第52章:輪廻の巫女ー1
神王獣フェンリルを死闘の末に討伐し、その理不尽なまでの血肉と機動力を、俺の武装化のラインナップへと加えた後。
俺たちは、行きに置いていった軍馬たちを回収し――サーシャの癒やしの唄で完全に回復し、ピンピンしていた馬たちに引かれ――アリス王都へと帰還する荒野の道中を歩んでいた。
陽が完全に傾き、薄極彩色の空が、ほんのり毒々しいような赤紫色に染まり始める中。
馬車の中では、サーシャは俺の真横にぴったりとくっついて、事あるごとに様々な質問を無邪気に投げかけてきた。
「ねえねえ、英雄さん。前から、ずっと気になってたんだけど」
「なんだ」
俺は、前を歩く馬の背中から視線を外さずに、短く応えた。
「あなたのその、黒い髪と深い黒の瞳。……それに、風貌。
このアリス王国はおろか、私が知る限りの周辺のどの国でも、文献でも、一度も見たことがないわ。……一体、どこから来たの?」
彼女の黒い瞳には、純粋な好奇心と、俺という人間そのものへの深い興味が宿っていた。
普通なら、ここで「名もなき辺境の村だ」とか「山奥の隠れ里の出身だ」と言い張って、適当に誤魔化すのがセオリーだろう。
イーリス大陸という別の世界から、その前はさらに日本という異世界から来たなどと、本当のことを言っても。
「ああ、戦いのショックで頭がおかしくなったんだな」と、哀れまれるだけだからだ。
だが。
俺は、対面でラナと手を繋ぎ、俺の体調を気遣いながらも、サーシャがくれたクッキーをリスのように頬張っているシャリンを、ちらりと一瞥した。
この数日、血と泥にまみれた俺の隣で、俺を絶対の盾で無傷で守り抜いてくれたこの女に。無意味な嘘をつく気にはなれなかった。
「……生まれ育ったのは日本ていう、この世界とは魔法の概念すらおとぎ話の向こうの、まったく別の世界の国だ」
俺は、前を向いたまま。一切の感情を排した、淡々とした声で、真実だけを口にした。
「そこから、ある日突然。……俺はイーリス大陸とかいう、別の見知らぬ世界に、転移者として強制的に飛ばされた。
お前たちからすれば、二重の意味で異世界人ってやつだな」
「にほん……イーリス、大陸……?」
サーシャが、聞いたこともない単語の羅列に、目を丸くして呟く。
「そのイーリス大陸で、俺は……バカみたいに真っ直ぐで、お節介で、命を懸けて俺の背中を預けられる仲間たちに出会った」
俺は、フェンリルの力を取り込んで、まだ少しだけ熱を持ったままの右手を、ギリッと強く握りしめた。
脳裏に、あの絶望の記憶が、鮮血の赤とともにフラッシュバックする。
「……だが。その仲間たちのほとんどが。俺の目の前で、魔族の最上位貴族……ロロンに、理不尽に惨殺された。
チリ一つ残さず、ゴミみたいに削り取られて死んだ。……俺は、一番前で戦っていたくせに、あいつらを守れなかった」
俺の声が、ひどく掠れて、低く沈んだ。
「俺は何もできず、ただ復讐の呪いだけを刻み込まれて……気づいたら、この世界に飛ばされて、今ここにいる。……俺の正体は、ただの敗残者だ」
どうせ信じないだろう。
悲劇の主人公を気取った、頭のおかしい妄言だと、鼻で笑われても構わなかった。
狂っているのは、この世界の方なのだから。
だが。
サーシャの好奇心に満ちていた顔がスッと別の色になる。
「……」
不思議に思った俺はサーシャへと振り向いた。
すると、彼女は。
両手を、純白のコートの胸の前でギュッと強く組み。
俺の横顔を、まるで、道端で凍えている傷だらけの子犬を見るような、途方もなく切なく、悲痛な瞳で見つめていた。
「……そう。あなた……ずっと、一人で」
サーシャの声は、震えていた。
「そんな、誰も知らない、遠い遠い世界からたった一人で迷い込んで。
大切な仲間を失って……。一人で血を流して。
……どれほど寂しくて、どれほど、辛かったかしら」
「……は?」
俺は、予想外すぎる反応に、思わず間抜けな声を漏らした。
「おい……信じるのか? 俺が、別の世界から来たなんて、証拠の出しようもないただの与太話を」
「信じるわよ」
サーシャは、一秒の迷いもなく、即答した。
「あなたが……自分の心の底から血を流しながら、悲しい嘘をつくような人じゃないことくらい。一緒にいれば、すぐに分かるわ。
あなたのその瞳の奥の暗闇が、どれほど深くて冷たいか……私が、一番よく知っているもの」
サーシャは。
俺が幾重にも心に張り巡らせていた鋼鉄の鎧の隙間を、いとも容易くすり抜け。
ふわりと、夕日に溶けるような優しい、絶対的な肯定の微笑みを浮かべて。
小走りで、俺の隣に並んで歩き出した。
「ねえ。……あなたの元の世界で使われていた、その日本の言葉。……少しだけ、私に教えてくれない?」
「……日本語か」
俺は、視線を逸らし、鼻で笑って突き放すように言った。
「知ってどうする。この世界じゃ、どこに行っても誰にも通じないぞ。言葉なんてのは、誰かに伝えるためにあるもんだろ」
すると、サーシャは。
俺の冷たい態度に、少しだけ拗ねたように、形の良い桜色の唇を尖らせて。
「伝わるでしょ?」
そして、俺の顔を、下から上目遣いで覗き込んで、とびきりの笑顔で言ったのだ。
「だって……ここに、あなたが、いるじゃない」
――ドクン、と。
俺の心臓が。
アリス王都の巨大な鐘を、内側から直接殴りつけられたように、大きく、痛いほどに跳ねた。
この、狂気に満ちた見知らぬ異世界で。
仲間を失い、復讐鬼になり果て、人間としての感情を自ら殺し続けていた俺の孤独のすべてを。
たった一言で。
丸ごと、これ以上ないほど優しく、肯定してくれたような気がした。
「……チッ」
俺は、舌打ちをして、無意識に緩みそうになる自分の顔を、前髪の奥へと隠すように背けた。
「……日本語は、発音も文法も、この世界の言葉よりかなり厳しくて複雑だぞ。途中で泣き言を言うなよ」
「ふふっ、望むところよ、先生っ」
サーシャが、嬉しそうに俺の腕に自分の細い腕を絡ませてくる。
「ねえ、おはようって、どう言うの?」
「……朝起きたら、とりあえず『オハヨウ』だ」
「オハ、ヨウ……ふふっ、なんだか可愛い響きね。じゃあ、ありがとうは?」
俺は、夜風の冷たさを感じながら。
少しずつ、俺の故郷の言葉の、簡単な挨拶を彼女に教え始めた。
張り詰めて、血と錆でガチガチに固まっていた俺の心が。
彼女の透き通るような声に触れるたびに。
致命的な猛毒に侵されるように、確かに、救われていくのを感じていた。
だが。
この狂乱の異世界において。そんな穏やかな時間は、唐突に、あまりにもグロテスクに引き裂かれるようにできている。
アリス王都の巨大な城門まで、残り数キロ。
もうすぐ軍のパトロール隊の姿が見えるはずの、安全圏であるはずの街道の、ど真ん中だった。
――ブォンッ……!!
「ッ!?」
俺は、反射的にサーシャの腕を掴み、後ろへと強く引き寄せた。
空間が。
俺たちの数十メートル先の虚空が、まるで腐った黒い油を流し込んだように、ドロリと悍ましく歪んだ錯覚。
直後、黒い、ひどく鼻をつく死臭のような瘴気の渦の中から。
五体の異形が、前触れもなく、空間を破って姿を現したのだ。
「……魔族か」
俺が即座に、腰の魔剣ムラマサの柄に右手をかけ、濃密な殺気を放った時。
五体のうち、中央に立つ一体の魔族が、優雅な足取りで一歩前に出た。
一際洗練された、人間の貴族のような漆黒の装甲を纏い、人間そっくりの端麗な顔立ちをした男の魔族。
間違いない。こいつは、ただの使い捨ての雑兵じゃない。
俺の直感が、激しく警鐘を鳴らしている。
その魔力量と、空間を歪めて現れた転移の手際。序列で言えば、上位貴族クラス。
だが。
その上位貴族は、殺気を放って眼前に立つ俺のことなど。
路傍の石ころ、あるいは羽虫とでも言うように、微塵も気にとめていなかった。
奴の、濁った黄色の眼球は。
俺の背後。俺の腕を掴み、怯えて立ちすくむサーシャだけを。
穴の開くように、舐め回すように、異常な執着を持って見つめ。
歓喜に、その端麗な顔を醜く、三日月のように歪ませたのだ。
「ククク……ハハハハッ!! アハハハハハハハッ!!!」
突如として空間を破って現れた、上位貴族クラスの魔族。
そいつは、周囲の状況や、俺の放つ濃厚な殺気など完全に無視し。
俺の背後に立つサーシャを見つめたまま、天を仰いで、腹の底から歓喜の哄笑を爆発させた。
「ヤツの言うとおりだ…! 見つけた……! やっと見つけたぞ!!
あぁ……なんという芳醇で、甘く、極上の魂の匂いか!
間違いない、数百年もの間、我らが探して、探して、探し求めていた……『輪廻の巫女』だ!!」
上位貴族は、恍惚とした表情で自分の両腕を抱きしめ、全身をブルブルと歓喜に震わせた。
「素晴らしい! ああ、素晴らしいぞ! これを献上すれば、魔王様も大層お喜びになる……!! 私には、最高の領地と永遠の寵愛が与えられる!!」
輪廻の巫女。そして、魔王。
聞き捨てならない、この狂った世界の核心に迫る特大のキーワードに。
俺は、無言で腰の魔剣ムラマサを、鞘から半ばまで、チャキ……と引き抜いた。
「おい、ゴミクズ」
俺の、低く、地の底を這うような冷徹な声が、夕闇の荒野に響いた。
「どういう意味だ。……この女が、なんだって?」
「あァ……?」
俺の言葉に。
上位貴族は、初めて俺の存在を視界に入れたかのように、鬱陶しそうに、ひどく冷酷な目で見下ろしてきた。
「黙れ、人間のカスが。
我々誇り高き魔族の貴族が、お前のような、路傍の羽虫の言葉にいちいち耳を――」
――その、刹那だった。
「――武装化フェンリル」
俺の、短く、無機質な詠唱に呼応し。
右足首に宿った銀翼のアンクレットが、冷たく、鋭利な月光のような光を放った。
ズパァァァァンッッ!!!
瞬きにも満たない、人間の網膜の認識速度を完全に置き去りにする速度。
一瞬にして、俺の全身を、極限まで空気抵抗を削ぎ落とされた白銀の装甲が覆い尽くし。
俺の足元に伸びていた夕日の影が、泥沼のように波打ち、俺の身体をズブンッ!と、一滴の飛沫も上げずに呑み込んだ。
「む……?」
上位貴族が、目の前から突如として気配ごと消え失せた俺の姿に、間抜けな声を漏らし、眉をひそめた。
その、瞬間だ。
奴の背後に落ちていた、長く伸びた影の中から。
白銀の毛皮と、流線型の機械パーツの装甲を纏った俺が。
暗黒の水面から飛び出すサメのように、一切の音もなく、風圧すら起こさずに出現していた。
神速、そして影への潜行と転移。
先ほど討伐したばかりの神王獣フェンリルの、空間の概念を無視した、理不尽極まりない絶対的な機動力のお披露目だ。
――ズパァァァァァァァァンッッ!!!!
上位貴族の端麗な首が。
何が起きたのかすら。
誰に背後を取られたのかすら。
自分が今、殺されたという事実すら、脳が理解できないまま。
背後から神速で振り抜かれた、紫黒の刀、魔剣ムラマサによって。
空高く、不気味なほど綺麗な弧を描いて、ポーンと刎ね飛ばされた。
「なっ……!?」
「な、なんだとォ!?」
首を失い、紫色の血の噴水を首の断面から吹き上げた上位貴族の体が、ドサリと無様に崩れ落ちるのと同時に。
背後に控えていた残りの四体の魔族が、驚愕に目を見開き、色めき立って武器を構え、俺へと襲いかかってくる。




