第56話 朕の人に触れるなら、天でも許さない
朝議なんて、今日は地獄だった。
眠い。
とにかく眠い。
昨夜、あの男がまた東宮に忍び込んできた。
「帳簿を合わせよう」
なんて真面目そうな顔で言っておきながら、帳簿なんて二ページもめくらないうちに、手は肩から腰へ。
三回蹴飛ばしてもびくともしない。
結局、「陛下、もう丑三つでございます」と外から福海の声がして、ようやく渋々帰っていった。
帰り際には耳元で、
「明日の朝議、居眠りするなよ」
なんて囁いて。
その時は適当に流した。
――まさか本当に眠気と戦う羽目になるとは。
金鑾殿で立ったまま、瞼が鉛みたいに重い。
太ももをつねって、どうにか意識を保っていた、その時だった。
「陛下!!」
突然、欽天監の監正が一歩前へ出た。
「昨夜、臣が星を観測いたしましたところ、紫微星の傍らに異様な光が現れ、双陽が競い輝き、陰星が月を喰らう兆しが――!」
頭の中が一気に冴えた。
双陽。
陰星。
月を喰らう。
その言葉が一つ増えるたび、背筋が冷えていく。
朝堂は水を打ったように静まり返る。
誰も顔を上げない。
だけど視線だけは分かった。
何本もの針みたいに、全部私へ突き刺さっている。
宰相が一歩進み出る。
「監正、その占いには根拠があるのか?」
「ございます!」
監正は古びた書物を掲げた。
「古典にも記されております。この天象は――父子の倫を乱し、陰陽が逆転し、国本が揺らぐ凶兆にございます!」
空気が凍った。
私は笏を握る手に力を込めた。
骨がきしむ。
こいつは星なんか見ていない。
言いたいのは天象じゃない。
私と皇帝のこと。
そして小満のことだ。
気付いたのか。
それとも――誰かに吹き込まれたのか。
「太子殿下。」
宰相がこちらを向いた。
刃物みたいな目だった。
「監国されて以来、東宮に何か異変はございませぬか?」
喉が締まる。
返事をしようとした、その瞬間。
玉座の上から、小さな笑い声が響いた。
その笑いは静かだった。
けれど、大広間の空気を一瞬で凍らせるには十分だった。
「欽天監も、ご苦労なことだ。」
皇帝は数珠を指先で転がしながら、気怠そうに言う。
「星が言うことを聞かぬなら――」
そこで数珠を止めた。
「今日より欽天監二十七名全員、観星台で跪いておれ。」
監正が真っ青になる。
「へ、陛下!?」
「星がまともになるまで、戻らなくていい。」
「陛下! これは天意にございます! 逆らっては――」
「朕は天意に従っている。」
皇帝は淡々と言った。
「天が『お前たちは目障りだ』と言った。朕にはちゃんと聞こえた。」
誰一人、息をする音すら立てない。
……けれど。
次の瞬間。
宰相が膝をついた。
それを合図にしたように、十数人の大臣が一斉に跪く。
額を床へ擦りつけながら叫ぶ。
「陛下!!」
「天意には逆らえませぬ!」
「太子を遠ざけ、蘇貴妃を宮外へ出し、修行させるべきにございます!」
「陰陽を正し、国の乱れを鎮めねばなりませぬ!」
私は宰相の後頭部を見つめた。
その瞬間、全部理解した。
狙われているのは私じゃない。
――皇帝だ。
私を捨てるか。
それとも、朝廷そのものを敵に回すか。
その選択を迫っている。
皇帝は何も言わなかった。
玉座に座ったまま。
冕旒が顔を隠していて、表情は見えない。
見えたのはただ一つ。
玉座の肘掛けを掴む手。
血管が浮き出るほど、強く握り締められていた。
長い沈黙のあと。
彼は静かに口を開く。
「……後日、改めて議す。」
その一言だけ。
「朝議は終わりだ。」
立ち上がる。
翻る龍袍。
こちらを見ることもなく、そのまま去っていった。
私はその背中を見送ることしかできなかった。
やがて福海が小走りで近寄ってくる。
頭を深く下げたまま、小さな声で言った。
「太子殿下……」
「陛下よりお伝えいたします。」
「しばらくの間、御書房へはお越しにならなくてよい、と。」
私はその場に立ち尽くした。
笏を握る手に力が入りすぎて、今にも折れそうになる。
――『御書房へ来なくていい』。
ずいぶん便利な言い方じゃない。
彼は私を守ろうとしているのか。
それとも――
本当に、突き放そうとしているのか。
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