第56章:消えない傷ー2
ボワァッ、と。
屋台の店主が、肉を炙るために、魔法で火力を一気に強めた。
一瞬だけ、周囲の空気が熱を帯び、焼けた肉の脂の匂いがフワリと漂う。
(あ……)
俺の脳の奥底で、何かが致命的な音を立てて弾けた。
視界が、一瞬にして白黒に反転する。
耳を劈くような、強烈な耳鳴りが頭蓋骨の内側で鳴り響き、平和な王都の喧騒が、遠くのノイズのようにフェードアウトしていく。
ジュウウウという肉の焼ける音が。
最上位貴族ロロンが殺したジークの死体がアーティファクト・ヒナワの銃身の熱によって、皮膚に触れている部分が焼け焦げていく肉の焼ける音に変換される。
キャハハハッという子供たちの無邪気な笑い声が。
仲間たちの武具を神王獣に変えた最上位貴族ギンの、悍ましい哄笑に変換される。
「ハッ……ガッ、あ……!」
俺の呼吸が、急激に浅く、狂ったように荒くなる。
手足の先から急速に血の気が引き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打つ。
極限の死線に打ちのめされ、張り詰めていた糸が、この平和すぎる光景によって強制的に切断された。
戦場にいる方がマシだった。平和は、守れなかった俺の心を抉る、劇薬だ。
「……殺す、殺す、ロロン、ギン……殺す……ッ!!」
俺は、無意識のうちにクレープを握り潰し、空いた右手で、今は腰にないはずの魔剣ムラマサの柄を狂ったように探り当てようとしていた。
殺気を撒き散らし、周囲の通行人が何事かと怯えて道を開ける。
「……英雄さん」
完全に錯乱し、暴走しかけた俺の右手を。
温かく、柔らかい両手が、そっと優しく包み込んだ。
「大丈夫。……ここは、アリス王都よ」
サーシャだった。
彼女は、突然狂乱した俺を怖がることも、野次馬の目を気にして焦ることもなく。
ただ真っ直ぐに、深い慈愛を湛えた黒い瞳で、俺の瞳の奥の暗闇を見つめ返していた。
「あなたは、今、ここにいるわ。……そして、私たちがいる」
彼女が、子守唄のハミングを、口の中だけで小さく奏でる。
その声が、耳鳴りを切り裂き、俺の脳内にこびりついていた血と灰の幻影を、スーッと優しく払拭していった。
「……っ」
俺は、滝のような冷や汗を流しながら、大きく息を吐き出し、膝に手をついた。
視界が元に戻り、王都の喧騒が再び耳に届く。
「……悪い。少し、立ち眩みがしただけだ」
俺は、震える声を必死に押し殺し、強がって顔を背けた。
「……ええ。分かってるわ」
サーシャは、それ以上何も聞かず、握り潰してしまったクレープをサッとハンカチで包み込み、「少し休憩しましょうか」と、俺の背中を優しく撫でてくれた。
活気に満ち溢れ、人々の活力が交差する巨大な市場。
色とりどりのステンドグラスが西日を受けて神々しく輝く、荘厳な大聖堂。
俺たちは、王都全体を一望できる高台の公園へとやってきた。
そこから見下ろすのは、薄極彩色の空がオレンジ色に染まる、美しい夕焼けの王都の景色。
行き交う人々の、この絶望に慣れたのか明日が来ることを微塵も疑っていない笑顔と、平和な日常の喧騒。
屋台の煙が立ち上り、子供たちが走り回り、衛兵たちが穏やかに巡回している。
この光景。
俺がこの前までいたあの世界では、あの最上位貴族たちの理不尽な暴虐によって、すでに塵と化し、永遠に失われてしまったのだろうか。
(……いや。ジークや、ソーや、カリナたちは死んだ。俺の目の前で、理不尽に塵にされた。
だが……シンを、リクを、ショウを信じよう)
俺は、公園の石造りの手すりに寄りかかり、夕日の沈む地平線を見つめながら、強く、血が滲むほど拳を握りしめた。
(あいつらなら、必ずあの絶望から逃げ延びて。いつか、反撃の狼煙を上げてくれるはずだ。……だから、俺は俺の戦いをするだけだ)
俺は、視線を横に向けた。
夕日に赤く照らされながら、買ってきた串焼きを奪い合って笑い転げている、シャリンとラナ。それを優しくたしなめるサーシャの三人の姿。
俺は、己の胸の内で。
新たな、そして絶対に折れない誓いを立てた。
魔王を殺す理由は、もう、ただの失った過去への復讐だけじゃない。
俺の横で笑う、彼女たちのこの他愛のない笑顔を。この、狂乱の世界にわずかに残った、くだらなくも愛おしい日常を。
二度と、あのバケモノどもに奪わせないためだ。
そのための暴力なら、修羅の道なら。
俺はいくらでも、この手を血に染め、神の死骸を纏い、世界で一番悍ましいバケモノになってやる。
すっかり日が落ち、王都に冷たい夜の帳が下りた頃。
俺たちは、両手で抱えきれないほどのお土産や屋台飯の袋を抱え、心地よい疲労感と満足感と共に、宿屋の最上階の部屋の前へと戻ってきた。
「あー、楽しかったぁ! お腹いっぱい! 相棒、また明日も行こうね!」
ラナが嬉しそうに背伸びをしながら、部屋の重厚な木製の扉のドアノブに手をかけ。
一切の警戒もなく、無造作に、ガチャリと開け放った。
――だが。
扉が開き、部屋の空気が外の廊下に流れ出た、その瞬間だった。
「ッ!!」
「相棒っ!?」
「おにいちゃ――」
俺は咄嗟に、前を歩いていたラナとシャリンの後ろ襟首を乱暴に掴み。
ひっくり返るほどの力で、強引に廊下の後ろへと引きずり下がった。
お土産の袋が床に散乱し、果物が転がる。
俺はそのまま背後のサーシャを庇うように立ち塞がり、音もなく腰の魔剣ムラマサの柄に手をかけ、薄暗い部屋の中を、猛禽類のように鋭く睨み据える。
部屋の奥。
窓から差し込む、青白い月明かりに照らされた、俺たちの部屋の円卓の椅子に。
見知らぬ男が、一人。
静かに、音もなく座っていた。
「……お疲れさん。ずいぶんと帰りが遅かったじゃねぇか。
待ちくたびれて、勝手にお前さんたちの高い酒をいただいてるぜ」
月明かりに照らされたその男は。
どこにでもいるような、うだつの上がらない無精髭のオッサンだった。
年齢は四十手前といったところか。
ヨレヨレのくすんだ茶色いコートに、手入れされていないボサボサの髪。
殺気も、魔力も闘力も感じない。強者の覇気など、微塵も感じられない。
その辺の安酒場で管を巻いている、ただの冴えない酔っ払いにしか見えなかった。
だが。
俺の細胞のすべてが、俺の中に巣食う神王獣たちの生存本能が。
警鐘を通り越して、狂ったように即死のサイレンを鳴らし続けている。
こいつは、魔力も気配もないのではない。
俺が、神王獣の魂を身に宿しているからこそ分かる。
こいつの力は、一切の漏れがないほどに、完璧に、そして異常なレベルで制御され、完全に内側に隠蔽されているのだ。
圧倒的な密度の暴風雨が、一滴の雫の中に無理やり圧縮されているような。
そこに存在するだけで周囲の空間が歪むような、悍ましいほどの、存在の不自然さ。
もし俺がこいつに斬りかかれば、剣を触れた瞬間に、俺の身体ごと虚空へ飲み込まれる。そんな直感が、肌を刺す。
「……誰だ、お前。……すぐ答えろ。答えなければ、首を斬る」
俺の、絶対零度の冷たい声に。
男はテーブルにコツンとグラスを置き、ポリポリと面倒くさそうにボサボサの頭を掻いた。
「ああ、悪い悪い。そんな怖い顔すんなよ、悪意も敵意もねぇよ」
男は、人の良い笑顔を浮かべて、ヒラヒラと手を振った。
「ただ、ちょっとお前さんたちと。今後のこの世界について、少しばかり重要な話がしたくてな」
オッサンは、よっこいしょと重い腰を上げるように立ち上がり、気怠そうに肩を竦めた。
「俺はアリル。まあ、そこらのしがない、ただの剣士だ。
……いや。神王獣を二体も屠り、最上位貴族すらぶっ殺したお前さんたちには、ちゃんと名乗らねぇと失礼か」
男は、ニカッと。
どこまでも人懐っこい。だが、眼の奥の深淵だけは、絶対に底を見せない笑みを浮かべた。
「【剣王アリル】って名乗ったほうが、話が早いか?」
……剣王。
深淵の森で遭遇した森王ユジンに続き。
この世界の絶対的な抑止力たる、世界の頂点【十王】の二人目が。
今度は威圧的な警告ではなく、向こうから直接、俺たちの最も無防備な懐へと接触してきたのだ。
「十王が……俺に何の用だ」
俺は、ムラマサを鞘から一寸だけ抜き、親指で鍔を弾いた。
「神王獣を殺し、最上位貴族を殺した俺を。……世界の理を乱す害獣として、ついに処刑しに来たのか?」
張り詰めた、一触即発の空気の中。
剣王アリルは、ふっと息を吐き出し、両手を降参するように上げてみせた。
「だから、そう殺気立って警戒すんなって。お前さん、魔王を殺す気なんだろ?」
アリルは、月明かりの中で。
俺の復讐のロードマップを、根底から覆す決定的な言葉を口にした。
「ついさっき、俺たち十王評議会で決議が下ったんだよ。
……俺たち十王は、お前さんを、魔王討伐の切り札として、全面的にサポートするってな」
追い風。
いや、風なんて呼べるほど生易しいものじゃない。
世界の歴史の裏側を支配する王たちの総意という、すべてを巻き込む台風のような巨大な追い風が。
今、俺の背中へ向けて、強烈に吹き荒れた。




