第69話 ついに皇太后も尊さに目覚める
朝廷は、思っていたよりずっと早く落ち着きを取り戻した。
賢妃の父である将軍をはじめとする武官たちと、地方から抜擢した寒門出身の官僚たちのおかげで、わずか半月で六部の空席はすべて埋まった。
新任の役人たちは気合十分で、前任者以上に精力的に働いている。
私は今日も玉案の横に座り、彼らの報告を聞きながら、ふと前世でプロジェクト会議を開いていた頃を思い出していた。
「殿下。今年の科挙ですが、出題の方向性はいかがいたしましょう?」
「実務重視で」
私は奏折をめくりながら答えた。
「詩や文章ばかり競わせる必要はない。農政、水利、算術を出題しろ。国に必要なのは働ける官吏であって、詩人じゃない」
「殿下。北方より報せです。突厥の新王が即位し、互市について使者を送りたいとのことですが」
「受けよう。ただし去年連れ去られた民を先に返還させろ」
私は即答した。
「人を返さない限り、交渉の席にも着かせるな」
「殿下。江南織造局の汚職事件ですが――」
「徹底的に調べろ。誰が相手でも例外はない」
危うく口が滑りそうになり、私は咳払いを一つした。
「……本宮はそんなもの信じない。大周には、代わりの役人ならいくらでもいる」
その言葉に、大臣たちは顔を見合わせると、一斉に跪いた。
「殿下、ご英断にございます!」
私は軽く手を振った。
「立て」
朝議が終わると、福海がいつもの笑顔で近づいてきた。
「殿下。皇太后様が寿康宮でのお食事にお招きでございます」
私は思わず身構えた。
皇太后との食事は、毎回ろくなことがない。
前回は『皇族の子育て大全』。
その前は『夫婦円満の心得』。
さらにその前は、妃候補だと言って肖像画を箱いっぱい運び込んできた。
……今回は何だ。
ところが、寿康宮の雰囲気は拍子抜けするほど穏やかだった。
皇太后は上座に座り、並ぶのは家庭料理ばかり。
肖像画も冊子もない。
妙な教育係もいない。
いるのは、小満だけだった。
皇太后の隣で背筋をぴんと伸ばし、真面目な顔でみかんの皮をむいている。
「来たか」
皇太后が私を見た。
「座りなさい」
私は少し警戒しながら腰を下ろした。
皇太后は青菜を一口つまみ、不意に尋ねる。
「皇帝は、今日はもう起き上がれるのか?」
「はい。歩けはしますが、太医からはまだ安静にと言われています」
「安静など知るものか」
皇太后は鼻で笑った。
「今朝など、こっそり演武場へ行って弓を引いておった。三本射っただけで力尽き、人に担がれて戻ってきたわ」
「……」
さすがに言葉が出ない。
皇太后は箸を置き、静かに私を見つめた。
「哀家は知っている」
その視線は穏やかだった。
「そなたたち三人のことを」
背筋が強張る。
「そう身構えずともよい」
皇太后は軽く手を振った。
「責めるつもりはない。ただ、一つだけ確かめたい」
「……何でしょう」
皇太后は小満へ目を向けた。
ちょうどみかんを口いっぱい頬張っていた小満は、きょとんと瞬きを返す。
「この子は……」
皇太后はゆっくりと言った。
「哀家の孫なのか、それとも孫娘なのか?」
私は言葉を失った。
小満はみかんを飲み込むと、真剣な顔で考え込み、
「皇太后様、ぼくは男の子です」
と言った。
「でも身体は女の子なので……」
少し首をかしげ、
「とりあえず、おばあ様って呼べばいいですよね?」
皇太后はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
その笑みは諦めでもあり、安堵でもあった。
「……まあ、よい」
静かに首を振る。
「子や孫には子や孫の福がある」
「三人とも、幸せならそれでよい」
そう言って私へ視線を向ける。
その眼差しは、もう以前のような探るものではなく、どこか優しかった。
「太子……やはりそう呼ぶ方がしっくり来るな」
「そなたは皇帝を、本気で想っておるのか?」
「はい」
私は迷わず答えた。
「では、皇帝も同じか?」
「同じです」
皇太后は満足そうに頷く。
「なら十分だ」
「哀家はもう、お前たちの関係や立場に口を挟まぬ」
「長く生きれば、いろいろなものを見る」
「国を乱さず、民を苦しめぬなら、それでよい」
少し間を置き、
皇太后は急に声を潜めた。
「ただし、一つ条件がある」
「何でしょう」
皇太后の目がきらりと光る。
「賢妃が書いた『龍陽東宮』の原稿本を哀家にも読ませよ」
「燃やしたのは写本だけであろう? 本物は残っておるはずだ」
「…………」
私は絶句した。
すると横から小満が元気よく手を挙げる。
「あります!」
「賢妃様から一冊もらいました! 枕の下に隠してあります!」
皇太后の目がさらに輝く。
「よい子だ!」
私は額を押さえた。
……この一家、もうどうしようもない。
寿康宮を出る頃には、すっかり日が暮れていた。
宮道では皇帝が待っていた。
黒い外套を羽織り、手には灯籠。
月明かりに照らされた鎖骨の傷は、もうほとんど癒えている。
薄く残った傷跡さえ、不思議とよく似合っていた。
「母上は何と?」
彼が尋ねる。
「私たちには幸せでいろって」
私は笑った。
「あと、『龍陽東宮』の最終回を読みたいそうよ」
皇帝は吹き出した。
そのまま私を抱き寄せ、一枚の外套で二人を包み込む。
「読ませればいい」
「どうせ全部、本当のことだから」
私はじろりと睨む。
「どこが?」
彼は私の口元へ軽く口づけた。
「全部」
そして微笑む。
「特に『陛下と太子は情が深く、片時も離れられない』ってところ」
「ここは宮道よ。誰かに見られたら――」
「見られればいい」
皇帝はまるで気にしなかった。
「朕は皆に知らせたい」
「太子は朕のものだ」
「お前に手を出す者は、朕に喧嘩を売るのと同じだ」
私は苦笑しながら、その胸にもたれた。
力強い鼓動が、耳元で静かに響く。
そのとき、遠くから小満の声が飛んできた。
「父上ー! 母上ー! 皇太后様が聞いてます! 今夜はどこで寝るんですかー?」
皇帝は顔を上げ、大きな声で返す。
「東宮だ!」
「じゃあ、ぼくも行く!」
「駄目だ」
皇帝は即答した。
「今夜は皇太后様のところで寝なさい」
「どうしてー?」
皇帝は私を見下ろり、いたずらっぽく笑う。
「父上と母上は、二人きりで過ごすからだ」
小満「…………」
皇太后「…………」
私は慌てて彼の脇腹をつねった。
しかし皇帝は笑うばかりで、ひょいと私を横抱きにする。
「ちょっ、降ろして!」
「嫌だ」
「傷、治ったばかりでしょ!」
「治ったからこそ抱ける」
彼は鼻先をそっと私に寄せ、優しく囁いた。
「……帰ろう」
「俺たちの家へ」




