第68話 傷はまだ治ってない。でも口だけは絶好調。
私が寝殿へ乗り込んだ時。
皇帝は――
寝台にもたれて、のんきに瓜子をポリポリ食べていた。
……瓜子を。
その隣では、小満があぐらをかいて『論語』を広げ、一生懸命音読している。
「子曰く、学びて時にこれを習う、また説ばしからずや……」
彼女は顔を上げた。
「お父さん、この意味って何?」
皇帝は瓜子の殻を器用に吐き出しながら答える。
「つまりだな。」
「お母さんに宿題しろと言われたら、笑顔で『はい!』と言え、ということだ。」
「なるほど!」
小満は素直にうなずいた。
私は無言だった。
深く息を吸い込み、寝台へ歩み寄る。
そして彼の前にあった瓜子の皿をひったくった。
「傷も治りきってないのに、こんな熱がこもるものばっかり食べて。傷跡を残したいの?」
皇帝は顔を上げる。
その目は子犬……いや、狼の子みたいにきらきら輝いていた。
「……おかえり、奥さん。」
「その呼び方は禁止。」
私は声を潜める。
「ここは宮中よ。」
「宮中だから何だ?」
彼は私の袖をつまんで引っ張る。
「朕が自分の太子をそう呼んで、誰が文句を言う?」
「あなたねぇ――」
「お母さん。」
小満がお行儀よく手を挙げた。
「私、外に出てもいい?」
「淑妃さまが今夜は麻雀を教えてくれるって。」
「……行ってらっしゃい。」
「はーい!」
小満は寝台から飛び降り、入口まで駆けていく。
……が、途中で振り返り、妙に大人びた顔で言った。
「お父さん。」
「取り調べするのはいいけど、傷口の上には乗らないでね。」
「太医が言ってたよ。また傷が開いたら、雨の日は腰が痛くなるって。」
皇帝「…………」
私「…………」
小満は満足そうに頷き、ぴょんぴょん跳ねながら出ていった。
しかも最後に気を利かせて、ちゃんと戸まで閉めて。
部屋には私たち二人だけが残る。
皇帝は寝台の端へ少し身体をずらし、
ぽんぽん、と隣を叩いた。
「座れ。」
「座らない。」
私は腕を組む。
「今日は文句を言いに来たの。」
「朝廷の空席、あと十二人。」
「もう私じゃ埋められない。」
「あなた、このまま寝たまま指図ばかりしてたら――」
「したら?」
「辞める。」
彼は一瞬きょとんとした。
次の瞬間、吹き出す。
笑いすぎて傷が痛んだらしく肩を震わせながら、それでも私の腕を引っ張った。
私は体勢を崩し、そのまま寝台へ腰を落とす。
すると彼はそのまま私の腰へ腕を回し、肩口へ顔を埋めた。
「……辞められない。」
くぐもった笑い声が響く。
「契約済みだからな。」
「システムとの一年契約。」
「あと七か月で終わるわ。」
私は彼を押し返す。
「七か月後には全部放り出して帰る。」
「この国の後始末は、自分でやって。」
その瞬間だった。
彼の動きが止まる。
ゆっくり顔を上げた。
目の奥から笑みが消えていく。
その表情を、私は知っている。
前世で私が冗談半分に「離婚しようかな」なんて口にした時も、彼は同じ顔をしていた。
何も言わず、
ただ少し目を赤くして、
捨てられた大型犬みたいにこちらを見るだけ。
「……本気か?」
ぽつりと尋ねられる。
胸が少し痛んだ。
「……嘘。」
そう答えるしかなかった。
彼は二秒ほど私を見つめ――
突然、私を寝台へ押し倒した。
背中が柔らかな錦の布団へ沈む。
彼は私の上へ覆いかぶさり、
包帯越しに薬の匂いがふわりと漂った。
「傷が――」
「当たってない。」
鼻先を軽く擦り寄せながら囁く。
「……もう二度と、そんな嘘はつくな。」
「本気で怒る。」
「怒ったらどうするの?」
「罰を与える。」
低い声とともに、
彼の手が私の衣の裾からそっと滑り込み、
腰へ触れた。
「……今夜は帰さない。」
耳まで熱くなる。
「ここ、あなたの寝殿なのよ。そもそも泊まれないでしょ。」
「なら。」
彼は鎖骨へ軽く歯を立てながら笑う。
「明日の朝議までここにいろ。」
「文武百官全員に見せてやる。」
「太子殿下は、朕の寝台から起きてきたんだってな。」
「……本気で言ってるの?」
「本気だ。」
あっさり頷く。
「会いたすぎて、おかしくなった。」
その時、扉の向こうから福海が遠慮がちに咳払いした。
「……陛下。」
「賢妃娘娘がお目通りを願っております。」
「よ、よい知らせがあると……。」
皇帝は私の首元へ顔を埋めたまま答える。
「何だ。」
「どんな吉報だ。」
福海は少し言いにくそうに口を開いた。
「賢妃娘娘が……例のお話を書き上げられたそうです。」
「最終巻にございます。」
私「…………」
皇帝「…………」
二人同時にため息をついた。
「通せ。」
皇帝はようやく私から身体を離し、衣を整える。
「……今度は何を書いたのか見てやろう。」
賢妃は両手いっぱいに冊子を抱え、頬を紅潮させながら入ってきた。
「陛下! 殿下!」
「『龍陽東宮』、ついに完結いたしました!」
「三日三晩かけて書きまして、筆を三本も潰しました!」
私は冊子を受け取り、一ページ目を開く。
「太子殿下は龍床からゆっくりと身を起こした。陛下は優しく衣の襟を整え、その瞳には溶けることのない慈愛が宿る――『今日の朝議は、朕も共に参ろう。』」
「…………」
私は無言でページをめくる。
「文武百官は太子殿下の首筋に残る紅い痕を目にし、一斉に頭を垂れた。『陛下と太子殿下は、なんと親子の情が深いことか』と誰もが感嘆した。」
「パタン。」
私は勢いよく本を閉じた。
賢妃が期待に満ちた目でこちらを見る。
「殿下、いかがでしょう?」
「……誰が首に痕なんて付けたのよ。」
「想像です。」
賢妃は照れ笑いを浮かべる。
「芸術は現実から生まれ、現実を超えるものですから。」
「ご安心ください。そこまで過激には書いておりません。」
「せいぜい、『帳の内、春色限りなく、太子の甘い息遣いが夜に溶け――』くらいで……」
「燃やして。」
私は冊子を彼女へ押し返した。
「今すぐ。」
「この場で。」
「全部。」
「えっ?」
「一冊残らず。」
横から皇帝がのんびり追い打ちをかける。
「賢妃。」
「そんなに暇なら、太子の代わりに奏章でも処理してこい。」
賢妃の目が輝いた。
「本当ですか!?」
「嘘だ。」
皇帝は手をひらひら振る。
「下がれ。」
「話本は今回限りだ。」
賢妃はしょんぼりと頭を下げ、部屋を出ていく。
……と思ったら、また顔だけひょこっと覗かせた。
「あの……『御街驚鴻』の続編なら書いてもよろしいでしょうか?」
「陛下と殿下が身分を隠して町へ出るお話なんですけど――」
「それも却下!」
扉が閉まる。
私はそのまま力尽きたように寝台へ倒れ込んだ。
隣では皇帝がまた笑っている。
笑いすぎて傷が痛むらしく、顔をしかめながら、それでも私を抱き寄せた。
「……そんなに怒るな。」
「別に間違ったことは書いてない。」
「どこが?」
私は睨みつける。
彼は私の髪へ軽く口づけを落とした。
「朕は本当に、お前と一緒に朝議へ行きたい。」
少し間を置き、
「……それに、本当はお前の首にも印を残したい。」
「あなた……!」
「でも我慢した。」
彼は妙に真面目な顔でため息をつく。
「まだ傷が治りきっていない。」
「さすがに力が入らないからな。」
私は枕をひったくると、
思いきり彼の顔へ投げつけた。




