第56章:消えない傷ー1
アリス王都の遥か南。
すべてを溶かす高熱の有毒ガスと、絶対の炎に支配されていた灼熱の死地地獄の釜。
神王獣スルトの国を消す炎と、最上位貴族スカーフェイスの万物を閉ざす力。
世界の理そのものを体現するバケモノたちを巻き込んだ、地形すらも書き換える規格外の三つ巴の激戦を終え。
俺たちは、行きに安全圏へ置いていった装甲馬車を回収し――サーシャの癒やしの唄で完全に体力を回復し、むしろ出発前よりもピンピンして鼻息を荒くしている軍馬たちに引かれ――アリス王都へと帰還する荒野の道中を歩んでいた。
豪奢な作りの馬車の車内には。
極限の死線を越えた直後の特有の、泥のように重く、しかしどこか安堵に満ちた、温かく緩んだ空気が流れていた。
窓の外の景色は、赤黒い噴煙と灰が舞う死の空から、とうに穏やかな極彩色の空と、風に揺れる緑の平原へと変わっている。
「……ねぇ、相棒。王都を出てからずっと、息詰まるような顔でそれ弄り回してるけど。……どうするつもりなの?」
向かいのビロードの席に座るラナが。
俺の膝の上を指差し、呆れたような、しかし同時に本能的な恐怖を隠しきれない顔で覗き込んできた。
無理もない。
俺の膝の上にあるのは。つい数時間前、魔族の軍勢――その最上位に君臨する貴族スカーフェイスの骸を。俺の異能、武装化によって、一つの剥き出しの武器へと作り変えた戦利品。
【聖剣スカーフェイス】。
白銀の刀身の表面には、奴の顔にあったあの醜悪な十字の傷跡を思わせる、禍々しい真っ赤な紋様が深く刻み込まれている。
それはただの装飾ではない。まるで、生きている心臓のように、ドクン、ドクンと不気味に明滅を繰り返している。極めて鋭利な両刃の剣。
だが、この剣には。
武器として致命的すぎる、圧倒的な欠陥が一つ存在した。
「……どう見ても、持つための柄がねぇよな」
俺は、重く、血の味がするようなため息をつきながら。
分厚い魔獣の革の手袋を、さらに二重に嵌めた手で、その刃だけの剣を扱っていた。
まるで、少しでも触れれば起爆する超高密度の爆弾でも扱うように、用心深く。何重にも折り重ねた厚手で頑丈な布切れで、ぐるぐるとミイラのように巻きつけていく。
「この剣の能力は、突き刺した、あるいは斬った対象の何かを選択し、強制的にその機能やエネルギーを永続、または少しの間閉ざすというものだ。
……だが。もし俺が対象を選択しなかった場合、あるいは制御を少しでも誤った場合、勝手に何かが自動で閉じる」
「自動で閉じる?」
ラナが、背筋を震わせながら首を傾げる。
「ああ。……能力自体は、神王獣スルトの国を消す炎すら完全に無効化する、破格のチートだ。
だが……もし俺が直接、このむき出しの刃で素手を切ってしまったら。あるいは、手袋越しでも魔力制御のタガが外れたら」
俺は、布の隙間から覗く赤い十字の紋様を睨み据えた。
「その瞬間に。俺自身の生命エネルギーが強制的に閉ざされて、命を落とすのか。
あるいは、フェンリルやヤマタノオロチの武装化の制御が強制的に閉ざされ、解除されちまう。……最悪の場合、俺だけじゃなく周りに大きな被害が出る」
「うわっ……」
ラナが、思わず小さな悲鳴を上げて席の奥へ引っ込んだ。
「柄がないのも、俺を素手で触れさせるための、奴の最後の足掻きだろうな。
……使用者ごと殺しにかかる、最悪の欠陥品の剣だ。こうして布で巻いていても、常に俺の命を閉ざそうと脈打ってやがる」
「なにそれ、致命的すぎるじゃない。聖剣なんてご大層な名前がついてるけど、ただの呪いのアイテムね」
隣でスヤスヤと平和な寝息を立てているシャリンの頭を優しく撫でながら、サーシャがクスッと可笑しそうに、しかし心配そうな瞳で笑う。
「ああ、文字通りの呪いだよ。あの野郎、死後も俺の思い通りにさせないように、陰湿な嫌がらせしやがって」
俺は、布に包まれた刃を睨みつけ、鼻で嗤った。
「……実戦で使うなら。手袋越しにダガーのように投擲して、無理やり敵に突き刺すか。あるいは、地面や地形にぶっ刺して、その空間ごと何かしらを閉ざすかだな。
……近接の打ち合いには絶対に使えない。局地的な、初見殺しのための暗殺特化の武器みたいなもんだ」
「神王獣スルトのピアスの方は。……一振りで、王都から宇宙の彼方まで一瞬で蒸発させる、防ぎようのない広域殲滅兵器なのにね。
……本当に、極端すぎるのよ、あなたのそのデタラメな能力」
サーシャが、俺の左耳で微かな熱を発して輝いているピアスを見て、呆れたようにため息をついた。
「文句は受け付けてねーぞ。……武器は尖ってりゃ尖ってるだけいいんだよ」
俺が、布巻き作業を終え、さらに頑丈な革の紐で厳重に物理封印した剣をアイテム袋の奥底に放り込むと。
ラナが、「でもさ」と、身を乗り出してきた。
「結果的には、これ以上ないくらいの最高の戦果だったじゃない。
……万物を閉ざす魔族の剣と、国を消す神王獣の炎剣も手に入れた。これなら、魔王や最上位貴族に、正面から一矢報いるどころか、完全に圧倒できる武器が揃ったよ!」
「ああ。……だがな」
俺は、無意識に。
ヤマタノオロチの超再生によって、新しく生え変わったばかりの自分の左肩を、右手で強くさすった。
「次は、もう少しスマートにやりたいもんだな。……ヤマタノオロチの再生能力がなけりゃ、お茶碗持てなくなっちまうところだった」
フェンリルの絶対的な速度があっても。スルトの広域殲滅の炎があっても。
死の危険は常に付き纏う。
この世界は、一瞬の油断、コンマ一秒の判断の遅れが、死に直結する。
それを、身を以て痛感した戦いだった。
アリス王都の最高級宿屋に帰り着いた俺たちは。
豪奢な部屋に用意された夕食を半分ほど口に運んだところで、誰からともなく、糸が切れたように泥のように、本当に死んだように深く眠った。
極度の緊張と、想定外の事態が連続した三つ巴の死闘。
異常な魔力濃度の中での多重武装化と、腕を欠損してからの強制的な超再生。
さらには、常にオレの命を閉ざそうとしてくる聖剣スカーフェイスの管理。
肉体的な疲労よりも、精神と脳の摩耗が、とうに限界点を超えていたのだ。
――翌日。
俺が、鉛のように重い瞼をゆっくりと開けたのは。
太陽がすでに中天に差し掛かろうという、冒険者としては、そして俺のこれまでの習慣としても、あり得ないほど遅すぎる時間だった。
「……ん」
薄極彩色の陽光が、豪華なカーテンの隙間から差し込み、視界がゆっくりとクリアになる。
柔らかいシーツの感触。清潔なシーツの匂い。血と硝煙の匂いはない。
部屋に優しく差し込む光の中で。
透き通るような、それでいてどこか憂いを帯びた美しい声が、静かに響いていた。
窓辺の椅子に腰掛けたサーシャが。
外の平和な王都の景色を眺めながら、静かに、誰に聴かせるでもなく唄を口ずさんでいる。
神王獣の攻撃を弾き返す、魔力を込めた絶対防壁の唄ではない。
ただの、この世界にありふれた、母親が子供に歌って聞かせるような、優しい子守唄。
だが。
その旋律には。イーリス大陸で仲間を失ってからずっと荒みきり、復讐の殺意と血糊だけで黒く染まっていた俺の心の奥底の泥を。
温かいお湯で丁寧に、時間をかけて洗い流してくれるような、不思議な、そして強烈な温かさがあった。
「あ、起きた? ……よく眠っていたわね」
俺が上体を起こした、わずかな衣擦れの気配に気づき。
サーシャが唄を止め、ふわりと、聖母のように微笑んで振り返る。
その顔は、一族の呪われた伝承に囚われ、運命に怯え、暗い地下牢に閉じ込められていた輪廻の巫女の悲痛なものではない。
ただの、年相応の、美しく柔らかな一人の女性の表情だった。
「……ああ。お前の唄のおかげで、左腕を吹っ飛ばされる悪夢は見なかったよ」
俺は、重い肩を回しながら、素直に礼を言った。
「ふふっ、光栄ね。私の唄は、悪夢を閉ざせるみたい」
「……その閉ざすって単語は、しばらくは聞きたくないな」
俺の言葉に、サーシャは「ふふふっ」と、声を上げて楽しそうに笑った。
俺も、つられて少しだけ口元を緩めた。
別のベッドを見ると。
ラナとシャリンが、まるで本当の姉妹のように、布団の中で抱き合うようにして、まだスヤスヤと幸せそうな寝息を立てている。
「……今日は一日、完全な休みにしよう」
俺は、ベッドの縁に腰掛け、ポツリと言った。
「魔王のことも、神王獣のことも、世界の滅亡のことも。……今日だけは、一旦すべて忘れる。
サーシャ。王都の街を、案内してくれないか。……ここのスイーツや屋台に詳しいんだろ?」
俺の突然の提案に。
サーシャは、少しだけ驚いたようにパチクリと目を丸くした後。
「ええっ! もちろんよ!」
花がパッと咲いたような、嬉しそうな満面の笑みで、大きく、力強く頷いた。
午後。
分厚い血と泥の匂いが染み付いた外套を脱ぎ捨て、この世界に来て初めて買った、まともで動きやすい平服に着替えた俺たちは。
アリス王都の最も賑やかな、石畳の中央大通りへと繰り出した。
「おにいちゃん、見て見て! あそこでお肉焼いてる! すっごくいい匂いがするよ!」
「相棒、あたしあそこの串焼きが食べたい! あと向こうの看板に描いてある甘そうなやつも!」
「お前らは、いっつも肉と甘いものだな……」
すっかり元気と体力を取り戻したシャリンとラナが。
オレの呆れを横目に、目を限界までキラキラと輝かせながら、左右に立ち並ぶ屋台を指差して、祭りに来た子供のようにはしゃぎ回っている。
その二人の小さな手に引かれるサーシャは。
この王都では顔の知られた超有名人であるため、自身の顔を隠すような目深な変装用の帽子を被りながらも。
「ほらほら、順番よ。焦らなくてもお店は逃げないからね」
と、まるで本当の姉のように、あるいは若い母親のように、優しく二人を導いていた。
「アリス王都はね、大陸中から冒険者や商人が集まるから。他国から輸入された、美味しいスイーツがたくさんあるのよ」
サーシャが、帽子を少しだけ上げて、得意げに微笑む。
「……はい、英雄さん。たまには糖分を補給して、張り詰めた脳を休ませてあげなさいな」
サーシャから手渡されたのは。
薄く焼かれた甘い匂いのする生地で、たっぷりの真っ白な生クリームと、色鮮やかなフルーツを何層にも巻いた、クレープのようなお菓子だった。
「……」
俺は無言でそれを受け取り。
未知の毒物でも鑑定するように鋭い目で数秒睨みつけた後、小さく一口、慎重に齧り付いた。
「……うん。美味いな。悪くない」
「でしょ〜?」
俺の素直な感想に。サーシャが自分のことのように鼻高々に胸を張り、嬉しそうに俺の顔を見つめてくる。
「おいひぃー!」
ふと下を見ると。
自分の顔の半分ほどもある巨大なクレープに齧り付いたシャリンが、口の周りを真っ白な生クリームだらけにしながら、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべていた。
その、あまりにも平和で、無防備で、一切の邪気がない顔を見て。
「……ははっ」
俺の喉の奥から。
復讐の狂気や、敵を殺す時の下劣な嘲笑ではない。
本当に自然な、ただの笑い声が小さく吹き出した。
自分で自分が笑ったことに驚き、すぐに口元を手で覆い隠したが、サーシャのラナはその一瞬を見逃さなかった。
「あ、今笑った! 普通に笑ったわ!」
「……うるさい。笑ってない」
「相棒、流石にそれは無理ある」
「うん、絶対に笑った! シャリンちゃん、この人今すっごく優しい顔して笑ったのよ!」
「えー! 見たかったー!」
キャッキャと騒ぐ三人娘の甲高い声。
平和な王都の喧騒。屋台で肉が焼ける、ジュウウウという食欲をそそる心地よい音。
行き交う人々の、屈託のない笑い声。
――その、瞬間だった。




