第10章:第四王子ソー・ウルシアー1
八咫烏の二人が王城の最深部を強襲し、そして不気味な哄笑と共に撤退していったあの夜から、まだわずか三日しか経っていないというのに。
ウルシア王都は、表面上はすっかりいつもの平穏な賑わいを取り戻しつつあった。
市場には朝から活気ある売り声が響き、冒険者ギルドの酒場には安酒と武勇伝の歌が戻ってきている。王城の地下で、パラディン三名が瀕死の重傷を負い、国を滅ぼしかねない神話の武具が奪われかけた事実など、一般の民衆は誰も知らない。
だが――その平和な景色のどれもが、薄氷の上に描かれた絵画のように、危うく上滑りしている気がするのは、決して俺の気のせいじゃない。
この世界の足元で、何かが致命的に狂い始めている。
俺の胸元では、細い銀の鎖に吊るされた小さな銀桜色のペンダント――ラナの心が、俺の鼓動に合わせるように微かに震え、熱を放っていた。
『ねぇ、相棒。顔、すっごく怖いよ? 眉間にシワ寄りすぎ。そんな顔してたら、可愛い女の子が逃げちゃうわよ』
俺の脳内に直接、あの澄んだ少女の声が響く。
勇者ラナ。かつて聖剣ラナに選ばれ、狂気の剣聖カシアンの手に落ち――今は魂の一片となって俺の胸元に宿り、俺に神王獣という理不尽なまでの暴力を与える俺の相棒。
(……うるさい。極度に緊張してんだよ、こっちは)
俺は誰にも聞こえない声で、心の中で悪態をついた。
『会議だけでしょ? 別に、今から魔族の群れに一人で突っ込めって言われてるわけじゃないのに。大袈裟だなぁ』
(この王城の偉い連中や化け物どもに囲まれて会議するってのはな、ある意味、魔族の群れより胃が痛ぇんだよ。俺は本来、荷馬車の番をしてるのがお似合いの雑用係だぞ?)
軽口を叩き合いながらも、俺の足は重厚な赤絨毯の上を勝手に、そして確かな足取りで進んでいく。
向かう先は――王城・第一戦略会議室。
国王、国の中枢を担う大臣たち、ギルドの最高幹部、そして聖騎士カリナまでが勢揃いする、王国の運命を決める本気の御前会議だ。
八咫烏。
レイヴンとヴラーナ。あの圧倒的な暴力と幻術。
カリナの到着が数分でも遅れていれば、間違いなく俺たちは全滅し、聖剣と魔剣は奴らの手に落ちていただろう。
奴らは本気で、この世界のパワーバランスを破壊しに来ていた。
じゃあ、奴らはその武具を集めて、その先に何を企んでいるのか。
その血生臭い答えを聞かされるのが――たぶん、今日だ。
◆
第一戦略会議室は、俺のような平民が一生入ることはないであろう、威圧的なほどに広大な空間だった。
部屋の中央に鎮座する、巨大な黒檀の楕円テーブル。
片側にはウルシア王国の軍務大臣や、高位のパラディン、ナイトたちがずらりと並ぶ。
反対側には、顔に無数の傷を刻んだ冒険者ギルドのギルドマスターと、各有力支部の長たち。
そして、部屋の正面の最も高い席に座るのが、国王エルムンド三世。
その斜め後ろに、衛兵のように静かに控えているのが、白銀と純金の鎧を纏った聖騎士カリナ。
淡い黄金の髪を後ろで束ね、透き通るような青い瞳で、会議室の全員を静かに見渡している。いざ激戦の場に現れた時は絶対的な安心感と光の塊のように見えたが、こうして静の場に立っていても、やはり彼女の放つ空気は他を圧倒して常軌を逸している。
俺は、その重苦しいテーブルの末席の、さらに端っこ――重要参考人という名目の、針のむしろのような席に座らされていた。
『わぁ……すっごい。偉い人ばっかり。みんな難しい顔してるね』
胸元でラナが無邪気に囁く。
(お願いだから、ここで喋りかけ続けるのやめてくれ。俺が変なタイミングでニヤついたり顔をしかめたりしたら、不敬罪で首が飛ぶ)
『ふふっ、がんばれ、元・糧食係くん』
(元、じゃねぇ。まだ心は糧食係だ)
そんなくだらないやり取りで無理やり胃の痛みを散らしていると、国王エルムンド三世が、重々しい動作でゆっくりと立ち上がった。
「――では、これより軍議を始める」
その一言で、部屋を満たしていた微かなざわめきが、まるで刃物で断ち切られたようにスッと消滅した。
「三日前の夜、王城最深地下に保管していた二振りの神話の武具……聖剣ラナ、ならびに魔剣オボロを、正体不明の狂信集団八咫烏の構成員二名が奪取しようと襲撃を仕掛けてきた」
王の低く、よく通る声が、会議室の壁に重く反響する。
「その場にいたパラディン三名、Sランク冒険者一名の決死の防衛線。……それに加え、名もなき冒険者の奮戦、そして聖騎士カリナの到着により、最悪の事態は免れた」
王の視線が、一瞬だけ鋭くこちらを向いた。
俺は慌てて視線を落とし、テーブルの木目をじっと見つめた。こういう場で、王と真っ直ぐに目を合わせる度胸はまだない。
「幸い、あの惨状で死者は出なかった。重傷者たちも回復に向かっている。これは奇跡と言ってよかろう」
重い空気の中、カリナが小さく目を伏せるのが見えた。
奇跡ではない。彼女の放った光が、ヴラーナの幻術を焼き払い、絶望の淵から俺たちの命を繋ぎ止めてくれたのだ。
「だが、八咫烏は決して敗走したわけではない。奴らはカリナの威光を前に、極めて冷静に戦略的撤退を行ったに過ぎん。……奴らはただの強盗やテロリストではない。この世界を揺るがす、明確な“目的”を持っている」
エルムンド王は、玉座の横に立つ一人の老人へと視線を向けた。
「封魔研究院院長、オルテガ。……皆に説明を」
「……ハッ」
重い腰を上げて立ち上がったのは、枯れ木のように痩せ細った、白髪混じりの男だった。
深い皺の刻まれた顔、眼窩の窪んだ鋭い目、分厚いローブの袖口からは、無数の古い呪符や紙片が覗いている。
「……八咫烏」
オルテガの、墓底から響くような低くかすれた声が、静かな部屋に落ちた。
「その不吉な名は、近年、各地で聖剣や魔剣が再び世に出現し始めると同時に、裏社会の闇の中で囁かれ始めたものです。……三本足の烏を紋章とし、国境を無視して世界中を飛び回り、神話の武具……聖剣、魔剣、そしてアーティファクトを執拗に回収して回る組織――と」
オルテガが合図をすると、文官たちがテーブルのど真ん中に、巨大な古びた羊皮紙の地図を広げた。
俺たちの住むこの世界、イーリス大陸全図。
その上に、オルテガの痩せた手が、小さな黒い烏の駒をいくつも置いていく。
「各地の古代遺跡、危険指定の封印領域、さらには他国の王家の隠し書庫。……その至る所に、この数ヶ月で烏の影が残されていた。目撃情報は極めて少ないが、数少ない生存者の証言や現場の痕跡には、明確な三つの共通点がある」
「共通点だと?」
ギルドマスターが、顔の傷を歪めて低く問い返した。オルテガは静かに頷く。
「一、奴らは常に、二人一組で行動し、国一つを落とすほどの規格外の破壊力を持つ。
二、金銀財宝には一切目もくれず、必ず聖剣・魔剣・アーティファクトにのみ執着する。
三、そして……千年前の魔族の封印に関する歴史文献を、徹底的に掻き集めている」
封印。
その単語が落ちた瞬間、部屋の空気が鉛のように重く、冷たくなった。
「千年前――イーリス大陸全土を血で染めた、伝説の封魔戦争」
オルテガの鋭い視線が、なぜか末席の俺の方へとふっと向けられた。
「この大陸は、突如として現れた魔族どもによって支配され、滅亡の危機に瀕した。当時の各国の王たちは、最後の手段として……禁忌の秘術を用い、異世界から三人の異能力者を召喚した」
異世界からの、召喚。
俺は心臓が嫌な音を立てるのを必死に抑え込んだ。
「刀匠が、光の魔力を帯びた聖剣三本を。
刀鍛冶が、闇の呪力を秘めた魔剣四本を。
そして鉄砲鍛冶が、理を破壊するアーティファクト五つを作り出した」
俺の胸の中で、ラナが息を呑む気配が伝わってきた。
『……ここからが、私たちが背負わされた、残酷なはじまりのお話だね……』
「その十二個の神話の武具によって、魔族は倒され、大地の底深くへと封じられた。……だが、今、各地で魔物が凶暴化し、結界が綻びつつあるのは、あくまで封印の最も浅い第一層が削れ始めているに過ぎん。……千年前の魔族を統べていた魔王は、そのさらに奥深く、次元の底に縫い付けられている」
「魔王、だと?」
軍務大臣が、額に脂汗を浮かべて思わず声を漏らした。
「そうだ。そして……八咫烏の連中は、明らかにそこを目指している」
オルテガの声は、絶望を宣告するように、やけに静かだった。
「おそらく彼らの最終目的は……すべての神話の武具を触媒として逆利用し、魔王の封印を完全に解き放つことだ」
会議室に、はっきりとした、凍りつくような戦慄の線が走った。
「ちょっと待て!!」
ギルドマスターが、耐えきれずにテーブルをバンッと強く叩いた。
「意味が分からねぇ! なんでそんな狂った連中が、わざわざ魔王の封印を解きたがる!? 魔族が完全に復活すりゃあ、真っ先に皆殺しにされるのは俺たち人間だぞ!! 奴らだって例外じゃねぇはずだ!」
「それはわからん」
オルテガは、無表情のまま首を横に振った。
「狂信的な信仰か、完全なる破滅願望か……あるいは、奴らだけが我々の知らない世界の真実を知っているのか。……理由はどうあれ、我々にとってただひとつ明確に言える事実は、八咫烏がすべての武具を集めようと動いているということだ。……聖剣六本、魔剣四本、アーティファクト五つ。そのすべてのピースをな」
エルムンド王が、玉座から重々しく言葉を継いだ。
「我がウルシア王国は、すでにその強大なピースのうちの二つを抱え……そして、もう一つの在り処を特定している」
王の言葉に、会議室の空気が再び張り詰める。
「聖剣ラナ。魔剣オボロ。……そして、アーティファクト・ヒナワの伝承だ」
ヒナワ。
その異質な響きを持つ名前に、テーブルの端で何人かの騎士が息を止めた。
「ヒナワ……?」
俺も思わず、無意識にその名前を小さく声に出して反芻していた。
すると、近くに座っていたギルドマスターが、額の汗を拭いながら重い口を開いた。
「……千年前に異世界から召喚された鉄砲鍛冶が、狂気の末に作り上げたと言われる、原初の火器だ。……火薬と高度な魔法術式を融合させ、たった一撃で国一つを地図から消し飛ばすと言われる、最低最悪の火力兵器。……それが、アーティファクト・ヒナワだ」
『国一つを焼き尽くすって……ちょっと次元が違いすぎるよ』
ラナのドン引きしたような声が脳内に響く。
(ああ、マジでヤバい匂いしかしないな)
オルテガが、震える手で古びた巻物を広げた。
「ウルシア王家の地下書庫に眠る伝承によれば、ヒナワは大陸の南方、海沿いの古代砦の最深部に眠っている。……千年前の封魔戦争の終結時、これ以上の力を行使すれば、星そのものが壊れると恐れた各国の王たちが、共通の極秘儀式をもってその砦ごと深く封印した、とある」
オルテガの手によって、地図の一角――大陸南方の広大な海沿いの地方に、赤いピンが置かれた。
「問題は……先の夜、八咫烏が我が国の地下保管庫までいとも容易く潜り込んで来たという事実だ。……奴らの情報網であれば、すでにこのヒナワの在り処にも確実にたどり着いていると見るべきだろう」
エルムンド王はゆっくりと深く頷き、その威厳ある瞳で会議室の全員を見渡した。
「……ゆえに。八咫烏に先んじてこれを回収、あるいは完全破壊すべく――早急にヒナワ回収隊を編成し、南方の地へ派遣する!!」
その一言で、会議室の空気が、恐怖から覚悟と戦意の入り混じった熱いものへと、劇的に切り替わったのだった。
「ヒナワ回収隊の構成については、すでに軍務省とギルドの間で練られた案がある」
エルムンド王の重々しい声とともに、一枚の豪奢な羊皮紙が楕円テーブルの上を滑っていく。
そこに記されている文字を遠目に見た瞬間、俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
――そこには、武装の冒険者という、どう見ても俺を指しているとしか思えない肩書きが堂々と記されていたからだ。
「発表する。第一候補……、
聖剣ラナ、ならびに魔剣オボロという二つの神話の武具の適合者。――第四王子ソー」
王の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、玉座の隣の重厚な扉が、コツコツと静かにノックされた。
入室してきた青年の姿に、会議室の半数以上の人間が息を呑み、どよめきが走る。
金色の髪。
静かで深い、藍色の目元。
王族としての完璧な上品さと気品を纏う立ち居振る舞い。
以前、聖剣ラナ適合者選抜大会のときに見た、あの第四王子ソーだった。
だが、今の彼の腰には――白銀の聖剣と、漆黒の魔剣。
相反する二つの神話の武具が、まるで最初から彼の体の一部であったかのように、極めて自然に帯びられていた。




