第59話 影に隠れて逢瀬を重ねる
太子の身体は若くて、驚くほど敏感だった。
身体がびくりと震える。
思わず喉の奥から小さな声が漏れてしまい、恥ずかしくて、情けなくて、胸がいっぱいになる。
彼はぴたりと動きを止めた。
額を私の額へ寄せ、荒い息を整えながら囁く。
「……声を出すな」
掠れた声だった。
「これ以上聞かせたら、本当に我慢できなくなる」
「あなた……」
「分かってる」
彼は苦く笑う。
「場所も悪い。身体も悪い。」
「全部分かってる」
「でも七日だ」
その声はひどく疲れていた。
「宰相の間者が宮中じゅうにいる。お前を見るだけでも時間を計算しなきゃならない。」
「これ以上我慢したら、本当に壊れそうだった」
身体中が熱い。
酒のせいなのか。
それとも――彼のせいなのか。
自分でも分からない。
遠くから承乾宮の雅楽が流れてくる。
……彼の婚礼。
その夜。
私たちは屋根の陰に身を潜めていた。
誰にも知られてはいけない逢瀬。
そう思うほど胸は苦しくて、同時にどうしようもなく鼓動が速くなる。
「……もう行って」
私は小さく彼を押した。
「見つかったら終わりだから」
「終わらない」
彼は耳元で笑う。
「俺は皇帝だ」
「私は太子よ」
「だから余計に危ない」
悪戯っぽく笑って、
「世間から見れば、一番許されない関係だからな」
「……最低」
思わず拳を振り上げる。
けれど彼はその手を優しく受け止めた。
「もう少しだけ」
今度の声は真面目だった。
顎を私の肩へ預け、小さく息を吐く。
「正月が明けるまでだ」
「宰相はそこまで生きられない」
「全部終わったら」
彼は腕に少しだけ力を込める。
「今度は堂々と、お前を俺の隣へ立たせる」
「誰が隣に立つって言ったの」
「お前しかいない」
迷いなく答える。
「今世も」
「前世も」
「その先も」
「ずっと、お前だけだ」
私は何も言えなかった。
ただ静かに顔を彼の肩へ預ける。
真紅の婚礼衣装が頬に触れる。
妙に熱かった。
遠くで更鼓が鳴る。
子の刻だ。
彼はゆっくり身体を離した。
乱れた衣を整えながら立ち上がる。
「戻る」
「郡主が目を覚ましたら、芝居が全部無駄になる」
「……早く行って」
彼は塀へ向かい、ふと足を止めた。
「茶には触るな」
「水も飲むな」
「影七が毎日、抜け道から安全なものを届ける」
「……分かった」
「それから」
少しだけ笑う。
「次に妬いたら、ちゃんと言え」
「茶碗は割るな」
「前世でもそうだった」
「怒るとすぐ物を壊して、あとで『高かったのに』って落ち込む」
「……っ!」
私は足元の瓦を拾い、そのまま投げつけた。
彼は軽く身をかわす。
そのまま塀を越え、夜の闇へ消えていった。
私はしばらく屋根の上に座ったまま、そっと唇へ触れる。
心臓はまだ速く鳴っていた。
その時。
下から眠そうな声が聞こえてくる。
「ママぁ……?」
小満だった。
「屋根の上で何してるの?」
「月を見てたの」
「きれい?」
「……うん」
「じゃあ降りてきて」
「お話して」
「眠れない」
私は屋根から飛び降り、小満を抱き上げた。
小さな身体が私の肩へもたれかかる。
眠そうに鼻をひくつかせたかと思うと、
「……ママ」
「ん?」
「パパの匂いがする」
「しないわよ」
「する」
眠そうな目のまま、小満は真剣に頷いた。
「それに、お酒の匂いも」
「二人で内緒で飲んだでしょ?」
「…………」
私は返事ができない。
小満は半分眠ったまま、小さく笑う。
「今度は……ぼくも一緒に飲む……」
そのまま、すうっと寝息を立て始めた。
私は小満を抱いたまま東宮へ戻る。
夜風は冷たい。
ふと振り返って屋根を見上げる。
そこにはもう誰もいない。
けれど――
あの場所には、まだ彼のぬくもりが残っている気がした。
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