第66話 夜の密会
夜更けまで上奏文に目を通していたら、気づけばもう丑三つ時だった。
こめかみを揉みながら寝殿へ戻る途中、御花園を通りかかったその時――
突然、後ろから口を塞がれた。
反射的に肘を打ち込む。
だが、その一撃はあっさり受け流された。
ふわりと鼻先をかすめたのは、どこか懐かしい薬草の香りと、龍涎香。
「……私だ。」
振り返る。
梅の木の下に立っていたのは、皇帝だった。
黒い外套を羽織り、顔色はまだ青白い。それでも背筋は真っ直ぐ伸びている。
「あなた、何考えてるの?」
私は声を潜めた。
「太医が最低一か月は絶対安静だって言ったでしょう!」
「寝てばかりはいられん。」
彼は当然のように歩み寄ると、自分の外套を半分広げ、私まで包み込んだ。
「今日の朝議、お前は随分威勢がよかったそうだな。」
「……また密偵?」
「福海だ。」
彼は涼しい顔で答える。
「影七より報告が早い。」
私は呆れて睨んだ。
「ちゃんと養生もしないで、抜け出してきて何するつもりなの?」
皇帝は私を見下ろし、梅の花びらが肩へふわりと落ちる。
「……会いたかった。」
その一言だけだった。
「七日も口づけできなかった。」
「さすがに限界だ。」
「ちょっ――」
気づけば背中が梅の幹に押しつけられていた。
冷たい樹皮。
その前には彼の体。
私は木と彼との間に閉じ込められる。
「本当に傷は治ったの?」
疑わしげに見上げる。
「治ってはいない。」
彼はあっさり認めた。
「だが、お前を抱きしめるくらいの力は残っている。」
「そんなに動いたら傷が開くでしょう!」
「開いたら、お前が縫ってくれ。」
鼻先を私に擦り寄せながら笑う。
「前世では応急処置を習っていただろう?」
「服を縫うのと人を縫うのは全然違う!」
「似たようなものだ。」
彼は喉の奥で笑い、吐息が私の頬をかすめた。
「……一回だけ。」
「キスさせてくれ。」
「だ、だめ!」
「ここは御花園よ!」
「なら、あの築山の陰へ行こう。」
「もっとだめ!」
私の抗議など聞こえなかったかのように、彼はそのまま唇を重ねてきた。
今までのような、弱々しい口づけではない。
獲物を逃がさないような熱を帯びた口づけだった。
後頭部をしっかり抱え込まれ、唇を割って入り込む。
薬の苦みが舌先に移り、息まで奪われていく。
私は慌てて彼の肩を押した。
触れたのは包帯のざらついた感触。
そして、その下から滲む生ぬるい熱。
「傷が開いてる!」
慌てて身を離そうとする。
「開けば開けばいい。」
彼は唇を離さないまま呟き、
その手は私の腰へ滑り落ちた。
「……もう少しだけ。」
「あなた――!」
その時だった。
遠くから足音が聞こえた。
続いて、小満の声。
「お母さんー?」
「お母さん、奏章を読むって言ってたのに、どうして御花園にいるのー?」
全身が固まる。
私は慌てて皇帝を突き飛ばした。
「っ……!」
彼は小さく呻き、梅の木にもたれかかった。
胸元を押さえ、顔色がさらに悪くなる。
「だ、大丈夫!?」
私は慌てて駆け寄り、その身体を支える。
「平気だ。」
歯を食いしばりながら苦笑する。
「……ちょっと痛むだけだ。」
「自業自得よ!」
その時、小満が茶トラ猫を抱いたまま駆け寄ってきた。
三歩手前でぴたりと止まる。
私を見る。
皇帝を見る。
血が滲んだ包帯を見る。
そして最後に、赤く染まった私の唇を見た。
……
沈黙。
長い、長い沈黙。
やがて小満は、大きくため息をついた。
そのため息は、六十歳のおばあちゃんのように人生を悟りきっていた。
「お父さん。」
「まだ怪我が治ってないんだから、少しは我慢してよ。」
皇帝「……」
「お母さんも。」
今度は私へ視線を向ける。
「顔、真っ赤だよ? 熱あるんじゃない?」
「太医、呼ぼうか?」
私「……」
腕の中の茶トラ猫が、
「ニャー。」
と一声鳴き、尻尾をゆらりと振った。
まるで同意しているみたいだった。
皇帝は私の肩へ額を預けたまま、とうとう笑いを堪えきれなくなった。
肩を震わせ、
傷口まで震わせながら笑っている。
私は思い切り脇腹をつねる。
すると彼はますます笑い出した。
小満は猫を抱えたまま背を向ける。
「じゃ、私は帰るね。」
「二人は続けていいけど、あんまり長くしないで。」
「お父さん、本当に死んじゃうから。」
「小満!」
「はいはい。」
振り返りもせず手だけ振る。
「何も見てないし。」
「ちゃんと秘密にしてあげる。」
遠ざかる背中から、鼻歌が聞こえてきた。
「お父さんとお母さん ちゅっちゅして~
小満は見てない 知らないふり~♪」
「…………」
皇帝はようやく笑い終え、身体を起こした。
再び私を腕の中へ抱き寄せる。
顎を私の頭へ乗せ、まだ笑い混じりの声で呟いた。
「……うちの娘。」
「本当にできた子だな。」
「どこがよ。」
私は彼の胸へ顔を埋め、薬の匂いを吸い込みながらぼやく。
「全部あなたが悪いの。」
「私は何も教えていない。」
「前世だって、いつも小満の前で――」
「前世も、あの子は寝たふりをしていただけだ。」
私は固まった。
「本当に寝ていたと思ってたのか?」
彼は私の髪へそっと口づける。
「あの子は――」
「私たちより、ずっと一枚上手だ。」
夜風が吹き抜ける。
梅の花びらが静かに地面へ舞い落ちた。
私は彼の胸にもたれながら、
規則正しく響く鼓動を聞いていた。
一つ、
また一つ。
力強く、生きている音。
「帰りましょう。」
私は静かに言う。
「本当に傷が開いてる。包帯を替えないと。」
「……お前が替えてくれるのか?」
「ええ。」
「なら。」
彼はもう一度だけ顔を寄せた。
「もう一回だけ口づけを。」
「麻酔代わりだ。」
「……却下。」
私は彼の肩を押しながら歩き出す。
彼は半身を私にもたれかけてきて、
まるで山みたいに重かった。
月明かりが二人の影を長く伸ばす。
重なり合ったその影は、
もうどちらが誰なのか、見分けがつかない。
遠くで、更鼓が四つ鳴った。
――あと七か月。
この七か月で、この国を立て直さなければならない。
このどうしようもない男の傷も治さなければならない。
そして――
積もり積もった借りも、一つ残らず返してやる。
私は彼の手をぎゅっと握った。
二人並んで寝殿へ歩き出す。
雪が、また降り始めた。
肩へ。
髪へ。
重ねた手へ。
雪は冷たい。
けれど、その手だけは、どこまでも温かかった。
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