第57話 皇帝、妃を迎える
七日。
――丸々七日間、私は彼に会っていない。
東宮は、ついこの前まで人が絶えなかったのが嘘みたいに静まり返っていた。
あれほど媚びを売ってきた大臣たちは、今では私を見ると遠回りをする。
御膳房から届く食事ですら、運ばれてきた時にはもう冷めかけていた。
その代わり――
後宮はやけに賑やかだった。
北疆から郡主が入京したらしい。
承乾宮に迎えられ、絶世の美女で、歌も舞も一流。
陛下自ら湖を巡り、梅を愛で、琴の演奏まで共に楽しまれたという。
そして――
近く妃として迎え入れる。
そんな噂が、あっという間に宮中を駆け巡った。
私はその話を聞きながら、三つ目の茶碗を床へ叩きつけた。
パリン、と乾いた音が響く。
隣では、小満がしゃがみ込んで私を見上げていた。
「ママ」
「……なに」
「手、震えてるよ」
「震えてない」
「震えてる」
小満は割れた破片を拾い上げながら言う。
「さっきお茶碗持った時、御花園の茶トラが犬を見つけた時くらいブルブルしてた」
「…………」
そのタイミングで。
障子の向こうから、どさっと音がした。
「殿下ー」
賢妃だった。
しかも普通に塀を乗り越えて入ってきた。
……いや、もう誰も突っ込まない。
この後宮、塀を越えられない妃の方が少ない。
賢妃は裾についた雪を払いながら笑う。
「そんなに茶碗を割らないでくださいよ。官窯の品なんですから、一枚減るたびに惜しいんです」
「何しに来たの?」
私は睨む。
「私の惨めな顔でも見物しに?」
「ええ」
賢妃はあっさり頷いた。
「発狂してる殿下を見に」
「……」
そして懐から一枚の紙を差し出した。
「陛下からです。私が預かりました」
私は紙を開く。
そこには、見慣れた筆跡で一行だけ。
『俺を信じろ。東宮の茶だけは飲むな。』
その瞬間、指先が震えた。
その夜。
影七が東宮中を調べ上げた。
茶葉。
井戸水。
香炉の香。
ありとあらゆる物を検めた末――
毎日飲んでいた龍井茶から毒が見つかった。
ゆっくり効く毒。
名は――牽機。
半月ほど飲み続ければ風邪に似た症状が現れ、
名医でも原因を突き止められないまま、静かに命を落とすという。
私はその茶葉を見つめた。
背中を冷たい汗が伝う。
……宰相は。
私を廃太子にしたいだけじゃない。
最初から、殺すつもりだった。
「北疆の郡主を迎えるのは」
賢妃が静かに口を開く。
「北疆の軍勢を味方につけるためです」
私は顔を上げた。
「宰相は京に三万の私兵を抱えています。陛下は、それに対抗する力が必要だった」
彼女は声をさらに落とす。
「今回の婚儀は芝居です」
「宰相へ見せるため。
天下へ見せるため。
……そして」
少しだけ微笑んだ。
「殿下を守るためでもあります」
私は唇を噛んだ。
「だったら……どうして私にまで隠すの」
賢妃は私をまっすぐ見つめ返す。
「隠したからこそ、本物になるんです」
「もし殿下が最初から全部知っていたら」
少し間を置いて続けた。
「こんなふうに、本気で傷つけましたか?」
返す言葉がなかった。
……たしかに。
私は七日間。
眠れず、食べられず、
胸が苦しくて仕方なかった。
その感情まで演技にできるほど、私は器用じゃない。
賢妃は立ち上がり、障子へ向かう。
そして思い出したように振り返った。
「あ、それと」
「陛下からもう一つ」
「『東宮恋草子』は燃やしておけ、だそうです」
「そんな本ばかり読んでると、本当に頭がおかしくなるって」
「…………」
あの男。
そんなことまで伝言する余裕はあるのか。
その夜。
私は毒入りの茶葉を抱えたまま、東宮の屋根へ登った。
満月だった。
白い雪が宮中を静かに照らしている。
遠く。
承乾宮だけが、煌々と灯りをともしていた。
雅楽の音色が、風に乗ってかすかに届いてくる。
――明日。
彼は、妃を迎える。
無料で完全版を先行で読む:
https://www.amazon.co.jp/dp/B0HFVJ63T9




