第40話 今度は、お前の方からキスしてくれ
北疆から急報が届いた。
突厥軍が国境を突破。
わずか数日のうちに、三つの城が陥落したという。
朝廷は一気に騒然となった。
武断派は「即刻出兵すべし」と声を張り上げ、
講和派は「まずは和議を」と食い下がる。
戸部は「軍費が足りませぬ」と泣き言を並べ、
兵部は「兵はすでに限界です」と頭を抱える。
龍案の脇に座る俺は、その光景を眺めながら頭痛を覚えていた。
……うるさい。
誰一人、結論を出そうとしていない。
皇帝は終始無言だった。
群臣がようやく言い争いを終えると、静かに口を開く。
「――皇太子は、どう考える?」
一斉に視線が俺へ集まる。
俺は立ち上がり、玉座の前へ進み出た。
そして、ただ一言だけ告げた。
「戦います。」
その一言で、大殿の空気が凍りつく。
「しかも――」
俺は皇帝をまっすぐ見据えた。
「陛下ご自身が親征なさるべきです。」
場内がどよめいた。
誰もが息を呑む。
皇帝はわずかに眉を上げた。
……さすがに、そこまでは予想していなかったらしい。
「理由は?」
静かな問いに、俺は迷わず答える。
「突厥は三城を連続で落とし、いま最も勢いに乗っています。」
「この状況で和議を求めれば、相手は必ず足元を見てきます。」
「だからこそ必要なのは、圧倒的な一撃です。」
「四方へ"大周はまだ折れていない"と示さなければなりません。」
俺は一拍置いて続けた。
「そして、その旗印になれるのは――」
「陛下、あなたしかいません。」
再び大殿がざわめく。
皇帝は黙ったまま俺を見つめていた。
その瞳は深く、何を考えているのか読めない。
「……朕に親征せよ、と?」
「はい。」
「では、都は?」
俺は一歩も引かず答えた。
「俺が守ります。」
その瞬間。
大殿は恐ろしいほど静まり返った。
皇帝はしばらく俺を見つめ、
やがて苦笑を浮かべる。
その笑みには、
呆れと、
誇らしさが、
少しだけ混じっていた。
「朕の留守を、お前が守るというのか。」
「あなたは三か月もの間、俺を守ってくれた。」
俺は静かに言った。
「だから今度は、俺があなたを守ります。」
皇帝は何も言わない。
長い沈黙のあと、
ゆっくりと俺の前まで歩いてきた。
文武百官が見守る中、
彼はまるで誰の視線も気にしないように、
そっと俺の襟元へ手を伸ばす。
乱れていた衣襟を整えながら、
俺にだけ聞こえるほど小さな声で囁いた。
「……本気か、老婆。」
「本気です。」
「小満は?」
「俺が一緒に連れて行きます。」
皇帝は一瞬だけ目を伏せた。
そして、不意に俺の耳元へ顔を寄せる。
吐息が耳にかかり、
思わず耳まで熱くなった。
何かを囁かれた瞬間、
俺は思わず顔を赤くしてしまう。
小さく咳払いをしてから答えた。
「……勝って帰ってきたら、その時に。」
皇帝は堪えきれず、小さく笑った。
そして振り返り、群臣へ向き直る。
「皇太子の奏上を認める。」
「朕は北疆へ親征する。」
「皇太子は監国とし、朝政の一切を統べよ。」
「陛下――!」
大臣たちの悲鳴にも似た声が大殿へ響く。
だが皇帝は振り返らなかった。
「これにて、散朝。」
そう言い残し、
衣の裾を翻して玉座を後にする。
俺はその背中を見送りながら、
胸の鼓動が速くなるのを感じていた。
……さっき、
耳元で彼が囁いた言葉。
「勝って帰ってきたら――今度は、お前の方からキスしてくれ。」
……本当に、この人は。
こんな状況でも、
そんなことばかり考えているんだから。




