第54章:神王獣スルト
地獄の釜。
すべてを溶かす高熱の有毒ガスが吹き荒れ、黒い岩肌が赤く明滅する灼熱の死地。
足元から数メートル下でドロドロと煮え滾る、広大なマグマの海を前に。
俺は全身の神経を限界まで研ぎ澄まし、いつでも武装化できるように右足首に宿る神王獣フェンリルの銀翼のアンクレットに、意識を集中させていた。
額から流れる汗が、地に落ちるより早く一瞬で蒸発し、肺が焼けるように痛い。
だが、そんな苦痛はどうでもよかった。
眼前の巨大なマグマが、山のように隆起し。
神王獣スルトが、今まさに、その国を滅ぼす規格外の全貌を現そうとしている。
俺の頭の中にある殺戮のプロセスは、一つだけだ。
奴が完全に姿を現し、あの国を消す炎の剣を抜くよりも早く。フェンリルの影移動で奴の死角に潜り込み、神速で首を落とす。
――ギチッ。
俺が、黒い岩肌を蹴ろうと前傾姿勢になった。まさに、その不意の瞬間だった。
俺の心臓が。見えない巨大な手に直接鷲掴みにされたように、物理的な痛みを伴って激しく、嫌な音を立てて脈打った。
空気が凍る。
いや、違う。数千度の熱風が吹き荒れるこの灼熱の地獄において、それよりもはるかに冷たく、重く、悍ましい致死量の殺気が。
突然、空間そのものを物理的に圧迫し始めたのだ。
「っ……!!」
(なんだ、この異常なプレッシャーは……ッ! まさか、ロロン!?)
俺の脳裏に、かつて仲間を塵に変えて惨殺した、あの絶望の象徴たる最上位貴族の、退屈そうに俺を哀れむ静かな顔が鮮烈にフラッシュバックする。
全身の産毛が逆立ち、生存本能が即座に逃げろと最大級の警鐘を鳴らす。
だが、違った。
この暴力的なまでに禍々しく、剥き出しの気配の質は、あの静かで底知れないロロンのものではない。
しかし、内包する絶対的な死の密度と、他者の魂を物理的に捻り潰すような絶望の底の深さは。……間違いなく、ロロンと同等。あるいは、それ以上。
「……ギャーハッハッハッハ!! あー、クソッ! なんだここは! 胸糞悪りぃくらいあちぃなァ、このゴミ溜めは!!」
マグマの海の上空。
超高温の陽炎で激しく歪んでいた空間が。まるで、見えない巨人が布を乱暴に引き裂くように、ドロリと黒く裂けた。
その空間の裂け目の中から、何かが、隕石のような速度で真っ逆さまに落ちてきた。
ズドォォォォォォォォォンッッ!!!
俺たちから数十メートル離れた、マグマの熱にも耐えうる極めて強固な黒い岩盤。
それが。
その男が、ただ両足で「着地した」という、たったそれだけの物理的な衝撃だけで。爆発でも起きたかのように、すり鉢状の巨大なクレーターとなって、無残にメシャリと陥没した。
もうもうと舞い上がる砂埃と、飛び散る火花の中。
そのクレーターの中心から、ゆっくりと立ち上がったのは。
百獣の王の鬣を思わせる、荒々しく逆立った赤銅色の髪。
そして、野獣のような凶悪な顔の右半分を斜めに深く覆う、ひどく醜悪で巨大な十字の傷跡。
筋骨隆々という陳腐な言葉すら生ぬるい。岩盤そのものが歩いているかのような異常に分厚く、暴力的なまでに鍛え上げられた体躯を持った、獣人のような大男だった。
纏っているのは、上半身の筋肉を誇示するような粗末な毛皮の装束と、鉄の鎖だけ。
「俺様は、偉大なる魔王軍が誇る最上位貴族が一柱。スカーフェイス様だァ!!
底辺のゴミ共、俺様と出会えたことを、最高の冥土の土産にしやがれ!!」
スカーフェイスと名乗る魔族は。
傍若無人に太い首の骨をゴキゴキと鳴らしながら、俺のことなど、視界の端のゴミとすら認識していないかのように。
俺の背後で、その威圧感に怯えて立ちすくむサーシャだけを。丸太のように太い指で、真っ直ぐに指差した。
「オイ、そこの女ァ!
てめぇが、魔王様が何百年も血眼になって探してた……輪廻の巫女だなぁ!?」
「ひッ……」
サーシャが、顔から完全に血の気を失い、俺の背中へと隠れるように身を縮めた。
「てめぇのその魂は、魔王様への最高の手土産だ。
大人しく俺に攫われりゃ、手足の骨を数本へし折るくらいで、済ませてやるぜ? ……ギャーハッハッハ!!」
ガサツで、横柄で、底抜けに傲慢。
だが、その存在感は、圧倒的なまでの暴力の化身そのものだった。
最上位貴族。俺からすべてを奪った連中の一角。
俺の中で。
神王獣スルトへの警戒を上回る、ドス黒い復讐の業火が、音を立てて激しく燃え上がった。
(……ちょうどいい)
俺は、醜く口角を吊り上げ、柄を握る手に力を込めた。
(こんなところで、お前らの方からノコノコと現れるなんてな。……スルト共々まとめて、俺の復讐の贄にしてやる)
俺が、魔剣ムラマサを抜き放ち、スカーフェイスに向けて一歩踏み出そうとした。
まさに、その直後だった。
――ゴゴゴゴォォォォォォォォォォンッッ!!!
眼前の巨大なマグマの海が、真っ二つに完全に割れ。
遂に、天災たる神王獣スルトが、その絶望的な全貌を現したのだ。
巨大な、身長五十メートルは優に超えるであろう、燃え盛る炎の巨人。
その圧倒的な熱量は、ただそこに出現したという事実だけで。周囲の強固な黒い岩山を、水飴のようなドロドロの溶岩へと、一瞬で融解させていく。
「ギ、オォォォォォォォォォォォッ!!!」
神王獣スルトが、大気を物理的に震わせるほどの咆哮と共に。
マグマを極限まで圧縮したような、数千度を超える超高密度の巨大な炎の大剣を、右手に握りしめ、上段から一閃した。
狙いは、縄張りに最初に足を踏み入れた俺たちではない。
俺たちよりも遥かに目障りで、巨大な魔力と不快な殺気を放つ異物――最上位貴族スカーフェイスだ。
――ズバァァァァァァァァァンッッ!!!
炎の大剣が空を切り裂き、そこから放たれた極太の致死の熱線が、スカーフェイスの巨体を丸ごと飲み込み。
さらに、その背後にある巨大な岩山へと、真っ直ぐに直撃した。
その瞬間。
岩山そのものが、音もなく、一瞬にして蒸発し、文字通り地図から完全に消え去ったのだ。
(……マジかよ。あの魔道士長のジジイの戯言じゃなかった。……冗談抜きで、国が一つ消し飛ぶ威力だ)
俺は、強烈な熱風に顔を庇いながら、思わず冷や汗を流した。
もし、俺たちに真っ直ぐ向かってきていたら。あの熱線の余波だけでも、サーシャの圧縮された絶対防壁がなければ、俺たちは骨すら残さず炭化して消滅していたはずだ。
スルトは、燃え盛る空洞の眼窩を、熱線が通り過ぎた跡地――スカーフェイスが立っていた場所へと向けた。
そして、今度は熱線の放射ではなく。直接、その国を消す炎の大剣の刃を、スカーフェイスの頭上へと、容赦なく全力で振り下ろしたのだ。
だが。
もうとっくに炭になっているはずの、煙に包まれたスカーフェイスは。……避けない。
頭上から迫る、自分を消滅させる炎の巨剣の軌道を、退屈そうに見上げながら。
面倒くさそうに、赤銅色の頭をボリボリと掻き。
無造作に、丸腰の両手を、天へと突き出したのだ。
「だからよォ……」
――スゥッ。
スルトの炎の巨剣が、スカーフェイスの両手に接触する瞬間。
俺の目に、世界の物理法則のすべてを疑うような、信じがたい光景が広がった。
国を焼き、全てを蒸発させるはずの神王獣の炎の大剣から。
一切の炎と、圧倒的な熱量が。……まるで、ふっと蝋燭の火を吹き消すように、音もなく完全に消失したのだ。
ただの、熱も持たない巨大な黒曜石の塊と化した大剣の刃を。
スカーフェイスは、火傷一つ負っていない素手で、ガッチリと、涼しい顔で受け止めていた。
「さっきから、あちぃって言ってんだろが、デカブツがァ!!」
スカーフェイスが、空中で巨体を捻り。
己が素手で受け止めた黒曜石の大剣を蹴り台にして跳躍し、スルトの巨大な顔面へと、強烈な回し蹴りを叩き込む。
ドゴォォォォォォンッ!という、隕石が衝突したような凄まじい轟音と共に。
小山のようなスルトの巨体が、頭を激しく揺らされて後方へ大きく吹き飛ばされ、再びマグマの海へと無様に叩き落とされた。
「……は?」
俺は、自分の目を疑い、思わず息を呑んだ。
魔法で相殺したわけでもない。水や氷の魔法で冷却したわけでもない。結界で防いだわけでもない。
ただ、スルトの炎が、絶対的な熱が。……スカーフェイスに触れる瞬間に、世界から一瞬で消え去ったのだ。
「なんだ今のは。やつの魔法か? ……それとも、任意で何らかの事象を消去する固有能力か?」
俺が、その事象の解析を脳内で猛スピードで進めながら、魔剣ムラマサの柄を握り直した瞬間。
スルトを蹴り飛ばして着地したスカーフェイスが。
ニヤリと、顔の十字傷を歪めて嗤い。ようやく、こちらへ向き直った。
「さてと。あの暑苦しいデカブツは後回しだ。次はてめぇらだ」
スカーフェイスが、太い首を鳴らす。
「まずは……さっきからチクチクと、鬱陶しい殺気を放ってやがるその羽虫から」
スカーフェイスが、顔の醜悪な十字傷を歪め。
その凶悪な猛禽類のような眼光で、初めて、俺の姿を真っ直ぐに捉えた。
男が、俺に向けて太い片手を無造作にかざす。
その瞬間。
奴の掌から、何らかの目に見えない能力が発動し、俺の全身を包み込んだ気配がした。
ゾワッ、と。
肌が粟立ち、生存本能が即死の魔法だと激しく警鐘を鳴らす。
俺は、無意識に防御姿勢を取り、衝撃に備えた。
だが。
……俺の身体には、何の変化も起きなかった。
痛みもない。力も奪われない。息もできるし、手足も動く。
ただ、不快な風が通り過ぎただけのような、完全なる不発。
「……アァ? なんだてめぇ」
数秒の沈黙の後。
スカーフェイスが、片手を突き出した間抜けなポーズのまま、心底奇妙なものを見るように目を細めた。
「てめぇ……魔力が、ねぇのかァ?」
男は、信じられないというように俺の体を指差し、首を傾げた。
「いや、違うな。隠してるわけじゃねぇ。文字通りスッカラカンの、空っぽだ。魔力も、闘力すら、てめぇの身体からは一切感じねぇ。
……おいおい、そんな中身のないゴミカスが、なんだその一丁前な殺気と、異常な気配は」
男の、不気味なものを見るような言葉に。
俺は、口角を歪めて、嘲るように嗤った。
当然だ。
俺には、この世界の住人たちが当たり前のように持っている魔力や闘力といった概念が、根本から一切存在しない。
俺の力はすべて、死んだモンスターの残骸から引き出す武装化の能力に完全依存している。
俺自身は、ただの現代日本から来た、空っぽの人間なのだから。
「あいにく。俺は、お前らの常識が通用するような、この世界の人間じゃないんでね」
「アァ? 何言ってんだてめぇ。天界のクソ野郎どもにゃ見えねぇぞ?」
俺は、そのふざけた問いには、言葉では答えなかった。
代わりに。右足首のアンクレットに宿る、フェンリルの武装化を全開に起動し、影の中へと自身の身体を音もなく沈み込ませた。
「消え――」
スカーフェイスが、驚愕の声を上げるより早く。
神速。そして、影移動。
俺は、スカーフェイスの足元に落ちた濃い影から、飛沫すら上げずに飛び出し、奴の無防備な懐へと一瞬で潜り込んだ。
紫黒の魔剣ムラマサを、奴の太い首筋へ向けて、全身のバネを使って全力で薙ぎ払う。
「チッ、小癪なネズミがッ!」
だが、さすがは最上位貴族。
奴は、俺の神速の一撃を前にしても、ギリギリで太い首を仰け反らせ、致命傷を避けた。
しかし。
ムラマサの刃先が奴の頬を浅く切り裂き、不浄な紫色の血が空中に舞った。
「てめぇ……ッ!」
スカーフェイスが激昂し、視線を、俺の目にピタリと合わせた。
その、瞬間だった。
(なっ……!?)
俺の視界が。
完全に、ブラックアウトした。
暗闇に落とされたのではない。光を奪われたのでもない。
俺の目という器官の機能そのものが。脳からの信号を物理的に断ち切られたように、強制的にシャットダウンされたのだ。
上下も、左右も、敵の気配すら見えない、絶対的な視界ゼロの闇の中。
焦燥が、俺の脳を焼き焦がす。
「お兄ちゃん!! そのまま、右に避けてッ!!」
俺の背後から、シャリンの悲鳴のような、だが確信に満ちた叫び声が響いた。
未来視。彼女の目には、数秒先の俺の死が、はっきりと視えていた。
俺は一切の躊躇なく、シャリンの言葉を百パーセント信じ。
見えない右側へ向けてフェンリルの影移動を発動し、空間を滑るように離脱した。
――ドバゴォォォォォォォォンッ!!!
直前まで、俺の頭部があった空間を。
スカーフェイスの丸太のような巨大な拳が粉砕し、通り過ぎた真空刃が、俺の頬の肉を浅く掠め飛ばした。
もしシャリンの指示がコンマ一秒でも遅れていれば、俺の頭は西瓜のように弾け飛んでいただろう。
「ほう? 俺の視界から逃れて、この一撃を躱すか。随分としぶとくて、耳のいいネズミだなぁ」
スカーフェイスが舌打ちをして、俺から視線を外した。
その、瞬間――。
パッ、と。
俺の視界が一気に元に戻り、灼熱の地獄の釜の風景が、脳内に再構築された。
(……なるほど。消去、じゃない)
俺の脳内で、先ほどからバラバラに散らばっていた情報のピースが。
完璧な一つの数式として、冷徹に組み上がる。
俺に向けられた不可視の能力が、魔力ゼロの俺には不発に終わったこと。
スルトの炎の大剣から、熱と炎だけが消えたこと。
俺の視界が奪われ、奴が視線を外した瞬間に元に戻ったこと。
「……お前のそのふざけた能力は、対象の消去じゃないな。
……あの感覚。事象や機能を閉ざすという表現が、一番しっくりくる」
俺の静かな、だが確信に満ちた分析の言葉に。
スカーフェイスの顔から、下劣な嘲笑がスッと消え去った。
「お前は最初、俺の力を閉ざそうとした。だが、俺にはそもそも閉ざすための魔力も闘力もなかった。だから、空振りを起こして不発に終わった」
俺は、ムラマサを構えたまま、奴の十字傷を睨み据える。
「次に、お前は直接俺の視覚機能を閉ざした。……スルトの大剣の熱エネルギーを閉ざしたように、な」
視界に収めた対象の機能や事象を、任意で閉ざす。
触れた対象の属性や、運動エネルギーを強制的に閉ざす。
それが、この男の能力の正体。
「……ギャーハッハッハ!! 魔力ゼロの空っぽなゴミカスのくせに、戦闘考察力だけはいっちょ前だなァ!! 嫌いじゃねぇ!!」
スカーフェイスが、顔の十字傷を歪めて、再び凶悪に、そしてひどく嬉しそうに嗤い声を上げた。
「大正解だ、異世界のネズミ! だがなァ、種が分かったところで、お前らみたいな底辺のゴミにどうにかできると思うな!
俺がすべてを閉ざして、てめぇらの四肢をもぎ取り、挽肉にしてやる!!」
ズゴゴゴゴゴォォォォッ!!!
スカーフェイスの勝利宣言を遮るように。
やつの背後で、マグマの海から再び神王獣スルトが、天を焦がすような怒りの咆哮を上げて立ち上がった。
不意打ちで顔面を蹴り飛ばされた炎の巨人が、両手にマグマの奔流を纏い、大地を割りながら猛烈なスピードでこちらへ突進してくる。
「シャリン、サーシャ! 絶対に奴の視界に入るな! 見られれば防壁の機能ごと閉ざされるぞ!!
岩陰に隠れて、そこで防壁を展開してシャリンを守れ!!」
俺は即座に仲間に指示を飛ばし、己の影から這い出てきたラナを一瞥した。
「ラナは遊撃だ。決して捕まるな。光速で動き回って、奴の視線を撹乱し続けろ!」
「了解、相棒ッ! あいつの顔、ムカつくから引っ掻き回してやる!」
銀の軌跡を残し、ラナが神速で戦場の空中へと散る。
魔力も闘力も持たない、世界の理から外れた人間。
万物を閉ざす、傲慢なる魔族。
国を焼き尽くす、絶対的な炎の神王獣。
「来いよ、スカーフェイス」
俺は、漆黒の魔剣ムラマサを正眼に構え、フェンリルの影を足元で波打たせた。
「お前のそのふざけた能力を完全攻略して……お前の首を刎ねてやる」
それぞれの理不尽な力が、極限で交錯する。
決して交わるはずのなかった三つ巴の殺し合いが。
この灼熱の地獄の釜で、今、本格的に幕を開けた。




