第52章:輪廻の巫女ー2
背後に控えていた残りの四体の魔族が、驚愕に目を見開き、色めき立って武器を構え、俺へと襲いかかってくる。
「き、貴様ァァァッ――!!」
だが。
遅い。あまりにも、遅すぎる。
フェンリルの神速の思考野と動体視力に切り替わっている俺の視界の中では。
奴らの渾身の突進は、まるで深い泥水の中を歩いているかのように、完全に止まっているように鈍重だった。
ドンッ!!
俺は、白銀の残像を鋭く引きずりながら、瞬きを三回するほどの刹那の間に、奴らの死角を駆け抜けた。
ズバァッ! ガシュッ! ズパンッッ!!
紫黒の閃刃が、虚空で交差するたび。
空間ごと神速で切り裂かれた四体の魔族は、悲鳴を上げる暇さえ与えられずに完璧に両断され、細切れにされ。
ただの、物言わぬ不浄な肉塊へと還元されていく。
ザシュゥゥゥン……。
俺が、ゆっくりと刀を振り下ろし、残心を決めた頃に。
ようやく、時間差で四体の魔族の身体がバラバラに崩れ落ち、紫の血が荒野の土を汚した。
(……はえぇ。なんだこの異常な速度は)
俺は、刀身に付着した不浄な紫の血を、手首のスナップだけで無造作に振り払いながら。全身の白銀の装甲を、シュルシュルと解除していく。
手のひらに残る、一切の抵抗を許さなかった確かな手応えと。
あまりにも圧倒的で、一方的な機動力に、俺の唇の端が自然と醜く吊り上がった。
(ヤマタノオロチの分身と膂力。そして、フェンリルの神速と影移動。……これなら)
今の俺の速度なら。
あの時、俺の仲間たちを絶望で染め上げた、あの最上位貴族ロロンやギンにすら。……完勝できるかもしれない。
そう慢心してしまいそうになるほどの、世界を置き去りにする圧倒的なスピードだった。
「ふぅ……片付いたぞ。どうした? サーシャ」
刀を鞘に収め、俺は油断なく周囲の気配を探りながら、背後を振り返った。
ラナもシャリンも、俺のあまりの速度にポカンと口を開けて固まっている。
だが。
俺の背中を掴んでいたサーシャだけは。
その顔から一切の血の気が引き、まるで世界の終わり、あるいは地獄の底を直接覗き込んでしまったかのように。
青ざめ、桜色の唇をガタガタと震わせていたのだ。
「ま、おう……りんねの、みこ……」
魔族の死骸を見て怯えているのではない。
先ほどの上位貴族が狂喜して口にした、「魔王」と「輪廻の巫女」という不吉な言葉の羅列。
明らかに、彼女自身の存在に深く関わる、致命的な心当たりがある反応だった。
「……」
俺は、サーシャの震える肩を見つめた。
だが、いつまた次の魔族の強襲が来るか分からない、こんな遮蔽物のない剥き出しの荒野の街道で、世界の裏側に関わるような立ち話をするわけにはいかない。
「……ただの人違いや、勘違いじゃなさそうだな」
俺は、サーシャの腕を優しく、だが強引に引いて歩き出した。
「詳しい話は、王都の宿に帰ってから聞いてもいいか? ……今は、帰ろう」
俺の、低く冷徹な言葉に。
サーシャは力なく、ただ、自分の運命の恐ろしさに怯えるように、小さく頷くことしかできなかった。
アリス王都、最高級宿屋の特別室。
豪奢な天蓋付きのベッドで、満腹と疲労により泥のように眠りについたシャリンの寝息だけが、静かな部屋に規則正しく響いていた。
ラナは、「あたし、隣の部屋で防具の手入れしてくるね。……二人で、ゆっくり話しなよ」と気を利かせ、隣の部屋へ移動した。
薄暗い、オレンジ色の魔法ランプの光だけが揺れる静寂の中。
円卓を挟んで俺の対面に座ったサーシャは、ギュッと自身の純白のコートの裾を両手で握りしめ、ひどく重い口を、ゆっくりと開いた。
「私の一族はね……大昔から。この世界に降り立ち魔法を創造なさったとされる女神様を信仰している、特殊で、とても閉鎖的な血筋なの」
彼女の透き通る声は、いつもの明るさを完全に失い、ひどく掠れていた。
「そして、数百年に一度……その一族の中から、女神様の生まれ変わりとも呼ばれる、あまりにも特異で、膨大な魔力を持った女の子が生まれる。
……それが、【輪廻の巫女】」
「……それが、お前ってわけか」
「ええ……。」
サーシャは、自嘲するように、弱々しく小さく笑った。その美しい黒の瞳には、かつて見たことのない、深い絶望の闇が滲んでいる。
「私の一族に伝わる古い伝承にね、こんな一節があるの。
『輪廻の巫女が生まれ落ちる時。世界を滅ぼす災厄が、巫女を迎えにやってくる。
そして、巫女が災厄と一つになる時……災厄は永遠の命と、すべての世界を統べる力を手に入れ、この世界を滅亡させてしまう』って」
俺の背筋に、氷水を直接流し込まれたような、冷たい悪寒が走った。
点と点が、最悪の形で繋がっていく。
「だから……一族は。世界をそんな災厄から守るために、ある残酷なルールを決めたの。
輪廻の巫女が生まれたら。光のいっさい届かない神殿の最下層の地下牢に、生まれてから死ぬまで一生……一族以外の者の目には触れさせず、匿って、隔離して生活させるって」
震える彼女の声から。
どれほどの孤独と、理不尽な絶望が、その幼少期に詰め込まれていたかが、痛いほど俺の胸に突き刺さってきた。
世界を救うための、誰にも知られない人柱。
きらびやかな鳥籠にすら入れてもらえず、一切の光のない暗闇の中で、羽をもがれた哀れな小鳥。
だから、彼女のあの魂を揺さぶる唄には、あれほどの圧倒的な慈愛と、そして根底にある深い、深い悲しみが入り混じっていたのだ。
「私……どうしても、そんなの嫌だったの」
サーシャが、顔を伏せたまま、ポツリと呟いた。
「暗くて、冷たい部屋の中で。本でしか読んだことのない、外の広い世界を、この目で見てみたかったの。
本当の、高い空の下で。……誰かのために、私の唄を歌ってみたかった……!
だから、十五の年に一族を裏切って、命がけで外へと逃げ出したの……」
ポロポロと。
サーシャの美しい黒い瞳から、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちていく。
俺の脳内で、これまで得た散らばっていた情報が、一つの禍々しい線として完全に繋がった。
上位貴族の歓喜に満ちた言葉。そして、伝承の真実。
(……要するに、その伝承にある『世界を滅ぼす災厄』ってのは。今、この人間界に侵攻してきている『魔王』のことだ)
魔王は、永遠の命と世界を統べる圧倒的な力を得るために、輪廻の巫女であるサーシャの肉体と魂を探している。
最悪の魔術師ボーゲンが、世界の果てで魔界の扉を作り、こじ開け魔族が人間界に溢れ出してきたのも。
そのすべての元凶は、魔王が彼女を喰らい、完全体になるため。ただ、それだけのために世界が巻き込まれているのだ。
「あの伝承が、まさか本当だったなんて……」
サーシャが、両手で顔を覆い、しゃくり上げた。
「私が、私のわがままで逃げ出したせいで……魔族が人間界に溢れて、数え切れないほどたくさんの人が死んでしまった。
もし私がこのまま捕まったら、本当に世界が終わってしまう。……私、やっぱり生まれてきたこと自体が間違いで、あの地下牢から逃げ出しちゃ、いけなかったのね……」
取り返しのつかない罪悪感と、世界の命運という重圧に押し潰され、嗚咽を漏らすサーシャ。
自分の存在そのものが罪なのだと、自らを呪い、泣き崩れる彼女の姿。
「――おい」
俺は、静かに椅子から立ち上がった。
「ふざけるな」
俺は、泣き崩れる彼女の前に立つと。
その震える両肩を、ガシッと力強く、強引に掴み上げた。
「え……?」
涙で濡れた顔を上げるサーシャ。
「逃げて正解だ。……お前は、何も悪くない」
俺は、真っ直ぐに。
サーシャの揺れる黒い瞳を、物理的に射抜くような強さで見つめ返した。
俺の目には、迷いも、同情も、綺麗事の同情も、一切存在しない。あるのはただ、純粋で圧倒的なエゴだけだ。
「誰か一人を、一生地下牢に閉じ込めて。お前みたいな女の人生を犠牲にして成り立つような平和なんて……俺は、絶対に認めない。そんな胸糞悪い世界なら、いっそ滅んじまった方がマシだ」
俺は、一切の淀みなく、修羅の言葉を叩きつけた。
「いいか、よく聞けサーシャ。
世界が滅亡する、そんな最悪な未来は絶対に訪れない」
「ど、して……?」
「なぜなら――魔王がお前を迎えに来て喰らうより先に。
俺が、俺のすべてを懸けて、その魔王を跡形もなくぶっ殺してやるからだ」
それは、優しい慰めの言葉などではない。
己の怨恨のために世界を巻き込む魔族と、理不尽な運命そのものへの、血に塗れた、狂気にも似た反逆の誓いだった。
その絶対的な自信と、圧倒的な殺意。
世界を敵に回してでも、彼女の存在を全肯定する俺の言葉に、サーシャは大きく目を見開き――。
やがて。
彼女の心を縛り付けていた罪悪感の呪いが、音を立てて完全に砕け散った。
「あ、ぁぁぁ……っ、ああぁぁぁぁぁっ!!」
張り詰めていた心の堰を切ったように。
サーシャは、俺の胸に顔を深く埋めて、激しく泣き崩れた。
世界を滅ぼしてしまうと怯えていた彼女の鳥籠を、俺の狂気の決意が完全に叩き壊した瞬間だった。
サーシャは、俺の服の胸元を小さな手で強く、絶対に離さないように握りしめ。
子供のように声を上げて泣きじゃくりながら。
今日の夕暮れ、俺が荒野の街道で教えたばかりの。
俺がこの世界に来てから初めて聴く、懐かしい故郷の言葉を。
喉を詰まらせながら、絞り出すように紡いだ。
「……ア、リガ、トウ……ッ……っ!」
ひどく拙い。
だが、これ以上ないほど純粋で、魂のこもった日本語の発音。
「……ああ」
俺は、小さく息を吐き。
彼女の細く、震える背中を。ただ静かに、その涙が止まるまで、優しく撫で続けた。




