第7章:朧な剣と虚ろの心ー1
魔剣オボロが眠る古代遺跡。
その巨大な石門の外は、拍子抜けするくらいに静かだった。
空は雲一つなく晴れ渡り、高く澄んでいる。肌を撫でる風はさらさらと乾いた音を立てて丈の長い草を揺らし、少し離れた岩陰では、荷馬車を引いてきた馬たちが何事もないかのようにのんびりと草を食んでいた。
――数時間前。
『じゃあ、ちょっとサクッと魔剣オボロ回収してくるね。待っててね!』
そう言って笑ったラナの横顔を思い出す。
彼女の笑顔の奥には、勇者としての重圧と、未知の遺跡に挑むヒリヒリとした緊張が確かに混じっていた。
『俺たちが無事に帰ってくるまでに、とびきりうめぇ飯でも作っとけよ、糧食係~! 腕の見せ所だぞ!』
オルドは相変わらずの軽口を叩き、大剣を肩に担いで石門の暗がりへと消えていった。
『おう。ボロボロで帰ってくるお前のために、腹に優しいスープでも煮込んで待っててやるよ』
俺がそう返すと、リュグナたちパラディンも小さく口角を上げ、エドラのAランクたちも気合いを入れるように武器を鳴らした。最後に、剣聖カシアンが面倒くさそうに首を鳴らして最後尾へ続いた。
そう言葉を交わし遺跡の中へと進んでいった。
俺の仕事は、ここで彼らの帰りを待つこと。
ただの糧食係。
飲み水の残量管理、予備の薬草の選別、万が一の撤退時に備えた野営具の整理と離脱経路の確保。
遺跡の暗闇の中へ足を踏み入れるのは、選りすぐりの戦闘要員だけであり、魔力も持たない俺は、例によって外の待機組だ。
――それでいい。
あの不気味な石門の向こうには、ミリアで俺が武装化したような神獣クラスモンスターがうじゃうじゃと巣食っているという話だ。
聖剣ラナの能力がなければ、軍隊でもまともに進軍すらできない死の領域。あの中で戦っている連中は、正真正銘、人間という枠組みを超えた化け物揃いだ。
勇者ラナ。
Sランク冒険者オルド。
ウルシアの誇るパラディンーーリュグナと、女パラディン。
エドラの精鋭であるAランク冒険者三人。
そして、ラナの師匠であり、エドラ王国剣術指南役――剣聖カシアン。
これ以上ない、大陸最高峰の絶対編成。任せるしかない。俺みたいな素人が中に入ったところで、一瞬で消し飛んで足を引っ張るだけだ。
そう自分に強く言い聞かせ、俺は湧き水を汲んだ水袋の数を、もう一度、無意味に数え直した。
◆
最初の一時間は、ただ理由もなく落ち着かなかった。
荷台の木箱を並べ替えたり、すぐに火を起こせるように乾燥した薪を組み上げたり、同じ作業を何度も意味もなく繰り返す。
石門の奥へ耳を澄ませてみても、巨大な爆音や、神獣の咆哮、ましてや人間の悲鳴などは一切聞こえてこない。
それはきっと、ラナの能力が完璧に機能し、作戦が順調にいっている証拠だ。
静かなのはいいことだ。
そう前向きに思おうとしても、みぞおちの奥でドロドロと渦巻く嫌なざわつきはどうしても消えてくれなかった。
右手のクリスタルワイバーンの指輪と、左手のアークサーペントの指輪。そして左耳の黒龍のピアス。これら三体のモンスターの残滓が、微弱な警戒信号を発しているように肌をチクチクと刺してくる。
二時間目に入る頃には、太陽の位置が西へ傾き始めていた。
山の鳥の鳴き声が不自然なほどにピタリと止み、肌を撫でる風が、急激に氷のように冷たくなる。
そろそろ、何かしらのアクションがあってもいい時間だ。
「……遅く、ないか……?」
俺が誰に言うでもなく呟き、薪を持つ手を止めた、その瞬間だった。
――ギギギギギギギギギギギィィィィィィン…………ッ!!!
遺跡の巨大な石扉が、千年の重しを擦り合わせるような、鼓膜を破るほどの重低音を立てて、内側からゆっくりと開かれた。
反射的にそちらを向く。
終わったのか。みんな、無事だったのか。
だが――次の瞬間。
俺の喉の奥が、ヒュッと音を立てて引きつった。
暗闇の中から出てきたのは、たった一人だった。
白いコートを血で赤黒く汚した、カシアン。
彼は――誰かの髪を無造作に片手で掴み、ズルズルと、まるでゴミ袋でも引きずるようにして外へ出てきた。
光に照らされた、その髪の色。
白銀の髪。
小柄な少女の身体。
ラナ。
ぐったりと力の抜けた細い腕が地面を擦り、乾いた土に薄く、赤い血の線を引いている。
首はだらりと不自然な角度に折れ曲がり、彼女の腰にあるはずの聖剣ラナは、どこにも見当たらない。
その代わりに――カシアンの腰には、一振りの、夜の闇を固めて鍛え上げたような黒い日本刀のような凶器が、妖しく脈打つように下げられていた。
「……ラナ?」
自分の声が、まるで水の中から発せられたように、別人のものみたいに遠く聞こえた。
カシアンは俺の姿を視界に捉えると、口元だけを三日月のようにつり上げて嗤い、引きずっていたラナの身体を、俺の足元へ向かって無造作に放り投げた。
本当に、汚れたボロ布でも捨てるみたいに。
ボサッ、と。
命の重さを全く感じさせない、鈍く嫌な音が足元で鳴った。
ラナの青い瞳は、大きく見開かれたまま、虚空の空を見つめて静止している。
胸は、一ミリも上下していない。
血の気を失った白い肌。体温は――ない。
「……は?」
脳の理解が、完全に停止した。
さっきまで、はにかむように笑っていた少女が。
王都で、酒場で、背伸びした強者の顔を見せ、勇者として重圧を背負う覚悟を語っていた少女が。
俺の足元で、何の前触れもなく、ただの冷たい物体に変わっている。
頭の奥底で、メキメキと理性が崩壊するような音がした。
「よぉ」
カシアンの声は、驚くほど軽く、そして弾んでいた。
「ちょうどいいタイミングだ。留守番ご苦労。……お前に、とびきりイカしたもんを見せてやろう」
ラナの遺体から数歩離れたところで、彼はゆったりと立ち止まる。
そして、腰に下げた黒い刀――魔剣オボロの鞘を、愛おしそうに指先でトン、と叩いた。
「……それ、魔剣、オボロ……?」
「大正解。千年の呪いを孕む神話の刃、オボロ。……やっと、やっと会えたよ」
カシアンは、その名を、何年も待ち焦がれた最愛の恋人でも呼ぶみたいに、甘く優しく口にした。
「いやぁ〜〜、本当に長かった。長すぎたぜ。
エドラ王国剣術指南役なんていう堅苦しい肩書きも、誰かが勝手に名付けた剣聖なんていうくだらねぇ呼び名も……俺からすりゃあ、全部この子に辿り着くための、ただの便利な踏み台でしかなかったからな。
……まさか、ウルシア王国と合同任務なんていう最高のお膳立てが回ってくるとは思わなかった。俺は本当に、運が良い男だ」
「……何、言って……。他の、みんなは……?」
口の水分が完全に干上がり、砂を噛んでいるようだった。うまく言葉が紡げない。
カシアンは、そんな俺の狼狽する様子を見て、心底愉しそうに三白眼の目を細めた。
「ん? ああ、そうか。外にいたお前には、中で何が起きたか状況が全く分からないよな。俺としたことが、気が利かなかった」
カシアンは、魔剣の柄を撫でながら、一歩俺へと近づいた。
「じゃあ、ゆっくりと教えてやろう。……お前、俺の最高の舞台の聞き役には、ちょうどいい絶望の顔をしてるしな」
その顔は。
ラナを厳しくも優しく導いていた師匠のものでも、大国の威信を背負う剣術指南役のものでもなかった。
彼が数十年間、ずっと分厚い仮面の下に隠し続けてきた、腐り切った素の表情。
氷のように冷たい爬虫類の目と、どうしようもない残虐な笑み。
ただの、純度100%の異常殺人鬼の顔だった。
◆
「まずな」
カシアンは、首をコキコキと鳴らし、わざとらしく大きく肩を回した。
「遺跡の内部の攻略だけどな。……コイツの聖剣ラナの能力のおかげで、拍子抜けするほど驚くほど簡単だったよ。神獣クラスが蔓延っているなんて、外の連中がビビり散らすのも笑わせる話だったな」
カシアンは、空中に指で絵を描くようにして語り始める。
「ラナが聖剣を抜いて、神獣どもを服従させて、一本の道を作らせる。……あの気高き神獣の群れが、まるでよく訓練された飼い犬みたいに、俺たちのために両脇に行列を作って道案内してくれたんだ。あれは見ていて、なかなか壮観な光景だったぞ」
俺の頭の中で、何も理解できないまま、カシアンの言葉が鮮明な映像として強制再生されていく。
闇の中で立ち塞がる無数の神獣たちが、ラナの蒼い光の前にひれ伏し、一斉に道を開ける。その真ん中を、ラナとカシアン、オルドたちが進んでいく姿。
「オボロが安置されている最奥の祭壇の部屋に着くまで、まともな戦闘なんてただの一度もなかった。……それもこれも、全部俺の可愛い弟子、ラナのおかげ。聖剣の力のおかげだ。あいつは本当に、師匠の教えをよく守る、素直でいい子だったよ」
『いい子』。
その単語が、呪いのように俺の耳の奥を深く突き刺す。
「で、問題はそのあとだ」
カシアンはゆっくりと、愛おしそうに腰の黒い鞘に手を添えた。
「巨大な地下空間のど真ん中。オボロは、石の祭壇に深々と突き立てられていた。誰の目から見ても、ドス黒い禍々しいオーラを撒き散らしながらな。……俺は、魔剣は魔族を打ち倒すための正義の力として使うんだっていう、いかにも剣聖らしい神妙な顔を張り付けて、奴らの後ろに立っていた」
その場面を想像するだけで、胃酸が逆流し、内臓が氷で覆われるような悪寒が走る。
「でな。……じゃあ、この危険な魔剣を誰が抜く?って話になったときだ」
カシアンは、わざとらしく芝居がかった動作で目を見開いた。
「真っ先に、自ら前に出たのが――ラナだった」
胸が、巨大な万力でぎゅっと潰されたみたいに痛んだ。
「あいつ、大闘技場で聖剣に選ばれてから、ずっと勇者としての責任感の炎に燃えてたみたいだからな。『アタシがやります。聖剣の所有者として、この魔剣オボロの呪いを中和し、調伏する義務があります』……ってよ」
カシアンは、クククッと肩を揺らして笑った。
「可愛くないか? 十七歳の小娘が、『義務があります』だってさ。健気すぎて、あれは俺の聖人君子の心にグッときたぜ」
笑うな。
俺は心の中で、唇から血が出るほど強く噛み締めた。
「で、『お前にはまだ危険すぎるからやめろ』みたいな空気を、みんな出したわけだ。エドラの連中も、ウルシアの過保護なオルドやリュグナたちもな。……でも、ラナは引かない。あいつは真面目だからな。『聖剣の所有者として、他の方々にこれ以上の危険を押し付けるわけにはいきません』って、頑として譲らなかった」
カシアンはそこで一瞬、言葉を切り、静寂を作った。
そして、目の奥だけを底なし沼のように黒く濁らせて、愉悦のままに続ける。
「だから……俺は、師匠として、あいつの背中を優しく押してやったんだ」
――こいつ。
「『行ってこい、ラナ。お前なら必ずできる』ってな。……どうだ? 弟子を信じる、実に師匠らしい美しい光景だろ?」
笑ってんじゃねぇ。
「ラナは、俺の言葉を聞いて本当に嬉しそうに笑ったよ。ちょっとだけ不安そうに眉を寄せて、それでも聖剣の光に守られながら、魔剣の祭壇へと真っ直ぐに前に進んだ。……ああ、あの時のあいつの顔は良かった。希望に満ちていて、本当に良かった」
こいつは今、本気で、心の底からこの惨劇の記憶を反芻して愉しんでいる。
「ラナが祭壇に手を伸ばし、魔剣オボロの柄を両手でしっかりと握り、引き抜こうと力を込めた。……その瞬間だ」
カシアンの口元が、耳まで裂けるかのように歪に吊り上がった。
「――魔剣オボロは、勇者ラナを拒絶し、この俺を選んだんだ」
俺の胸の奥で、何かがガラガラと音を立てて崩れ落ちる音がした。
◆
「石の祭壇から抜けた魔剣が、ラナの手からするりと水のように抜け出して、まるで意思を持った獣のように、一直線に俺の方へ飛んできたんだよ」
カシアンは自分の右手を、神の奇跡でも目撃したかのように誇らしげに見下ろす。
「柄が俺の右手に収まった瞬間に、魂で分かった。……ああ、やはりこのオボロは、俺という人間のために千年前から存在していたんだ、ってな」
「ラナは……どうしたんだよ」
「ん? あいつは、祭壇の前で完全に呆けた顔をして、こっちを見てたな。……どうして?って、迷子になった子供みたいな顔をして。どうして、魔剣が私の手から離れて、師匠の方に行ったのか――ってな」
その絶望の表情が、俺の脳裏にありありとフラッシュバックして想像できてしまう。
聖剣に選ばれ、世界を救う勇者として期待されていた少女。
その少女の目の前で、魔剣が、彼女の正義をすべて否定するみたいに、慕っていた師匠の手に収まるという狂気の光景。
「でな」
カシアンは、まるで今日の夕飯のメニューでも語るような、何でもない軽い調子で言葉を継いだ。
「せっかく、何十年も探し求めた魔剣オボロを手に入れたんだ。……その極上の刃で、試し斬りをしない手はないだろ?」
俺の背筋に、零下数十度の氷水を直接ぶちまけられたような、強烈な悪寒が走る。
「まずは、俺が直々に剣を教えてやっていた、エドラ王国のAランク冒険者の三人。……あいつら、ちょうどよく俺の目の前に、横一列で綺麗に整列して立ってたからな」
カシアンは、右腕を、空中でスッと横に払う滑らかな動きをして見せた。
「魔剣を振った時の手応えは……ただ、桜舞う春の微風を撫でたような、なんとも心地よく恐ろしいほどの軽さだった。……でも、次の瞬間。三人の身体が……そうだな。
よく研いだ包丁で、大根を輪切りにしたみたいに、上半身と下半身がズレて……音もなく床に崩れ落ちたんだ」
俺の脳が、強制的にその映像を思い浮かべるのを拒絶する。
具体的な光景は浮かべたくない。だが、上下に分かれたという単語だけで、もう十分すぎるほどの地獄だった。
「大量の血は飛んだが、オボロの刀身にはほとんど付いていなかった。切っ先が空間そのものを朧にする能力は、本当に素晴らしい。三人の切断面は、まるで鏡面のように綺麗なもんだったよ」
淡々と、どこまでも楽しそうに。
「エドラの三人は、自分たちが斬られたことすら理解できないアホ面のまま死んだ。……一人だけ、槍使いの女と、少しの間だけ目が合ったけどな。あの命が消える瞬間の目も、最高に良かったぜ」
「……何で……何でそんな狂ったことを、そんなに楽しそうに言えるんだよ……ッ!」
気づけば、激しい怒りと吐き気に苛まれた俺の口から、血を吐くような声が漏れていた。
カシアンは、全く悪びれる様子もなく、真っ直ぐに俺の目を見据えた。
「決まってんだろ。剣ってのはな。……どれだけよく斬れるか、どれだけ“扱いやすいか”が、存在価値のすべてだ。正義だの平和だの、そんなものは三流の言い訳に過ぎねぇ」
カシアンが、魔剣オボロの鞘を親指で弾く。
「その点、このオボロは最高だよ。羽のように軽くて、神の落雷より速くて、気まぐれで……そして何より、残酷だ。俺の魂の形に、ぴったりとフィットする」
理解した。
こいつは、ほんの少しでも救いや悲しき過去のあるタイプの裏切り者じゃない。
最初から、純粋な力を求め、魔剣オボロのためなら他人の命など塵芥ほどにも思っていない、正真正銘のクズだ。
「ウルシア王国の連中の足掻きも、なかなか見ものだったぞ」
カシアンは、何一つ痛痒を感じていないような軽快な足取りで、ラナの遺体の周りをゆっくりと旋回しながら言葉を紡ぐ。




