第9章:暴力の黒翼と幻惑の黒翼ー2
「フフフ……素敵な覚悟ね、冒険者さん。……でもね、私のお相手は、そちらの可愛い弱そうな男の子も入ってるのよ?」
ヴラーナが、細く白い指先をパチンと鳴らした。
チリンッ
――ズワァァァァァァンッッ!!!!!
瞬間。
世界が、激しく反転した。
「なっ……何だ、これは……!?」
俺の視界から、王城の地下石造りの壁も、崩れた瓦礫も、パラディンたちの無惨な姿すらも完全に消え去っていた。
代わりに広がったのは、天地がひっくり返ったような、無限に続く漆黒の鏡の空間。
頭上に床があり、足元に天井がある。重力の方向すら喪失し、自分が立っているのか落ちているのかすら分からない強烈な眩暈が俺を襲う。
それだけではない。
『――死ね、雑用係』
『――どうしてお前だけが生き残った?』
『――お前が死ねば、オルドも、リュグナも、ラナも死なずに済んだのに』
暗闇の奥から、無数の死者たちの恨み節が、耳元で直接囁くように狂った旋律となって鼓膜を揺さぶる。
ミリアで死んだ人々の悲鳴、遺跡で殺された仲間たちの呪詛、そして死に際のラナの血塗れの顔が、鮮明な立体の幻影となって俺に襲いかかってきた。
「ぐ、ガァッ……あぁぁぁぁぁっッ!!!」
激しい吐き気と脳をゴリゴリ直接削られているような激痛。
ただの視覚的な幻ではない。精神、五感、記憶、そして心の痛みすらも本物として脳に誤認させる、ヴラーナの能力。
「騙されるな!! 奴の能力は全領域の精神干渉だ!!」
グレンが絶叫し、全身から凄まじい青き魔力を爆発させた。
「魔力制圧域」
Sランク冒険者グレンの真骨頂。周囲数メートルの空間の魔力波長を力ずくで書き換え、幻術の中核を物理的に圧し潰す絶対の展開領域。
歪んでいた空間が一瞬だけ歪みを戻し、王城の石壁がうっすらと見えかけた。
――だが。
「ふふ……綺麗で鋭い魔力ね。でも……甘いわ」
スッ。
グレンの背後の死角――魔力領域のわずかな隙間から、ヴラーナの細い腕が音もなく現れた。
空間を折りたたんで距離感を狂わせ、制圧領域の外側から直接攻撃を叩き込む高次元の移動体術。
――ドカァァァンッ!!
「ガハッ……!?」
グレンの後頭部へ、ヴラーナの掌打が容赦なく叩き込まれた!
グレンの身体は弾丸のように吹き飛び、激しい衝撃波と共に壁の石組みへと深々と叩きつけられた。
「グレンッ!!」
「あら、もう終わり? Sランクにしては、少し呆気ないわね」
ヴラーナはつまらなさそうに溜息をつき、倒れ伏すグレンを見下ろした。
そして、ゆっくりと向きを変え、膝をついて頭を押さえる俺へと歩み寄ってくる。
「さて……次はあなたよ、可愛い男の子。あなたのその可哀想な心に、最高の絶望を植え付けて、自分自身の爪で自分の喉を切り裂かせてあげるわ」
ヴラーナの赤い瞳が、怪しく発光する。
俺の脳内に、無数の刃が突き刺さり、自分自身の指が勝手に自分の喉元へ向かって動き始めた。
やばい。抗えない。脳が、身体が、完全に奴の幻術の奴隷と化していく――。
その時だった。
『――ねぇ! 何やってんのよ、バカ!!』
――カァァァァァァンッッ!!
胸元で、激しい熱が爆ぜた。
首に掛けた銀桜色のペンダント――ラナの心が、眩いばかりの蒼と金の光を放ち、俺の全身の神経を駆け巡ったのだ。
『しっかりしなさい! こんなヤツの姑息な手品に騙されないで! これは空間なんかじゃない……相棒の心を揺らしてるだけの安っぽい幻術だよ!!』
脳内に直接響く、ラナの怒りと励ましの叫び!
(ラナ……ッ!)
『アタシたちが……二人でどれだけの地獄を越えてきたと思ってんの!? あんたの心には、私がいる! 可哀想なんかじゃない!!』
――ドクンッ!!
俺の胸の奥で、もう一つの心臓が、力強く脈打った。
「――失せろォォォォォォッッ!!!!」
俺は腹の底から叫び、右手の指輪クリスタルワイバーンと左手の指輪アークサーペントに一気に意識を集中させた。
バリバリバリバチィィィィィンッッ!!
絶対防壁の結晶光と、紫電の雷光が全方位へ放たれ、俺を縛り付けていたヴラーナの幻術の世界が、ガラスのようにバリバリと音を立てて粉々に砕け散った!
「……なっ!?」
ヴラーナの赤い瞳が、初めて驚愕で大きく見開かれた。
「私の二重層幻術を……生身の精神力と魔力だけで弾き返した……!? あり得ない……あなた、一体何者なの!?」
「俺は……ただの雑用係だ」
俺は荒い息を吐きながら立ち上がり、左耳の黒龍のピアスを強く握りしめた。
「だがな……俺の胸には、世界で一番強くて生意気な勇者が一緒なんだよ!!」
「チッ……鬱陶しいガキだなァおいッ!!」
ズドォォォォォンッ!!
俺とヴラーナの間に割り込むように、レイヴンの巨大な拳圧が廊下を粉砕しながら突進してきた!
あまりの威力に、王城の分厚い石天井がガラガラと崩れ落ちる。
「おいヴラーナ! なに手こずってんだババア! 雑用一人に手間取ってんじゃねぇよ!」
「レイヴィー! あなたこそ暴れすぎて作戦の邪魔よ! 次ババアって言ったら本当に殺すわよ!?」
「やってみろや! 今すぐここで決着つけてやろうかァ!?」
全滅寸前のこちらを前にして、二人でお互いに殺気全開で喧嘩を始めるレイヴンとヴラーナ。
そのやり取りはあまりにも不条理で、そして――絶望的なまでに圧倒的だった。
パラディン三名は沈み、Sランクのグレンも血塗れで立ち上がれない。
俺も、指輪の力を解放して幻術を破るだけで体力の限界。
万事休す。
八咫烏の二人を前に、俺たちにはもう……破る手立てなど残されていなかった。
レイヴンが獰猛な笑みを浮かべ、殺気を全開にして俺へと歩み寄ってくる。
「まあいいや。お前から順に首を跳ねて――」
その時だった。
――サクッ……。
暗闇の廊下の奥から、静かな、あまりにも清らかな足音が響いた。
風が、止んだ。
不気味に渦巻いていた血の匂いと殺気が、一瞬にして消し去られていく。
廊下の奥から溢れ出してきたのは――太陽の光すら霞むほどの、圧倒的な純白の聖光。
「――そこまでです、侵入者ども」
静かな、だが一切の揺らぎがない凛とした女性の声が、地下広場全体を満たした。
ヴラーナの残っていた幻術の気配が、その声と光に触れた瞬間、散り散りになって消滅していく。
光の中心から歩み出てきたのは、一人の女性騎士だった。
黄金の美しい髪をなびかせ、白銀と純金で鍛え上げられた神々しい装甲を身に纏い、その手に眩い光を放つ長剣を握る存在。
ウルシア王国騎士団・聖騎士――光の剣姫カリナ。
「……あら」
ヴラーナの顔から、余裕の笑みが完全に消えた。
「……お出ましね。光の剣姫様が」
レイヴンも、舌打ちをして拳を引いた。
「マジかよ……本物の聖騎士のお出ましとはなぁ……! 厄介な奴が来やがった」
カリナは、倒れているパラディンたちやグレン、そして俺の姿を静かに視界に収めると、胸の前で聖剣を垂直に構えた。
「総員、下がっていなさい。……ここからは、私が貴方たちの相手をします」
眩い光が、彼女の全身から溢れ出る。
真の本物の強者の放つ、絶対の安心感と威光。
カリナが静かに一歩を踏み出した瞬間、レイヴンとヴラーナの表情から、完全に遊びの色が消え去ったのだった。
「光よ――道を照らせ」
聖騎士カリナが静かに紡いだその一言は、地下広場を支配していた濃密な死の気配を、文字通り一掃した。
――バシュウゥゥゥゥッッ!!!
彼女の白銀の剣から放たれたのは、目を焼くような強烈な閃光ではない。
まるで冷え切った身体を包み込むような、それでいて邪悪なものを一切許さずに灼き尽くす、圧倒的質量の浄化の聖光だった。
光の波が石造りの廊下を駆け抜けた瞬間、ヴラーナが展開していた幾重もの幻術の残滓が、悲鳴を上げる間もなくチリチリと音を立てて霧散していく。
「ちっ……! 冗談じゃねぇぞ、おい」
レイヴンが、舌打ちをして顔を激しく歪めた。
彼の赤黒い髪が逆立ち、本能的な危機警報が全身の筋肉を硬直させている。
ただの光ではない。その聖なる波動は、物理の化け物であるレイヴンの強靭な皮膚の表面すら、ジリジリと焦がすような明確な敵意を持って彼らを射すくめていた。
「これ、まともにやり合って大丈夫かよ? おい。……マジか、あの女」
レイヴンが、両拳の構えを解かずに低く唸る。
その背後で、ヴラーナは自らの幻術が完全に焼き払われた空間を見渡し、艶やかなため息を一つ、長く吐き出した。
「……ええ。私たちの夜遊びは、今日はここまでのようね。レイヴィー」
ヴラーナの赤い瞳が、冷徹な計算の光を帯びる。
「……引きましょう。今の私たちの目的は、あの聖騎士様の相手をして骨折り損をすることじゃないわ。玩具の回収は、また後日ゆっくりと楽しめばいいのだから」
「だから! レイヴィーって呼ぶなっつってんだろぉがァッ!!」
レイヴンが苛立ちのままに咆哮し、その怒りの矛先をぶつけるように、自らの右拳を真横の分厚い石壁へと無造作に叩き込んだ。
――ドガアァァァァァァンッッ!!!
王城の地下の堅牢な外壁が、たった一撃の拳圧で跡形もなく粉砕され、王都の巨大な地下水路へと通じる巨大な逃走路が暴力的にこじ開けられた。
土煙が舞い上がる中、二人はその暗闇の穴へと同時に後退を始める。
「ふふっ……可愛い」
闇に沈む直前、ヴラーナが肩越しに振り返り、獲物を愛でるような瞳で俺を見つめた。
「今日はこれでお別れね。次に会う時は……あなたのその可哀想な心、私が完全に壊してあげるわ」
「おい、そこのお前! そして聖騎士サマよォ!」
レイヴンが、崩れゆく壁の向こうから狂暴な牙を剥いて吠え立てる。
「聖剣と魔剣、せいぜいピカピカに磨いて待ってろや! 近いうち、必ず俺たちが奪いに来てやるからなァ!!」
捨て台詞と哄笑が地下水路の奥へと響き渡り――そして。
二つの化け物の気配は、完全に王城の地下から消失した。
◆
二人が去ったあとの空間は、急に、耳鳴りがするほど静かになった。
パラディンたちが倒れ伏す中、ピリピリと張り詰めていた死のプレッシャーが、嘘のように引いていく。
「…………ぁ、……っ」
俺の身体から、張り詰めていた最後の一本の糸が、プツンと音を立てて切れた。
アドレナリンで無理やり動かしていた両脚の感覚が完全に消失し、武装化が右手の飛竜の指輪と左手の巨蛇の指輪に戻る。
――ドサッ。
俺は、立ち上がる気力すら残っておらず、冷たい石床の上へと無様に崩れ落ちた。
体中の血管が酸素を求め、ゼェゼェと醜く荒い呼吸を繰り返す。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、指先一本すら動かせない。もしカリナの到着があと数秒遅れていれば、俺の首はレイヴンの拳で吹き飛ばされ、精神はヴラーナの幻術に完全に喰い潰されていただろう。
死の淵に立っていたのだという強烈な実感が、今更になって全身をガタガタと震わせた。
カツン、カツン。
静かな金属音の足音が、俺の元へと近づいてくる。
カリナが振り返り、剣を鞘に収めながら、俺の側へと急ぎ駆け寄ってきてくれたのだ。
圧倒的な光を放っていた彼女のオーラが、今はまるで、凍えた身体を包み込む焚き火のように、柔らかく温かい光へと変質している。
カリナは冷たい床に片膝をつき、倒れ伏す俺の目線に合わせて、その美しい黄金の髪を揺らした。
「もう……大丈夫」
凛とした、けれどどこまでも慈愛に満ちた声だった。
彼女は、泥と冷や汗にまみれた俺の肩に、そっと温かい手を置いた。
「よく……あの化け物たちを前に、逃げずに戦ったわね」
その言葉には、上官としての労いだけでなく、心からの敬意が込められていた。
「貴方は立派に、この王国の誇りと……伝説の剣を護り抜いてくれた。本当に、よく頑張ってくれたわ」
その声が、俺の胸の最も深い場所に、鋭く、そして温かく突き刺さった。
恐怖。絶望。そして、生き残ってしまったという重圧。
それらのすべてを、彼女の光が静かに肯定し、溶かしてくれたような気がした。
俺の胸元で、ラナの銀桜色のペンダントが「お疲れ様、相棒」と囁くように、微かに、そして優しく温もりを放っていたのだった。




