第6章 「翡翠の衣は天を舞う」 第2話
翠月も、最初からお姉さんというわけではなかった。
他の子と同様に、泣き虫で甘えん坊だった。
夜、雷が鳴ると布団に潜り込み、
小さな声で「怖い……」と呟いていた。
黎夏のイタズラで泣かされることも、何度もあった。
そんな黎夏や翠月の面倒を見てくれた、
2人の姉のような存在がいた。
1人は——りんねお姉ちゃん。
黎夏や翠月より1歳年上で、
同じたちばな園の家族だった少女。
自分たちと年齢もそんなに変わらないのに、
いつも率先して子供たちの面倒を見てくれていた。
夕暮れの庭で一緒に鬼ごっこをし、
夜は絵本を読んでくれた。
「大丈夫だよ」と頭を撫でる手が、
いつも温かかった。
そしてもう1人……。
りんお姉ちゃん。
りんねお姉ちゃんとは違って、年上のお姉ちゃん。
両親からは「学生バイト」と聞いていたが、
毎日のように園に来て遊んでくれた。
木登りを教え、チャンバラごっこに付き合い、
時には厳しい顔で叱ってくれることもあった。
その声は力強く、でもどこか優しかった。
しかし、2人の姉はいなくなっていった。
りんねお姉ちゃんは、彼女が小学校4年生になる頃に新しい家族に引き取られ、たちばな園からいなくなった。
それ以来、連絡は取っていない。
園の玄関で手を振った後ろ姿が、
今でも時々夢に出る。
りんお姉ちゃんも、
バイトを辞めてたちばな園からいなくなった。
ある日突然来なくなり、誰も理由を詳しく教えてくれなかった。
このりんお姉ちゃんが、伝説のエーデル“過ぎ去りし流星たち”の1人——
“火野凛”だったとは、その時の黎夏や翠月たちは知らなかった。
夕陽が園の庭を染める頃、2人はよく門の前に座って話していた。
「りんねお姉ちゃんみたいに、優しくなりたいね」
「りんお姉ちゃんみたいに、強くなりたい」
2人の姉のようになりたい。
2人の姉は、翠月にとって憧れのような存在になっていった。
子供の頃の小さな願いが、
今の彼女を静かに支えていた。
歴代エーデルの写真が立ち並ぶ廊下で、
翠月は静かにひとつの写真を見つめていた。
柔らかな午後の光が額縁のガラスを反射し、
長い廊下に淡い影を落としている。
第93代——過ぎ去りし流星たちの一角、
火野凛の写真。
力強い眼差し。
短くまとめた赤い髪。
舞台の上で剣を構える、凛々しい姿。
翠月はその写真を、じっと見つめていた。
「……りんお姉ちゃん」
小さく呟く声は、誰にも届かなかった。
子供の頃、たちばな園で毎日のように遊んでくれたお姉さん。
木登りを教え、泣いている自分を叱咤し、
時には優しく頭を撫でてくれた人。
その人が、伝説のフラウ・フォイヤーだったなんて。
最近になって知った事実が、
胸の奥で静かに熱を帯びる。
写真の中の凛は、凛々しく、遠くに見えた。
でも、翠月の記憶の中の「りんお姉ちゃん」は、
もっと近くて、 もっと人間らしい温もりを持っていた。
廊下を吹き抜ける風が、わずかに髪を揺らす。
翠月は写真に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「私も……少しは、近づけてるかな」
支え続けること。
明るくいようとする黎夏の隣に立ち続けること。
それが、自分なりの答えなのかもしれない。
「立花さん」
振り返ると、砂月が優雅な足取りで近づいてきた。
制服の裾が軽く揺れ、
いつもの落ち着いた表情を浮かべている。
「香取さん、どうしました??」
「柊さん、知りません?そろそろ彼女のシーンの練習になるのに、レッスン室にいらっしゃらなくて」
翠月は小さくため息をついた。
予想通り、という顔だった。
「もう迷惑かけちゃダメって言ったのに」
「探すの手伝ってくれません?」
「はい、わかりました」
2人は並んで歩き出した。
校舎の廊下を進む足音が、静かに響く。
窓の外では木々が揺れ、遠くから練習の音が聞こえてくる。
「柊さんは、昔からあのような感じだったんですの?」
砂月が横目で翠月を見ながら尋ねた。
「子供の頃はそうですね。わがままでイタズラ好きな子です。 でも……誰より明るくて、周りを笑わせようとする子でもありました」
翠月の声には、呆れと、深い愛情が混じっていた。
砂月は小さく微笑み、視線を前方に戻した。
「いい関係ですわね」
「迷惑な関係ですよ、本当は」
2人の会話が、穏やかな廊下に溶けていく。
黎夏を探す足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
これは、トップスタァを目指す少女たちの物語。
そして……
世界を知る物語である。
第2話 完




