第37話 怖いなら、俺のそばを離れるな
御書房の空気は、明らかに張り詰めていた。
中へ入った瞬間、それが肌で分かる。
賢妃が脇に控え、その前には三人の大臣が額を床につけて跪いていた。
皇帝は龍案の奥に腰を下ろし、手の中で数珠をゆっくりと回している。
その眼差しは、氷のように冷たかった。
「来たか」
俺に気づくと、皇帝は視線を上げる。
だが、その声音だけは不思議なくらい柔らかかった。
「こちらへ」
俺は静かに彼の隣へ歩み寄る。
その瞬間。
床に伏していた礼部尚書の肩が、小さく震えた。
「もう一度言え」
皇帝が静かに促す。
礼部尚書は震える声で口を開いた。
「へ……陛下。臣らはただ……皇太子殿下はまだお若く、長く政務に立ち会わせるのは……その……」
「何が問題だ?」
「れ、礼に……反します……」
その言葉を聞いた皇帝は――笑った。
その笑みを見た瞬間、俺の背筋がぞくりと冷える。
「礼に反する、か」
皇帝はゆっくり立ち上がり、礼部尚書の前まで歩いていく。
「ならば聞こう。」
「皇太子が監国を務めることは、礼に反するのか?」
礼部尚書の顔が一瞬で青ざめた。
「朕は今日、お前たちを呼んだのは相談するためではない。」
静かな声だった。
だが、一言一言が床に叩きつけられるような重みを持っていた。
「知らせるためだ。」
「本日より皇太子は監国とする。」
「朕が不在の時は、皇太子の命は、そのまま朕の命である。」
御書房は水を打ったように静まり返る。
俺の頭の中まで真っ白になった。
……この人、何を言ってるんだ?
本気か?
いや、完全に正気じゃないだろ。
その時だった。
賢妃が静かに膝をついた。
「陛下のご英断、まことにお見事にございます。」
「皇太子殿下は聡明にあらせられます。監国をお任せするに相応しいお方です。」
彼女が跪いた途端、
残る二人の大臣も慌てて続いた。
「陛下のご英断にございます!」
そう叫びながらも、その声は今にも泣き出しそうだった。
皇帝は振り返り、俺の手を取る。
そのまま龍案の前へと引き寄せた。
「怖いか?」
誰にも聞こえないほど小さな声。
俺だけに向けられた囁きだった。
「こんな大事にされたら、怖くないわけないだろ。」
皇帝はふっと笑う。
「怖いなら、それでいい。」
「なら、朕のそばを離れるな。」
「どこにも行くな。」
俺は思わず彼を見つめた。
その目の下にはうっすらと隈ができている。
昨夜は眠れていなかったのだろう。
俺の手を握る掌は少し汗ばんでいて、
力が入りすぎるほど強かった。
その瞬間、ようやく理解した。
……この人も、怖かったんだ。
昨夜、小満が思わず口にした「パパ」という一言。
あれはどうにか揉み消した。
けれど、賢妃には聞かれた。
太后にも知られた。
だから彼は、
一番乱暴で、一番確実な方法を選んだ。
俺と小満を、自分のすぐそばへ。
誰の目にも見える場所へ。
そうすれば――
皇太子に手を出すことは、
皇帝そのものに刃を向けることになる。
「そんなことをしたら……敵が増えすぎる。」
俺は小さく呟く。
皇帝は一切迷わず答えた。
「構わん。」
「俺は構う。」
その言葉に、
彼は少しだけ目を見開いた。
俺は彼の指を握り返す。
誰にも聞こえないほど小さな声で告げた。
「生きて。」
「任務はあと一年ある。」
「最後まで、一緒に終わらせよう。」
皇帝の瞳から張り詰めた冷たさがゆっくりと溶けていく。
やがて彼は小さく息を吐き、
俺の額にかかった前髪をそっと払った。
「……ああ。」
その一言だけだった。
それで十分だった。
床にはまだ大臣たちが跪いたまま。
賢妃は頭を垂れていた。
けれどその口元だけが、
誰にも気づかれないように、
ほんの少しだけ嬉しそうに緩んでいた。




