第9章 「交わる星は星座となる」 第6話
「ここです」
翼がゼロタイムの前で足を止めた。
住宅街の夕暮れに、小さな看板が灯っている。
学院の煌めきとは違う、日常の側の店。
1日目の疲労を抱えたまま、
0制服の列が扉の前に並ぶ。
ガランと音を立てて、ドアが開いた。
「いらっしゃい」
カウンターで、翼の兄・怜人と理央が声をあげた。
淹れたての匂いと、拭いたグラスの音。
舞台の外の人間の声だった。
「ただいま。友達、いるんだけど、いいかな?」
「いいよ。好きなとこ座りな」
怜人の返事は短い。
人数を見て、少し眉を動かしただけだった。
2階から、李梨奈が降りてきた。
金髪が階段の灯を受け、
店内の空気が一度だけ澄む。
住み込みのバイトの顔と、伝説の残光が、
同じ身体に乗っている。
「おかえり、翼」
「ただいま、お姉ちゃん」
みんな、目をまん丸とした。
空気が、一瞬固まった気がした。
エーデルと侑樹、そして結依は事情を知っている。
血の繋がり。捨てられた夜。選び直した名前。
ゼロタイムの2階に、雪叢李梨奈が住んでいることも。
だが、矮星たちは知らされていない。
過ぎ去りし流星。
伝説的存在の雪叢李梨奈が、目の前にいる。
カリスティックの王の赤い瞳が、わずかに開く。
黎夏の鼻歌が止まる。朱の足が、
敷居の内側で凍る。
プラナが「……は?」と息だけ漏らし、
翠月が袖を掴む。
伝説が、甘いものを出す店の家族として立っていた。
「李梨奈さんだー!」
マリナが李梨奈に抱きついた。
いや、マリナじゃなかった。
リナだった。
王の輪郭が、抱きつく瞬間にほどける。
赤い瞳が丸くなり、声の高さが子ども側へ落ちる。
ゼロタイムの暖気の中で、カリスティックの頂点が、先に名前を置いてしまった。
みんなの前で、リナが出て来てしまった。
黎夏が「え」と口を開き、朱が棒立ちになる。
プラナが額に手を当て、翼だけが、
既に知っている者だけが——息を呑まなかった。
「私、リナ! 覚えてる??一緒に舞台やったことあるんだよ?」
確かに昔、李梨奈が舞台に出演した時、
子役のマリナが共演したことがあった。
しかし、あの日の共演者は、リナではなく、
マリナとして立っていた。
カメラの前の完成された少女と、
今、喫茶店で飛びついている声は、
同じ身体の別の面だ。
それでも李梨奈は、抱きつかれたまま、
優しく頭を撫でた。
「覚えてるよ、マリナちゃん」
呼ばれた名は、リナではなかった。
表に残っている名前。世間が知っている名前。
李梨奈は、どちらも否定しなかった。
リナは「ちがうの、リナだよ」と言いかけて、
笑った。
覚えてくれている、それだけで十分らしい。
カウンターの奥で怜人が動きを止め、理央が小さく「……何だ今の」と漏らす。
エーデルたちが視線を交わし、矮星たちの輪が、
王の内側を初めて見た。
甘いものを飲みに来た夜に、隠していた名前、
伝説の胸の中で先に開示されてしまった。
みんなの前に、コーヒーや紅茶、そしてジュースなどの飲み物と、ケーキが並べられた。
怜人がカップを置き、理央がフォークを配る。
李梨奈はケーキを置く、。
侑樹がいの一番に、ケーキにかぶりついた。
演出1日目の終わり。
言葉にできなかった間も、
翻訳してもらった指示も、全部、
砂糖の側へ落ちる。
疲れ切った体に、甘いものが染みた。
そしてジュースで、喉を潤す。
「うまぁ……」
顔を上げないままの感想。
それでも、生きている音だった。
みんながケーキや飲み物を飲む中、
マリナだけ下を向いていた。
リナが、意図しないところで出てしまって、
みんなにバレた。
一生の不覚、と言わんばかりに、王の背が丸い。
ゴールドエーカーの完成された姿勢が、
初めて店の椅子で小さくなる。
フォークに手が伸びない。
赤い瞳は皿の端だけを見ている。
「ねぇねぇ、食べよ」
黎夏が声をかけた。
アカデミアの明るさは、秘密を責めない。
さっきの抱擁も、声の切り替わりも、
「一緒に食べよ」の前では事件にしない。
「さっきの子も、一緒にな」
朱が言う。
立風館の双剣は、刃の話をしない夜がある。
リナもマナも、同じ席の人間だ。
マリナの肩が、わずかに動く。
下を向いたまま、小さく——本当に小さく——
頷いた。
皿の上のケーキが、王にも、
出てしまった子どもにも、同じ甘さで置かれていた。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
世界を知る物語である。
第6話
完




