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第53章:炎獄の神獣の王ー1

 アリス王都の最高級宿屋。その最上階に用意された、王族すら滅多に使わないという無駄に豪奢な特別室。


 薄極彩色の月明かりが差し込む窓辺に背中を預け、俺は腕を組んだまま、己の右足首に定着したフェンリルの銀翼のアンクレットを、穴が開くほど静かに見つめていた。


 深く、重い。


 まるで、肺の奥に溜まった血と泥の塊を吐き出すような溜息が、俺の唇からこぼれ落ちる。


「……慢心、していたな。いや……ただの愚か者だったと言うべきか」


 ぽつりとこぼれ落ちた独白は、冷たい夜の空気に溶けて消えた。


 神王獣フェンリルとの死闘。結果だけを切り取って見れば、俺たちは誰一人として欠けることなく完全勝利し、神王獣というこの世界のタブーを打ち破り、俺は空間を無視する神速という圧倒的な機動力を手に入れた。


 王国からは本物の英雄として崇められ、今日の昼間などは、貴族どもが媚びへつらいながら莫大な金貨と名誉を献上してきた。


 だが。俺の魂は、到底その過程を完勝などと呼んで誇れるような状態ではなかった。


 あの時。


 復讐への焦りから、俺はフェンリルの固有能力に対する下調べを完全に怠り、真正面から力任せに挑んでしまった。


 もし、シャリンが勇気を出して、未来視によるコンマ数秒の警告をしてくれていなかったら。


 もし、サーシャが俺の突拍子もない指示を信じきれず、自身の命を削ってまで、全魔力を注ぎ込んだ絶対防壁を頭上へ展開してくれなければ。


 もし、ラナが俺のタイミングをコンマ一秒でも見誤っていたら。


 俺は、あの理不尽極まりない空間ごと噛み砕く無限の大顎に、回避する間もなく飲み込まれ。


 あいつらの無念を何一つ晴らせないまま、二度目の無様な死を迎えていた。


 フェンリルの能力すら把握せずに挑んだ結果、俺はまたしても、あの忌まわしい砦の夜と同じように。


 仲間を失う、ほんの一歩手前の崖っぷちまで追い込まれていたのだ。


「……奇跡や運で拾った勝利なんて、ただの保留された死だ。そんなもので、あのバケモノどもに届くわけがない」


「珍しく一人で反省会? 相棒」


 不意に、背後の空間から足音もなくラナが静かに声をかけてきた。


 振り返ると、薄暗い魔法ランプの光に照らされた豪華な天蓋付きベッドの上で。


 シャリンが、サーシャの膝枕に頭を預け、スヤスヤと穏やかで平和な寝息を立てている。


 サーシャは、シャリンの細く銀混じりの金髪を愛おしそうに優しく撫でながら、俺の方を見て、ふわりと、聖母のような微かな微笑みを向けた。


「生きて帰れたんだから、いいじゃない。……それに、あなた一人で戦ってるわけじゃないのよ? みんなの力で、みんなで勝ったんだから。結果オーライよ。自分をそんなに責めないで」


「いや、よくない」


 俺は、サーシャの優しい慰めを、氷のように冷たく、はっきりと切り捨てた。


「俺は、お前たちの命を不要な危険に晒した。俺の思慮の浅さと、情報不足が招いた致命的なミスだ。……二度目はない」


 俺は、窓枠の木をメリッと軋ませるほど強く握りしめ、ギリッと血が滲むほど強く奥歯を噛み締めた。


「俺は……あいつらを、あの理不尽な最上位貴族どもや魔王を、殺す前に、死ぬわけにはいかない。


 そして。お前たちを道連れにするわけにもいかないんだ」


「……英雄さん」


 俺の言葉に込められた、血を吐くような執念と、不器用すぎる保護欲を感じ取ったのか。サーシャは、少しだけ悲しそうに目を伏せた。


「理不尽を暴力でねじ伏せるには、ただ圧倒的な力を集めるだけでは足りない。


 相手の力の底を知り、それを完全に封殺し、反撃の隙を1ミリも与えない完璧な殺戮のプロセスを構築するための情報が必要だ」


 感情に任せて武器を振り回すだけの獣は、いずれ必ず狩られる。


 俺はモンスターの力を纏うからこそ。頭は誰よりも冷静で、最も狡猾で残酷な狩人にならなければならない。


「……次は、神王獣スルトだ」


 俺は、夜の闇を見据えたまま、明確な次の標的を口にした。


「明日の朝一番で、王城へ行く。……出立の前に、使える権力はすべて使って、徹底的に情報収集を行う。奴の能力を丸裸にするまで、王都からは一歩も動かない」


 俺の言葉に、ラナは短く「分かったよ」と頼もしく頷き。


 サーシャは、覚悟を決めたような顔で、俺の背中を見つめながら「……ええ、付き合うわ」と静かに答えた。


 翌朝。


 俺たちは、アリス王城の最深部――他国からの侵略や、未曾有の国難の際にのみ使用されるという、極秘の最高戦略会議室の特等席に陣取っていた。


 堅牢な石造りの壁には、大陸全土の巨大な地図が広げられ、窓のない密室には重苦しい空気が立ち込めている。


 巨大な円卓を挟んだ俺の目の前には。


 大量の古い文献や、ボロボロになった羊皮紙の巻物を抱えて、ブルブルと小刻みに震え上がっている宮廷魔導士の長と、国の威信を背負った第一級の歴史学者たちがズラリと並んでいた。


「え、ええと……え、英雄殿……。ご、ご要望のありました、神王獣スルトに関して……現在、我々アリス王国が把握しているすべての記録をお持ちいたしました……ッ!」


 豪華なローブを着た白髭の宮廷魔道士長が、額から脂汗を滝のように流しながら、震える手で分厚い羊皮紙の束を円卓の上に広げた。


 彼らが怯えるのも無理はない。


 つい先日、神王獣フェンリルという国家を滅ぼす天災を屠ってきた正体不明の男が。


 「次は神王獣スルトを殺すから、情報をすべて出せ」と、玉座の間で国王に直談判し、半ば脅迫するようにこの場を設けさせたのだ。


 彼らからすれば、俺は英雄などではない。魔族と同等か、それ以上の世界の脅威にしか見えていないだろう。


「御託はいい。スルトの情報をすべて出してくれれば、それでいい」


 俺が、椅子に深く腰掛けたまま、一切の温度がない、剣の切っ先のような声で促すと。


 学者たちは「ヒッ」と喉を鳴らし、慌てて文献のページをめくり、早口で説明を始めた。


「は、はいっ! ス、スルトの縄張りは、このアリス王都より遥か南に位置しております。


 活火山が連なり、大地が常に煮え滾っている灼熱の死地――通称【地獄の釜】と呼ばれる一帯です。そこは人間はおろか、神獣モンスターですら足を踏み入れない、絶対の禁足地となっておりまして……」


「居場所は分かった。知りたいのはそんな環境の話じゃない」


 俺は、指先で円卓をトン、と冷たく叩いた。


「奴の能力と、確実な殺し方だ」


 俺が冷酷に問うと、魔道士長はゴクリと大きな音を立てて唾を飲み込んだ。


 神王獣を前にして殺し方などと、あまりにも不敬で狂った言葉に、学者たちの顔がさらに蒼白になる。


「ひ、一つは……その巨大な肉体、そのものです。


 伝承によれば、スルトの体は……数千度を超える【燃え盛る業火と流体マグマ】で構成されており、物理的な接触はすべて、触れた瞬間に溶岩のように溶かされ、一瞬で蒸発させられます。


 剣で斬りつけても、槍で突いても……刃が届く前に、武器そのものが熱で融解し、消滅します」


「……」


「それに加え、奴の周囲には常に超高温の熱嵐が吹き荒れており、生身の人間が近づけば、数秒で肺が焼け焦げて死に至ると……」


「……触れることすら許されない、常に燃え続ける体、か。厄介ね」


 俺の隣に座っていたサーシャが、真剣な表情で美しい顎に手を当てた。


「これじゃあ、前衛は近づいて斬りつけることすら、物理的に不可能じゃない」


「は、はい……その通りでございます。ですが、輪廻の唄姫様…」


 魔道士長の声が、本能的な恐怖で裏返り、ひどく上擦った。


「神王獣スルトの真の恐怖、最大の問題は……もう一つあるのです」


 魔道士長は、震える手で、最も古く、厳重に封印されていた一冊の禁書をめくった。


「奴がその巨大な手に握り、振るうとされる、超高密度の【炎の剣】。


 ……第一級の禁書文献に記された、数百年前の過去の被害記録によれば。あの剣が、もし本気で大地に向かって振り下ろされた場合……」


 魔道士長は、まるで世界の終わりを口にするかのように、顔面を土気色にさせた。


「――たった一振りで。国が一つ、文字通り、地図から跡形もなく消し飛びます」


「……国が一つ、一振りで? ちょっと、冗談でしょ」


 俺のすぐ横で話を聞いていたラナが、思わず絶句して、掠れた声を漏らした。

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