第8章:黒翼の影ー1
ただ、荒野の乾いた草を踏む自分の足音だけが、やけに大きく耳に響いていた。
辺りはもう夕暮れ時で、空の端が血のように赤く、そしてゆっくりと深く淀んだ紫へと染まり始めている。
吹き抜ける風は冷たく、頬にへばりついた乾いた泥と血の跡を、容赦なく撫でていく。
視界の果て。地平線の向こう側に、見慣れた巨大な白亜の石壁と、空を突く尖塔、そして風に翻る青き獅子の旗が見えてきた。
――ウルシア王都。
生きて、帰ってきた。
そう思った瞬間、俺の背中にのしかかっていた物理的な重みが、ズンと倍以上に増した気がした。
厳重な白い布で包んだ、勇者ラナの亡骸。俺はそれを、道中ずっと自分の背中に背負い続けて歩いている。
そして両腰には、それぞれ別の布で厳重に巻かれた二振りの剣。
人を狂わす神聖なる暴力――聖剣ラナ。
所有者の心を削り落とす悪魔の刃――魔剣オボロ。
どちらも、今は嘘のように静かだった。
暴れもせず、あの殺戮の記憶を囁きもせず、ただ単なる重たい鉄の塊としてそこに在る。
強い風が吹き、背中の布の隙間から、ラナの美しい白銀の髪が少しだけ零れ落ちて揺れた。
「……王都が、見えてきたぞ」
俺の少し前を歩いていたウルシアの兵士が、振り返らずにぽつりと呟いた。
魔剣オボロの遺跡からの帰路。途中の関所に駐屯していた騎士たちに、最低限の結果だけを説明し、王都までの護衛として三人の兵士を借りたのだ。
行きの大陸選抜と呼ばれたあの熱気と喧騒が嘘のように、帰り道は、耳鳴りがするほど静かだった。
「お前……本当に、一人だけで……それを背負ってきたんだな」
若い兵士が、俺の背中と腰へ、畏怖と恐怖の入り混じった視線を落とす。
行きは、あんなにも賑やかだった。
エドラ王国の精鋭であるAランク冒険者三人がいて。
背中を任せられる、ウルシアの誇るパラディン二人がいて。
いつも前を歩いて冗談を飛ばしていた、Sランク冒険者のオルドがいて。
――誰も、戻ってこない。
俺の喉は乾ききって、声を出そうとすると喉仏がヒュッと痛い音を立てた。
水袋にはまだ水が残っているはずだが、一滴も飲みたいと思えなかった。胃袋がすべてを拒絶している。
ただ、機械のように前に足を出す。
一歩。
また、一歩。
そのたびに、俺の心臓のすぐ上で、小さく温かい気配が揺れるのを感じた。
胸元に下げた、銀のチェーンの小さなネックレス。
神王獣と化したラナの亡骸から、ほんの一片だけ、彼女の心をもらって俺の能力で装飾品に変えたもの。
――ラナの心。
それは今も、俺の鼓動に合わせるように、微かに、トクトクと脈打っている気がした。
『……ちょっと、相棒。足取りが重いよ。ちゃんと前を向いて歩きなさいってば。まさか、私が重いなんて言わないよね?』
頭の奥底で、鈴を転がすようなラナの声が響き、俺は思わず泥だらけの顔で苦笑いを漏らした。
(……ここで重いなんて文句言ったら、怒るだろ)
『当然でしょ。首を絞めるよ』
軽口。
だが、その声の響きには、無理をして俺の張り詰めた精神を繋ぎ止めようとしてくれている、彼女なりの痛いほどの気遣いが混じっていた。
◆
王都の南門は、いつもとは違う異様な空気に包まれていた。
普段なら、各地から集まった商人の荷馬車や、武勇伝を語る冒険者たちでごった返しているはずの場所。
だが今日は、完全武装した城の近衛兵たちが何十重にも列を作り、一般の民衆は遠巻きに息を殺してこちらを見つめていた。
事前に、関所からの早馬で結果だけが王城へと伝わっていたのだろう。
「――遺跡からの帰還者だ! 門を開けい!!」
先頭の兵士が声を張り上げると、立哨していた門兵たちが、俺の姿を見てヒュッと息を呑む音が聞こえた。
「……嘘だろ。あれ、聖剣と……まさか、魔剣も……?」
「おい、あの男の背中……勇者ラナ様は……?」
群衆の中から、不安げな声が漏れ出し、波紋のように広がっていく。
問いかけるような無数の視線に、俺は何も答えられなかった。
代わりに、護衛の兵士が沈痛な面持ちでゆっくりと首を横に振る。
ざわめきが、一気に悲鳴と混乱の渦へと変わった。
「まさか……ウソだろ……」
「勇者様が……あの大闘技場で選ばれた、希望の光が……!?」
「オルドさんは!? パラディン様たちはどうしたんだよ!!」
視線が一斉に、俺の全身に突き刺さる。
背中の白い布に。腰に括られた二本の剣に。
そして、何も持たざる泥だらけの雑用係である俺の顔に。
そこにあるのは、偉業を成し遂げた英雄を見る羨望の目でもなく、ましてや裏切り者を憎む犯人を見る目でもなかった。
ただ純粋に、目の前にある理解不能な絶望を処理しきれない、哀れな人間の怯えた目だった。
「――静まれい!! 道を空けろ!!」
門の向こうから、空気を切り裂くような鋭い声が飛んだ。
王城の獅子の紋章を胸に付けたナイト職の騎士が、白馬に乗って駆けてくる。
「聖剣ラナ、および魔剣オボロは、王の勅命によりこれより直ちに王城へと搬入する! ……そして、勇者ラナ殿の亡骸もだ。周囲の者は決して近寄るな! ……急げ!」
上位騎士の号令に従い、兵士たちが俺の周囲をガッチリと固めるように陣形を組んだ。
俺は無言でこくりと頷き、背中のラナの重みと、二本の剣の冷たさをもう一度確かめた。
そうして、王都の舗装された石畳の中へ、重いブーツを踏み出す。
見慣れた武器屋の看板。安酒場の匂い。果物を売る露店の色彩。
以前は活気に満ちて見えていたその全ての景色が、今日の俺の目には、まるで色が抜け落ちた古い絵画のように、ひどく虚ろで無価値なものに映っていた。
王城の大広間に一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気と、すでに執り行われているかのような重苦しい葬礼の空気が俺の全身を包み込んだ。
玉座へ続く長い大理石の床。
その中央に、白い絹布で優しく包まれたラナの亡骸が静かに横たえられた。
周囲を取り囲むのは、王族、軍の重鎮、白銀の甲冑を纏った近衛騎士たち、そして冒険者ギルドの最高幹部たち。誰もが言葉を失い、蒼白な顔でその小さな亡骸を見下ろしている。
玉座に座る国王エルムンド三世は、数日前、大闘技場で輝かしい勇者の誕生を宣言した時よりも、まるで十歳も歳をとったかのように深く老け込んで見えた。
「……勇者ラナ、並びに回収部隊……全滅。報告、確かに受け取った」
王の低く掠れた声が、広間の天井に重く反響する。
俺は冷たい石床に両膝をつき、深く頭を垂れていた。
謁見の間に入ってからの数十分間で、俺は古代遺跡の内部で起きたすべてを、包み隠さず王と重臣たちの前で証言した。
エドラ王国剣術指南役――剣聖カシアンの真の目的が、最初から魔剣オボロの強奪であったこと。
聖剣ラナの権能を利用して神獣の群れを攻略させ、オボロを手にした瞬間に味方へ刃を向けたこと。
エドラのAランク三人が一瞬で肉片に変えられたこと。
女パラディンが仲間を守るために自ら命を絶ち、その目の前でリュグナの首が刎ねられたこと。
Sランク冒険者オルドが、仲間を汚された激怒のまま斬りかかり、一閃のもとに真っ二つに切断されたこと。
そして――精神を粉砕された勇者ラナが絶望の中で命を落とし、最後は彼女の遺志を喰らった俺の手で、カシアンを血の海に沈めたこと。
カシアンが狂喜しながら語った、吐き気を催すような凄惨な試斬の描写までは口にしなかった。だが、その裏切りの醜悪さと理不尽な死の絶望は、場にいる全員に痛いほど伝わっていた。
「……エドラ王国へも、この真実はしかるべき形で伝えねばならぬな……。剣聖と呼ばれし男が、これほどの醜悪な化け物であったとは……」
エルムンド王は深く、長く息を吐き出し、痛開そうに眉間を指で揉んだ。
「勇者ラナは……我がウルシアのみならず、このイーリス大陸全土にとっても、迫り来る魔族の脅威を払う希望であった。……その幼き少女を死地へと送り込み、このような悲惨な結末を招いたこと……まさに我が不明の致すところ。不徳の致すところだ」
玉座の脇で、老宰相が痛切な面持ちで静かに目を閉じている。
貴族席からは、すすり泣く女性の声が漏れ、騎士たちは激しい憤怒に拳を血が滲むほど固く握りしめて沈黙を貫いていた。
そんな重圧が支配する中――。
「……面を上げよ、異界の若者よ」
王の低く、静かな声が降ってきた。
俺が恐る恐る顔を上げると、玉座の上から、エルムンド王の射抜くようなサファイアの瞳が真っ直ぐに俺を捉えていた。
「そなたは……よくぞ生きて戻ってくれた」
「……いえ。俺は……何も……。仲間を一人も守れず……ただ、惨めにも生き残っただけで……」
「何もしておらぬ者が、聖剣と魔剣の双方を携え、真実を携えて戻れるはずがなかろう」
王の言葉には威厳があったが、そこには俺を責める色は微塵も存在しなかった。
「現場の生き残りであるそなたに対し、『なぜ勇者を守れなかったのか』と理不尽な咎を立てる者も愚か者の中にはおろう。だが、わしは違う。そなたが、命を賭してその二振りの希望を持ち帰ってくれたからこそ、我が国は事態の真実を知り、次の手を進めることができるのだ」
胸の奥底で、泥のように重く冷たく固まっていたものが、ほんの少しだけ解けていくのを感じた。
「……ありがたき、お言葉……身に余ります」
「勇者ラナには、我が国の最高栄誉たる国葬をもってその魂を弔う。そして……回収された聖剣ラナと魔剣オボロも、一度はその棺の傍らに捧げねばなるまい」
王の視線が、大広間の前庭に恭しく運び込まれた、布に包まれた二振りの長剣へと注がれる。
白銀と蒼光を放つ、絶対なる聖剣。
漆黒の暗気を纏い、空間を歪ませる悪魔の魔剣。
どちらも布を解かれることなく、重厚な台座の上に静かに横たえられていた。




