第58話 屋根の上の密会
酒を三壺も飲んだ。
この太子の身体は、とにかく酒に弱い。
本来なら三杯で潰れる程度なのに、意地になって三壺も空けたせいで、頭の中は綿でも詰められたみたいにふわふわしていた。
視界は二重になり、月まで二つ見える。
その時だった。
屋根の向こうで瓦がかすかに鳴る。
顔を向けると、鮮やかな紅色が塀を軽やかに飛び越えてきた。
猫のように音もなく着地する。
風にあおられた吉服が大きく揺れ、金糸で刺繍された龍が月明かりにきらりと光った。
「……なんで来たの」
舌が回らない。
彼は私の隣へ腰を下ろした。
「花嫁は眠った」
どこか酒臭い息で笑う。
「眠り香を焚いてきた。三刻くらいは起きない」
「最低」
「うん」
あっさり認める。
私の酒壺を取り上げ、そのまま口をつけて一口あおった。
「でも、一番確実だから」
私はぷいっと横を向く。
彼が顎に手を添えてこちらを向かせようとする。
振り払う。
もう一度伸びてきた手も、今度はもっと強く払った。
「拗ねてる?」
「そんな身分じゃありません」
私は鼻で笑った。
「新婚の陛下にとって、私は何ですか。
毒で殺されかけてる太子?
東宮からも出られない厄介者?」
彼はしばらく黙って私を見つめていた。
それから、ふっと笑う。
その笑顔はいつものように少し悪戯っぽくて――少しだけ、切なかった。
「本気で妬いた?」
「誰が」
「彼女には触れてない」
声が低くなる。
もう「朕」ではなく、「俺」だった。
「指一本だって触れてない」
そう言って、自分の吉服を軽くつまむ。
「この衣装は、お前に見せたかっただけだ」
「……似合わない」
「じゃあ脱ぐ?」
「帰れ」
その瞬間。
彼が突然動いた。
服を脱ぐためじゃない。
私を抱き寄せ、そのまま屋根へ押し倒したのだ。
屋根は傾いている。
身体が後ろへ滑る。
彼は片腕で私の腰を抱き寄せ、もう片方の手をそっと後頭部へ添えた。
酒壺が転がり落ち、
――ガシャン。
下で派手な音を立てて砕け散る。
「誰だ!」
巡回中の衛兵の声が響いた。
彼はとっさに私の口を塞ぎ、そのまま身体ごと覆いかぶさる。
二人で屋根の陰へ身を潜めた。
胸と胸が触れ合うほど近い。
彼の鼓動が速い。
衣を隔てても、その震えが伝わってくる。
衛兵は松明を掲げて辺りを見回したあと、不審そうな顔のまま去っていった。
ようやく彼は手を離す。
……それでも離れてはくれない。
「何してるの」
私の声まで少しかすれていた。
酒のせいか。
それとも――。
彼は額をそっと寄せてきた。
鼻先が触れるくらいの距離。
「会いたかった」
ぽつりと呟く。
「七日」
「たった七日なのに」
「お前に触れられなくて、おかしくなりそうだった」
「知らない……」
顔を背けようとすると、彼は苦笑した。
そして、ほんの一瞬だけ。
私の唇へ、優しく口づけを落とした。
短く。
けれど、七日分の想いを確かめるような、
そんなキスだった。
無料で完全版を先行で読む:
https://www.amazon.co.jp/dp/B0HFVJ63T9




