第57章:剣王アリルー1
アリス王都、最高級宿屋の最上階。
豪奢な天蓋付きベッドが三つも並ぶ広々とした特別室だが、今のこの部屋の空気は、針の筵よりもひどく息苦しく、重かった。
王都の平和な夜景を背に、薄暗いオレンジ色の魔法ランプの光だけが揺れる中。
重厚な木製テーブルを挟んで、俺は静かに対峙していた。
無断で部屋に侵入し、あろうことか俺の定位置であるはずの椅子に、我が物顔で深く腰掛けている男。
剣王アリルと名乗った、ヨレヨレのコートを着た無精髭の、うだつの上がらないオッサン。
ラナたちには隣の部屋へ下がるよう目で指示を出した。俺の背後には、万が一の事態に備えて、サーシャだけが息を殺して立っている。
「……十王が、俺を全面的にサポートするだと?」
俺は、腰の魔剣ムラマサの柄に右手を置いたまま、氷のように冷たく、一切の冗談を許さない声で吐き捨てた。
「都合のいい戯言だな。……冗談なら、今すぐその首を斬り落として窓から外に放り捨てるぞ」
俺の、明確な殺意を孕んだ凄まじい威圧。
だが、剣王アリルは、俺たちが屋台で買ってきた串焼きの残りを勝手にモチャモチャと齧りながら、気怠そうに、しかしその実、ひどく真剣な口調で口を開いた。
「冗談なもんか。……俺たち十王は、本気でお前さんにベットするって決めたんだよ」
アリルは、食べ終わった串をテーブルにポイと無造作に投げ捨てた。
そして、ボサボサの頭を掻きながら、その夜空のように深い瞳で俺を真っ直ぐに捉えた。
「いいか、兄ちゃん。この世界は今、気づかぬうちに。……ゆっくりと、だが確実に滅びへと向かっている」
「……」
「数年前から、どこからともなく魔族と名乗る醜悪な種族が、チラホラとこの世界に湧き出し始めてな。
最初は、Aランクそこらの冒険者でも対処できるような、オーガに毛が生えた程度のもんばかりだった。だから俺たちも、ただの突然変異の魔物の一種だろうと高を括ってたんだ」
アリルは、テーブルの上で両手を組み、その顔から一切の愛想笑いを消し去った。
「だが、徐々に現れる連中の格が上がり……一年ほど前。魔王軍の最上位貴族と名乗る規格外のバケモノが、本格的に人間界の蹂躙に動き出した」
アリルは、指を三本、俺の目の前で立てた。
「その時点で、すでに魔族の暴虐によって……何百年も続いた歴史ある三つの大国が、文字通り、地図から消されたんだよ」
「消された……?」
俺の背後で、サーシャが小さく息を呑む音が聞こえた。
「比喩じゃねぇ。陥落したとか、占領されたとか、そういう生易しい話じゃねぇんだ」
アリルは、苦々しい顔で言葉を紡ぐ。
「ある国は、数百万の民衆ごと、一晩でチリ一つ残さず物理的に蒸発した。
ある国は、国土そのものが、永遠に明けない暗闇と狂気に包まれ、住民同士が殺し合う地獄に変わった。
……あいつらは、ただの侵略者じゃねぇ。人間の絶望と悲鳴を娯楽として消費する、純粋な悪意の塊だ」
三つの国が、完全に消滅した。
その言葉の圧倒的な質量の重みと、そこに詰まった数百万の血の匂いに。
部屋の空気がピンと、極限まで引き絞られた鋼の糸のように痛く静まり返る。
俺の脳裏に、ロロンの圧倒的強さが鮮明にフラッシュバックする。
連中なら、国を三つ消し飛ばすことなど、欠伸交じりの余興でやってのけるだろう。
「……本来。俺たちの住むこの人間界と、アイツらの住む魔界ってのは、完全に断絶された、まったく別の次元だ」
アリルが、テーブルに置かれたグラスの安酒を煽りながら、話を続ける。
「互いに干渉なんて、神にだってできねぇはずだった。
……だが。それをやりやがった狂人がいる。今、世界中の裏社会と国家機関から最高ランクで指名手配されている、最悪の魔術師ボーゲンだ」
ボーゲン。
アリス王国の部隊長からも聞いた、魔界の扉を開いたという最悪の魔術師の名。
そして、俺の仲間を惨殺した連中を、この世界に招き入れたすべての元凶。
「そいつが、この世界の誰も知らない禁忌の術理を用いて、次元の壁を物理的にぶち抜き。……魔界と人間界を繋ぐ巨大な扉を創りやがった。
今も魔族が湧き出してくるのは、そのボーゲンが魔界とのパスを完全に繋いでしまったからだ」
「……ボーゲン」
俺は腕を組み、アリルの眼の奥を真っ直ぐに射抜いた。
「そいつがすべての元凶なら、話は早い。
世界の絶対的な抑止力であり、神王獣にすら匹敵するという十王のアンタらが。総出でその扉の場所を突き止めて壊しに行くか、そのボーゲンとやらを殺せば済む話だろ。
……なぜ、それをしない。ただ指をくわえて、三つも国が滅ぶのを見ていたのか?」
「それができりゃ、こんな夜中に怖い顔した兄ちゃんの部屋に忍び込んで、安酒を飲んでたりしねぇさ」
「高ぇから…」
剣王アリルがオレの呟きを無視し、飲んでいた空のグラスをドンッ、と音を立ててテーブルに置いた。
その瞬間。
アリルの夜空のような深い瞳の奥に、初めて剣王としての、鋭く、背筋が凍るような剣呑な光が宿った。
「俺たちの見立てじゃ……魔術師ボーゲンって野郎は。そもそも、この世界の住人じゃねぇんだ」
「……何?」
俺は、わずかに眉をひそめた。
「あいつは……どこかまったく別の、魔法の理すら異なる異世界からやってきた転移者の可能性が極めて高い」
――ドクン、と。
俺の心臓が、ひどく嫌な音を立てて大きく跳ねた。
ボーゲンが、転移者?
俺と同じように、別の世界からやってきた存在だというのか。
「奴の使う魔法の術式も、魔力の構成も、存在の在り方そのものも……この世界の理から完全に、根本的に逸脱してるんだよ」
アリルは、ギリッと忌々しげに奥歯を噛み締めた。
「俺たち十王は、この世界の魔力や事象の流れを読み取る力に長けてる。だからこそ世界の頂点にいる。
だが……ボーゲンの足跡は、この世界の仕組みに一切引っ掛からねぇ。俺たち十王の情報網を持ってしても、奴の居場所すら掴めねぇし、魔界を繋いだ真の目的も全く分からねぇんだ」
俺は、無言でアリルの言葉を咀嚼した。
異世界からの転移者。
俺がこの世界で「武装化」という異質な力を使えているように。ボーゲンもまた、別の世界の理不尽なシステムを持ち込み、それを利用して次元をぶち抜いた。
だからこそ、十王でさえ手出しができない。
「それに、だ」
アリルは、深刻な顔で言葉を継いだ。
「俺たち十王がもし、総力でボーゲンや魔王の討伐に動けば……必ず、この世界のどこかに何かしらの致命的な歪みが生まれる。
俺たちという強大な抑止力が一つの場所に偏れば、世界の天秤の均衡は一瞬で崩壊し、別の災厄が引き起こされる。俺たちは動きたくても、組織としては派手に動けねぇ。完全に後手後手なんだよ」
……なるほどな。
世界の均衡を保つ巨大な柱である十王は、その存在が大きすぎるが故に、世界そのものの重石になっており、容易に身動きが取れない。
自縄自縛のトップ連中。
だからこそ、俺なのか。
「……そこでだ」
剣王アリルは、身を乗り出し、薄暗いランプの光の中で俺を指差した。
「この世界のしがらみに一切縛られない。世界の天秤にも乗っていない。それどころか、魔力すら持たない……この世界の仕組みの外側にいる、異端とも言えるお前さんが、ひょっこり現れた。
そして。俺たち十王でも、容易には手を出せない神王獣を二体も屠り、最上位貴族スカーフェイスすらも殺した」
アリルは、俺をまるで救世主か、あるいは最高のオモチャを見つけたかのように、ニヤリと笑った。
「……俺たち十王が、世界の命運を賭けたこのクソッタレな盤面で。
お前さんという、何をしでかすか分からない未知のジョーカーに全額ベットするのは、至極当然の流れだろ?」
世界の抑止力である自分たちは動けない。だから、外から来た異常者である俺を神輿に担ぎ上げ、俺の復讐心をガソリンにして魔王にぶつける。
それが、十王の描いた絵。
そこから、アリルは巧妙な探りを入れてきた。
俺の素性、武装化という能力のカラクリ、元の世界での経歴。
俺もまた、言葉の裏を読みながら、十王の実際の戦力や、魔族の生態、魔界の扉の場所について探り返す。
互いに、相手の喉元に薄刃を突きつけ合いながらの、命のやり取りにも似た高度な腹の探り合い。
だが。
数分もしないうちに。俺は小さく、だがひどく冷たい息を吐いて、円卓の椅子からゆっくりと立ち上がった。
「……十王側の薄汚い事情は、よく分かった。
だが。今日の話はここまでだ。……帰ってくれ」
「あん?」
アリルが、話の腰を唐突に折られたことに不満そうに、間抜けな声を出す。
「今日は、休む。……俺は、そう決めたんだ」
俺は冷たく言い放ち、親指で背後の扉の方を指差した。
薄暗い部屋の奥。
豪奢な天蓋付きのベッドでは、シャリンとラナ、そしてサーシャが。
俺たちのこの血生臭い会話にも、殺伐とした空気にも気づかずに。静かに、平和で幸せそうな寝息を立てている。
彼女たちは、今日、王都の屋台を巡り、笑い、はしゃぎ、そして心からの安堵の中で眠りについた。
俺は今日、彼女たちのあの平和な笑顔を守るために。そして、俺自身の壊れかけた精神を繋ぎ止めるために。
一日だけ、血生臭い復讐の歩みを止めると決めたのだ。
それを。
こんなどこぞの得体の知れないオッサンの、世界の危機だのなんだのという都合のいい理屈で、邪魔される義理はない。
「俺はお前と、この世界の危機について夜明かししてやる予定はない。
……話の続きをしたければ、明日の朝、陽が昇ってから出直してこい」
俺がそう言って、アリルに背を向けた、その時だった。
アリルは立ち上がらず、椅子に深く腰掛けたまま。
「ふん」と、人を小馬鹿にするように、鼻でひどく下劣に嗤ったのだ。
「……なんだそりゃ。呆れて物も言えねぇな」
アリルのその声には、先ほどまでの人懐っこさは微塵もなく。
ただ純粋な、強者としての失望と侮蔑が込められていた。
「お前さん。大事な仲間たちを、魔族の最上位貴族にゴミのように惨殺されたんだろ?
その仇を討つために、血眼になって牙を研いでる狂犬かと思えば……」
アリルは、眠っているサーシャたちを顎でしゃくった。
「昼間はのんきに女子供と甘いモン食って遊んで。疲れたから、もう寝るだァ?」
――ピキッ。
俺の足が、止まった。
「お前さんのその大層な復讐心は。ゴミのように死んでった仲間たちへの想いは……所詮、良い女とイチャついたらスッキリ忘れちまうような、その程度の安モンだったのねぇ〜」
それは。
剣王アリルが、この謎多き異世界人の本当の心を試すために放った。意図的で、悪意に満ちた、挑発だった。
そんな意図は重々承知していた。
怒らせて、どれほどの殺気を見せるか。世界の命運を託すに足る、本物の狂気を宿しているか。それを測るための、強者の慢心。
だが。
アリルは、数秒後に知ることになる。
自分が踏み抜いたのが、ただの地雷などではなく。……世界そのものを終わらせかねない、破壊神の逆鱗であったことを。
直後。
部屋の空気が、完全に凍結した。
比喩ではない。
物理的に、部屋の空間の温度が一瞬にして数十度も急激に下がり。大気中の水分が強制的に凍りついて、キラキラと細かな氷の粒となって室内に舞い始めた。
パチッ……ジジッ……。
テーブルの上で燃えていた魔法ランプの火が。周囲の酸素を、俺から放たれる圧倒的なプレッシャーによって根こそぎ奪われ、酸欠状態となって細く、弱々しく明滅し始めた。




