第57章:剣王アリルー2
テーブルの上で燃えていた魔法ランプの火が。周囲の酸素を、俺から放たれる圧倒的なプレッシャーによって根こそぎ奪われ、酸欠状態となって細く、弱々しく明滅し始めた。
「…………」
俺は、何も言わなかった。
怒鳴り散らす気にも、言い訳がましく反論する気にもなれなかった。
ただ、扉へ向けていた足を止め。ゆっくりと、首だけを振り返り。
深い闇よりもなお暗い。一切の光を反射しない、完全な虚無の瞳で。
椅子に座っているアリルを、静かに見下ろした。
言葉にできない。
いや、この世のどんな凄惨な言葉を並べても表現しきれないほどの、純粋で、純黒の殺意だけが。
俺の全身から、タールのような黒い泥となって、ボタボタと物理的な音を立てて溢れ出した気さえした。
「……ッ!!」
その瞬間。
これまで冴えないオッサンを完璧に装い、余裕を見せていたアリルの顔色が一変し、全身の産毛という産毛を総毛立たせた。
隠蔽されていた剣王としての凄まじい覇気が、生存本能の危機的警鐘によって無意識に爆発し。
アリルの右手が、弾かれたように腰の剣の柄へと伸びる。
剣王アリルの瞳孔が、恐怖で極限まで収縮した。
凡人の目には見えない。ただ、部屋が寒くなったようにしか感じないだろう。
だが、強者の頂点に立ち、世界の理を視るアリルの目には。……ハッキリと、その地獄の光景が視えていたのだ。
俺の背後に。
重なり合うようにして、部屋の天井を突き破るほどのスケールで浮かび上がる、三つの規格外の神王獣の幻影が。
俺の右後方。
禍々しい深緑の瘴気を放ち、八つの首を鎌首のように持ち上げて、アリルを今すぐ噛み砕こうと威嚇する、神王獣ヤマタノオロチ。
俺の左後方。
万物を置き去りにする神速の冷気を纏い、金色の瞳で獲物の喉笛を睨み据え、低い唸り声を上げる白銀の狼、神王獣フェンリル。
俺の頭上。
国を消し去る地獄の業火を纏い、すべてを灰燼に帰そうと、太陽のような巨大な炎の剣を振り被る炎の巨人、神王獣スルト。
そして。
三体の神王獣をその身に宿し、その魂を喰らっておきながら。
それでもなお、一切の底が見えない。俺の瞳の奥に広がる、真っ黒な底なしの虚無。
それは、世界を滅ぼすという魔王よりも遥かに恐ろしく、異質で、理不尽な。完全なる破滅の化身の姿だった。
「オレの復讐が、安いかどうか……」
俺が。静かに、そして這いずるような、地獄の底から響く声で呟くと同時に。
アイテム袋の奥底に厳重に封印していたはずの、万物を閉ざす柄のない刃――聖剣スカーフェイスが。
俺の剥き出しの殺意に呼応して、カタカタ、カタカタと、袋の中で不気味な共鳴音を立て始めた。
「今ここで。……お前の命で、試してみるか?」
剣王アリルは、柄に手をかけた姿勢のまま、完全に硬直していた。
抜けない。
抜けば、死ぬ。
この男の背後にある三体の神王獣が、俺という世界を終わらせる。
剣を極めた十王の頂点である彼が。数十年ぶりに感じた、手も足も出ない絶対的な死の確信だった。
「……わ、悪かった。俺の……失言だ。少々、冗談が過ぎた」
数秒後。
剣王アリルは、額からツーッと滝のような冷や汗を流し。剣から手を離すと、両手をゆっくりと上げて、完全な降参のポーズをとった。
引き攣った笑いを浮かべているが、そのヨレヨレのコートの背中には、びっしょりと嫌な汗が張り付いていた。
(……冗談じゃねぇ。こいつは。魔力ゼロだァ? ただの転移者だァ? ふざけるな)
アリルは、内心で震えながら悪態をついた。
(こいつは、魔王だの神王獣だのって次元の存在じゃねぇ。……人間の皮を被った、正真正銘のバケモノだ。深淵そのものだ)
アリルは心底からの恐怖を覚えながらも。同時に、十王としての絶対の確信を抱いていた。
こいつなら、確実に魔王を殺せる。
どんな非道な手を使ってでも、どれだけ世界を巻き込んででも、最後は確実に魔王の首を獲る、と。
「……じゃあな。明日の朝、また出直してくるぜ。……ゆっくり休めよ、ジョーカーくん」
アリルは、逃げるように窓枠に素早く足をかけ。
夜の闇へと、まるで俺の殺気から逃れるように、溶けるように姿を消した。
バタンッ。
窓が風で閉まる音と共に、部屋の異常な冷気と殺気が霧散し、ランプの火が再び明るさを取り戻す。
俺は、深く息を吐き出し。
アイテム袋の中で暴れていた呪剣の脈動を意志の力でねじ伏せると、再び、ベッドで静かに眠る三人の寝顔を見つめ直した。
俺の復讐は、決して安くなどない。
オレの全身が完全にバケモノに成り果てようとも、必ず成し遂げる。
その血塗られた誓いを、剣王アリルという劇薬によって、改めて魂に刻み込まれた夜だった。
翌朝。
アリス王都の最高級宿屋、一階の広い食堂には、早くも焼きたてのパンと香ばしい肉のスープの匂いが充満していた。
「んんっ、おいひぃ! 相棒、このお肉すっごく柔らかい!」
「おにいちゃん、私の分もちょっと食べる?」
「ほら二人とも、はしたないわよ。急がなくても誰も取らないから」
まだ完全に目が覚めきっていない夢現のまま、テーブルに並べられたたっぷりの朝食を奪い合うように頬張るラナとシャリン。それを姉のように優しくたしなめながら、自身の皿の卵料理を切り分けるサーシャ。
俺は、コーヒーの入ったマグカップを片手に、その賑やかで平和な光景を少し離れた席から見届けていた。
三人の少女たちの、他愛のない笑い声。
これが、俺が理不尽な暴力を振るってでも守ると決めた、この世界で唯一の日常だ。
俺は、コーヒーを無言で飲み干すと。
彼女たちのその屈託のない笑顔の視界から外れるように、静かに席を立ち、宿屋の裏手にある人気の少ない中庭へと足を向けた。
朝霧がまだうっすらと残る、冷え切った中庭。
そこには、昨夜あれほどの絶対的な死の恐怖を味わったはずのヨレヨレのコートを着た男――剣王アリルが、壁に背を預けて呑気に欠伸をしていた。
「よお、ジョーカーくん。昨夜は悪かったな。俺も、世界の現状に少し焦っててよ……つい、底意地の悪りぃ挑発をしちまった。許してくれや」
アリルは、昨夜の俺の底知れないバケモノの姿など微塵も覚えていないかのように。
ポリポリと無精髭の顎を掻きながら、飄々とした、ただの冴えないオッサンの態度でヘラヘラと詫びてきた。
だが、その夜空のような瞳の奥底だけは、俺の一挙手一投足を、いや、俺の影の揺らぎ一つすらも見逃すまいと、極限の警戒レベルで張り詰めているのが分かる。
図太い。これが、世界の頂点に座す者のメンタルか。
「気にしてない。安い挑発に乗った俺も大人げなかった」
俺は腕を組み、冷たく即座に無駄口を切り捨て、本題に入った。
「十王のサポートがあるってんなら、話は早い。
魔王城への地図はもらった。……だが、魔王を確実に殺し切るには、勇者の剣が足りない。
次は……海を統べる神王獣ヨルムンガンドを狩る。まずは奴の情報が欲しい」
「ヨルムンガンド、か……」
アリルは、俺の躊躇のない神殺しの宣言に、深々と重い溜息を吐き出した。
「またスルトに負けず劣らずの、とんでもなく厄介な奴に目をつけたもんだ。
あいつは、この大陸の遥か北。魔の海域を縄張りにしている、島ほどもあるバカデカい猛毒の海蛇だ。……正直、スルトやフェンリルより性質が悪いぞ」
アリルはしゃがみ込むと、その辺に落ちていた手頃な木の枝を拾い、硬い土の地面にガリガリと簡単な大陸の地図を描き始めた。
「だが、すまねぇな。俺は根っからの剣士だ。海での戦い方や、あの海域のイカれた海流の地形については完全に専門外だ。俺の口からテキトーなことを教えて、お前さんが海のもくずになっちまうのは困る」
アリルは、描いた大陸の北端――海に面したギリギリのポイントに、枝の先でバツ印をつけた。
「詳しいことは、世界の海すべてを熟知している、十王の一人……海王イガラルに直接聞くのが一番手っ取り早い」
「海王イガラル。そいつはどこにいる?」
「ここからずっと北だ。通常の馬車なら、どんなに急いでも二ヶ月はかかる。大陸の端っこにポツンと浮かぶ孤島、荒波に面した絶海のポートレイス村ってとこに引きこもってるよ。
頑固で気難しい、融通の利かねぇジジイだが……お前さんが直接出向けば、嫌でも話を聞いてくれるはずだ」
「分かった。準備ができ次第、今日中にポートレイス村へ向かう」
必要な情報はすべて得た。
俺は、無造作に背を向け、仲間たちが待つ温かい食堂へと歩き出した。
魔王を殺すための、次なる手札集め。
昨夜、アリルから魔術師ボーゲンという、自分と同じ異世界からの転移者の存在を知らされたことで。
俺の復讐のロードマップと、この世界の狂った構造に対する解像度は、より鮮明に、そしてより鋭利に研ぎ澄まされていた。
(異世界転移者ボーゲン。……どこの世界の誰かは知らないが、そいつが次元の扉を開いたせいで、魔族がこの世界に現れた)
俺の瞳の奥で、純黒の殺意が静かに、だが底なしの熱を持って燃え上がる。
(魔王、最上位貴族。そして、すべての元凶たる魔術師ボーゲン。
盤外のジョーカー同士、どちらのエゴが上か。……全員まとめて、俺がこの手で噛み砕いてやる)
「――おい、ジョーカーくん」
食堂へのドアに手をかけた俺の背後から。
アリルが、先ほどの飄々とした態度を完全に消し去った、地の底を這うような剣王としての真剣な声音で声をかけてきた。
「……お前さんのその力は、あまりにも理から外れすぎている。
使い方を一つ間違えれば……魔王軍を倒す前に、この世界そのものを物理的に壊しかねねぇ。……それだけは、絶対に忘れるなよ」
それは、十王としての純粋な忠告。
あるいは、世界を滅ぼす引き金になりかねない俺という存在に対する、最後の釘刺しだった。
「安心しろ」
俺は、アリルの方を振り返ることはしなかった。
食堂から漏れ聞こえるラナやシャリンの笑い声を背に受けながら、ただ冷たく、喉の奥で嗤った。
「俺が壊すのは、俺からすべてを奪った魔族だけだ。
……それ以外の、この世界がどうなろうと。俺には、一切の興味はない」
言い捨てると同時。
俺はドアを押し開け、中庭の冷たい空気を完全に遮断した。
三体の神王獣の魂をその身に喰らい。
最上位貴族スカーフェイスの万物を閉ざ能力すらも、己の剣として手に入れた復讐鬼は。
次なる絶対的な力――世界を沈める海蛇を求め。
荒れ狂う北の魔の海域へと、一切の躊躇うことなく足を踏み出すのだった。




