第9章:暴力の黒翼と幻惑の黒翼ー1
ウルシア王国・王城最深地下。
何重もの結界と、古の魔法陣が刻まれた石壁に守られたその封蔵庫は、夜気の中でも痛いほどの静謐に包まれていた。
中央の台座に安置された二振りの伝説――【聖剣ラナ】と【魔剣オボロ】は、互いの存在を牽制し合うように、沈黙の中で冷ややかな光と闇を放ち続けている。
その絶対の静寂を――最初に破ったのは、音のない黒い風だった。
「…………ねぇ、レイヴィー。本当にこのまま、正面から堂々と入るつもり?」
石造りの廊下に、艶やかで、鼓膜を甘く撫でるような恐ろしく色気のある女の声が反響した。
「あァ? 誰がレイヴィーだ、ぶっ殺すぞババア。……それに俺は堂々とじゃねぇ。最高に優雅に、そして最短距離で侵入してんだよ」
苛立ちを含んだ、野獣のような男の荒々しい声が応じる。
「フフ……あらあら、怖いわ。次にババアなんて言われたら、その可愛い舌を引き抜いて殺しちゃうかも」
王城の地下廊下。
王国の誇る最高峰の魔導士たちが敷いた、触れれば即座に灰となるはずの絶対探知と即死の防御結界。
だが――二つの人影は、その結界がまるで最初からそこになかったかのように、影から影へと音もなくすり抜け、無視して歩みを進めていた。
【八咫烏】
千年の封印を解き、神話の武具を狙う狂信の徒。
先頭を歩くのは、血を吸ったように赤黒い髪を逆立て、鋭利な真紅の瞳をギラつかせた男――【レイヴン】。
八咫烏の中でも際立つ、魔力や魔法をほぼ使わず、己の肉体と暴力のみを極限まで強化した『物理の化け物』。
その後ろを歩くのは、闇に溶けるような黒髪のロングヘアに、レイヴンと同じ赤い瞳を宿した、妖魔のような艶を持つ女――【ヴラーナ】。
精神を支配し、空間の認識すら自在に欺く、幻術を極めし魔女。
二人は、まるで自分たちの庭を散歩するような足取りで、王城の最奥へと鼻歌混じりに進んでいく。
「――さてと。お目当ての武具が二本まとめて置いてあるって話だが……お出迎えは、どんなもんかね」
レイヴンが、首の骨をゴキゴキと鳴らして獰猛に笑った。
「フフッ。きっと、ウルシア王国が誇る、立派で堅苦しい騎士様たちがいらっしゃるわよ。……せいぜい、やりすぎないように優しく遊んであげてね?」
ヴラーナの赤い瞳が、妖艶に細められる。
「ああ、遊ぶには……ちょうどいい夜だ」
◆
王城地下・封蔵庫手前の大広間。
聖剣ラナと魔剣オボロを守護する警備部隊は、王の勅命により選抜された総勢五名。
パラディン部隊隊長:ゼガート。巨躯と無類の防御力を誇る、盾の達人。
パラディン:ミネル。絶対の神聖魔法を槍に纏わせる、白兵戦の聖技の使い手。
パラディン:フォルン。若き天才と謳われる、神速の剣術使い。
Sランク冒険者:グレン。冷静沈着にして、多種多様な魔力制御と二刀流を極めた男。
そして――。
三体の神獣と、さらに神王獣の魂をその身に宿す、ただの雑用係の俺。
……慢心している自覚は、俺の中に確かにあった。
エドラの剣聖カシアン。あの理不尽な魔剣オボロの悪意を、俺とラナの力で捻じ伏せ、倒したという結果。
それが、俺の体の奥底で、得体の知れない自信となって居座っていた。
Sランク冒険者とパラディン三人がいれば、どんな敵が来ようと負けるはずがない、と。
――だが。
この時の俺は、この世界の裏側に潜む、本当の理不尽な怪物の恐ろしさを、まだ何一つ知らなかったのだ。
「……来るぞッ!!」
広間の入り口を睨んでいたゼガートが、鋭い呼気と共に巨大な盾を床に叩きつけ、構えた。
その瞬間――。
ヒュッ……。
空気が、音もなく裂けた。
――ドガアァァァァァンッッッ!!!!!
魔法の爆発ではない。純粋な暴力の踏み込みが生み出した衝撃波が、分厚い石造りの廊下を大砲のように吹き飛ばし、分厚い石壁が粉々に崩れ去った。
もうもうと舞い上がる土煙と瓦礫の中から、赤黒い髪の男が、ポッケに手を突っ込んだまま悠然と姿を現した。
「こんばんは〜。夜分遅くにお邪魔するぜ?」
レイヴンが、近所の友人にでも会ったかのように、軽く右手を振って見せた。
「ウルシアが誇るお偉いパラディンさんたち? ……まあ、冥土の土産に名前ぐらいは聞いといてやるよ。秒で忘れる気しかねぇけどなァ!」
ゼガートが、全身の筋肉を膨張させ、地鳴りのような怒号を上げた。
「敵襲ッ!! 貴様らが噂の八咫烏か!! 総員、構えろ!!」
「あらあら。そんなに怖い顔をして緊張しなくてもいいのよ?」
レイヴンの背後から、ヴラーナが蠱惑的な微笑みを 浮かべて姿を現した。
彼女がふっと妖しく息を吐き出すと――空気が、ゼリーのようにグニャリと揺れた。
一瞬にして。
俺たちが立っていた王城の地下の石造りの広間が、鬱蒼と木々が茂る不気味な深い森の中へと変貌したのだ。
「なっ……幻術!? 惑わされないで! 全員目を閉じてください――ッ!」
若きパラディン、フォルンがいち早く状況を察知し、神聖魔法で幻術を相殺しようと叫んだ。
だが――。
スッ。
フォルンが詠唱の印を結ぼうとしたその両手の間に、いつの間にか、レイヴンの顔が割り込んでいた。
「おいおい……魔法使いのお遊戯には、付き合ってる暇はねぇんだよ」
「な……ッ!?」
フォルンが目を見開き、剣を抜こうとした。
「――遅ぇんだよォッ!!」
――メチャァァァンッッ!!!
レイヴンのただの右ストレートが、フォルンの胸の中央に深々とめり込んだ。
パラディンの装備する、ミスリルで鍛え上げられた最高級の胸甲。それが、まるで紙くずのように逆側へ向かって弾け飛び、完全に変形するほどの圧倒的な拳圧!
「ガハッ……ッ!?」
フォルンは血の塊を吐き出しながら、数十メートル後方の壁へと、音を立てて叩きつけられ、そのまま人形のように崩れ落ちた。
胸骨が粉砕され、ピクリとも動かない。
即死は免れたようだが、たった一撃で、パラディンが完全な戦闘不能。
「よしっ、まずは一人目!」
レイヴンが、人差し指を立てて無邪気に笑った。
「さて……次はどの案山子をぶっ壊して遊ぼうか?」
◆
「貴様ァッ!!」
仲間の無惨な姿に、パラディンのミネルが激昂した。
彼女の握る長槍が、眩い純白の聖気を纏い、空気を切り裂いてレイヴンの心臓へと突き出される。
「消し飛べ!!!!」
魔を浄化する必殺の聖技。
だが――。
「あー……おっそ」
ピタッ。
レイヴンは、その必殺の光槍の穂先を、あくびを噛み殺しながら、己の右手の人差し指と中指の二本だけで、ガッチリと挟み止めていた。
「なっ……!?」
ミネルの顔から血の気が引き、額に大量の冷や汗がにじむ。
槍を引こうにも、岩に縫い付けられたように一ミリも動かない。
「おいおい、パラディンってこんなもんかよ? 王国の最高戦力って聞いてワクワクしてきたのに……ぜーんぜん怖くねぇんだけど?」
レイヴンが、指の力を込める。
メキメキッ、と。魔力を帯びたミネルの槍の穂先が、指の力だけでヒビ割れていく。
「……これも幻術かッ!! ふざけるな!!」
ミネルが槍を手放し、腰の小剣へ手を伸ばそうとした。
「下がれ、ミネル! 私が潰す!!」
その横から、巨躯のゼガートが、自身よりも巨大なタワーシールドを構え、ブルドーザーのような勢いで突進してきた。
「砕け散れ!!!」
廊下の床石がバキバキと割れ飛ぶほどの、絶対的な質量の突進。
だが――レイヴンは、迫り来る巨大な盾を前にして、狂喜の笑みを浮かべた。
「いいねぇ……そういう泥臭ぇの、嫌いじゃねぇぜ!!」
レイヴンは避けることも防御することもなく、真正面からその盾に向かって手を伸ばした。
激突の瞬間、盾に乗った数トンの衝撃の威力を巧みに利用し、逆に盾の裏側にいたゼガートの太い腕をガッチリと掴み取る!
「なっ……!?」
「――オラァァァッ!!」
ゴガァァァァンッッッ!!!
レイヴンが、ゼガートの顔面へ向けて、渾身の『頭突き』を叩き込んだ!
鋼鉄の兜がひしゃげ、巨躯のゼガートが、まるで蹴り飛ばされた小石のように、宙を舞って数十メートル後方へ吹き飛ばされた。
「隊長……ッ!!」
ミネルはゼガートの背後に回り込み、彼を受け止めようとするが、その衝撃の余波だけで二人まとめて床を転がっていく。
「にぃぃッ……化け物がッ!!」
ミネルはすぐに体勢を立て直し、小剣を構えてレイヴンの死角へ飛び込もうとしたが――。
「おいおい……常に相手が自分の土俵で戦ってくれると思うなよ?」
レイヴンは、背中越しに迫るミネルの気配に対し、振り向きもせずに、ただ無造作に右の拳を後方の虚空へ向けて突き出した。
――ドバアァァァァァンッッ!!!
空気を圧縮して放たれた、ただの拳の衝撃波。
それだけで、ミネルの胸甲が粉々に砕け散り、彼女は悲鳴すら上げる間もなく、数十メートル吹き飛んで床を転がった。
戦闘開始から、わずか数十秒。
ウルシア王国が誇る、最高峰のパラディン三名――全滅。
「あーあ。三人まとめて結構かかったかぁ……」
レイヴンは、つまらなそうに首を鳴らし、自分の拳を見つめた。
「ちっと、手ぇ抜きすぎたかな。すぐ壊れちまうからつまんねぇや」
あまりにも圧倒的な、絶望の暴力。
俺とグレンは、その光景を前に、額から流れる冷や汗を拭うことすら忘れて立ち尽くしていた。
パラディン三人が一瞬で沈められ、残されたのはSランク冒険者グレンと、ただの雑用係の俺。
「……チッ、冗談だろ。我が国の誇るパラディン様三人が、ものの数十秒で全滅かよ」
血の匂いと崩れた石の煙が充満する地下広場。
Sランク冒険者グレンが、冷や汗で額を濡らしながら、腰の二本の剣をゆっくりと抜き放った。
彼の表情にはいつもの余裕はなく、死線をくぐり抜けてきた獣のような鋭い殺気が、全身から溢れ出している。
「おいおい、そこの二刀流の兄さん。そんなに怖ぇ顔すんなよ?」
赤黒い髪の男――レイヴンが、血塗れの拳をプラプラと振らせながら、ケラケラと嘲笑う。
「俺はただ、聖剣と魔剣っていう極上の玩具を回収しに来ただけだぜ? 邪魔しねぇなら、そこらの雑用共々、首を跳ねるだけで終わらせてやるよ」
「……生憎だがねぇ、俺はあのバカからこの兄さんを守る役目を引き継いじまったんでね」
グレンは不敵に口角を上げると、背後の俺へ向けて短く叫んだ。
「俺の背中に隠れてろ! ここからは……生身の人間が足を踏み入れちゃいけねぇ領域だ!」
「グレン……ッ!」
その時だった。
レイヴンの後ろで静かに佇んでいた女――ヴラーナが、真っ赤な唇を歪めて妖しく微笑んだ。
「フフフ……素敵な覚悟ね、冒険者さん。……でもね、私のお相手は、そちらの可愛い弱そうな男の子も入ってるのよ?」
ヴラーナが、細く白い指先をパチンと鳴らした。
チリンッ
――ズワァァァァァァンッッ!!!!!
瞬間。
世界が、激しく反転した。




