開かれる。
その一瞬。彼女が保ち続けていた絶対的な精神の集中に、ほんの微かな隙が生じた。
重層幻術の膜が、わずかに薄れる。
「そこだぁぁぁッッ!!」
俺は逃さず、セイレーンのマスクから極大の【呪言】を叩きつけた!
ヴラーナを包んでいた幻術の防御壁が、完全に粉々に砕け散る!
「カリナッ!!」
「――はぁッッ!!」
迷いのない、光の速度の踏み込み。
幻術を奪われたヴラーナは、諦めたように自らの足を取り、崩れ落ちる相棒の死骸を見つめながら、静かに佇んだ。
「はぁ……二対一なんて……ズルいじゃないの……」
その可憐で毒のある文句が言い切られるよりも早く。
聖騎士カリナの解き放った純白の一閃が、ヴラーナの身体を斜めに一刀両断した。
「……レイヴィー…………」
最期だけ、年相応の優しい声を残して、ヴラーナの身体もまた静かに冷たい土の上へと崩れ去っていったのだった。
◆
――闘いが、終わった。
大地には凄惨な血の跡と、焦げた破壊の痕跡。
その中央で、古の古代砦の石門だけが、静かに天を突いてそびえ立っていた。
ソーは肩で息を荒く吐き出しながら、腰の二振りの剣を鞘へと収め、血を拭った。
「……終わったね。……帰ろうか」
善のソーの声へと、すっかり戻っていた。
カリナが優しく微笑み、剣を納める。
俺は、地面に転がっていた黒と朱の凶器――アーティファクト・ヒナワを慎重に拾い上げた。
手に伝わる、冷たく、だが恐ろしいまでの潜在的な破壊の脈動。
こうして――。
俺たち三人は、死闘の果てに最強のアーティファクト・ヒナワを無事に回収し、王都ウルシアへの、長く静かな帰路へと、ゆっくりと歩み出したのだった。




