第33話 皇帝になった夫が、もう一度私を口説いてくる
頭がぼんやりしている時だった。
突然、彼が顔を近づけてきた。
額が私の額に触れる。
鼻先が、私の鼻先を軽く擦る。
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太子の身体は、彼よりずっと小さい。
この距離を保つために、彼は少し腰を屈めている。
それでも。
絶対に離れようとはしなかった。
「ち……父上……」
彼の眉がわずかに寄る。
「へ……陛下……」
その瞬間。
彼の手が、私の腰を軽くつねった。
思わず、小さな声が漏れる。
「お……夫……」
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その呼び方を聞いた瞬間。
彼は満足そうに目を細めた。
そして顔を少し傾ける。
唇が、私の耳元すれすれに触れた。
低く、夢の中で呟くような声。
「君が太子になった日。」
「俺は君を見に行った。」
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「東宮の寝台に座って、ぼーっとしてただろ。」
「何が起きたのか分からないって顔をして。」
「その時、俺は思ったんだ。」
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「終わった。」
「この馬鹿は……俺の妻だって。」
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私の耳がさらに熱くなる。
「誰が馬鹿よ。」
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彼は笑いながら続けた。
「君は三日間も東宮から出ようとしなかった。」
「初日は寝台の上で呆然。」
「二日目は庭を三周ぐるぐる歩き回る。」
「三日目になったら、宮女に聞いてた。」
「この近くにタピオカミルクティーを売ってる店はないかって。」
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「御書房でその報告書を読んだ時。」
「俺は三十分以上笑いが止まらなかった。」
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私は勢いよく振り返った。
「報告書?」
「あなた、毎日私のことを調べさせていたの?」
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彼の顔は、もう一寸も離れていない。
揺れる蝋燭の光が、その瞳の奥にある笑みをはっきり照らしていた。
彼は逃げない。
目を逸らさない。
ただ、その近すぎる距離で私を見つめる。
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「監視じゃない。」
「見守っていたんだ。」
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「毎日、福海が届ける記録を読んでいた。」
「今日は何をしたのか。」
「何を食べたのか。」
「誰と何を話したのか。」
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彼の声が少しだけ柔らかくなる。
「君が小満に物語を聞かせて、寝かしつけているところを読んだ時。」
「俺は御書房で、ずっと動けなかった。」
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私の喉が少し詰まる。
「……それから?」
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彼は少し黙った。
そして。
静かに言った。
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「それから毎晩、眠れなかった。」
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「前世では、君は俺の隣で眠っていた。」
「寝息だって、何回聞いたか分からない。」
「なのに今世では、三つの宮壁を隔てている。」
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「俺は寝台に横になって、ずっと考えていた。」
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「彼女は今日ちゃんと水を飲んだのか。」
「この世界に慣れたのか。」
「夜中に怖い夢を見た時、誰か抱きしめてくれる人はいるのか。」
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彼は淡々と話していた。
あまりにも平静な声だった。
でも。
私は彼の胸に寄りかかっていたから分かった。
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彼の鼓動が。
さっきより、二拍ほど速くなっていることを。
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私は顔を上げて彼を見る。
蝋燭の光の中。
その顔は知らない帝王のもの。
けれど。
その瞳に宿るものだけは、知っていた。
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前世で。
彼が私にプロポーズした日の目。
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真剣で。
緊張していて。
断られることを恐れているような。
あの目。
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「……どうしてそんな話をするの?」
私の声は少し掠れていた。
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彼は低く答えた。
「前世の俺たちは、お見合いで出会った。」
「三ヶ月付き合って、結婚して。」
「一年後には子供が生まれて。」
「六年間、穏やかに暮らした。」
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「でも。」
「言えなかったことがあった。」
「できなかった恋人らしいことも、たくさんあった。」
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彼の指が、そっと私の頬を撫でる。
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「だから今世では。」
「君は太子になった。」
「俺は皇帝になった。」
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「なら。」
「全部やり直せる。」
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彼の唇が、少しずつ近づく。
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「最初の一歩から。」
「もう一度、君を追いかける。」
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私の頭は、完全に真っ白になった。
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次の瞬間。
彼の唇が触れた。
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軽い。
確かめるような口づけ。
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以前、額に落とされたような、形だけの触れ方とは違う。
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その口づけは。
唇の端に落ちた。
熱を帯びた温度が残る。
三秒ほど。
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私は一瞬で顔が熱くなった。
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彼が少し離れる。
そして。
真っ赤になった私の顔を見て、突然笑った。
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朝議で見せる帝王の笑みとは、まるで違う。
目尻が柔らかく下がって。
口元の笑いを隠せない。
ただの一人の男の顔だった。
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「顔、赤い。」
「黙って。」
「耳も赤い。」
「黙れって言ってるでしょ。」
「首まで――」
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私は目の前の茶杯を持ち上げ。
そのまま彼の胸元へ投げつけた。
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茶が。
彼の黒い寝衣を濡らす。
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彼は自分の服を見下ろした。
それから。
ゆっくり顔を上げる。
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目の奥の笑みは、さっきより深かった。
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「奥さん。」
「これは家庭内暴力になるよ。」
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「離婚。」
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「無理。」
彼は即答した。
「離婚できない。」
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彼は濡れた寝衣を脱ぎ、椅子の背に放る。
蝋燭の光の中。
鍛えられた肩。
引き締まった腰。
皇帝となった身体の輪郭が、はっきり浮かび上がった。
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彼は自分の身体を見下ろし。
それから私を見る。
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「この身体も悪くないだろ?」
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私は慌てて顔を背けた。
「なんで脱ぐのよ。」
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「濡れたから。」
彼は当然のように答える。
「君がかけたんだろ。」
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私は歯を食いしばって、絶対に振り返らない。
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でも。
彼が近づいてくる足音が、どんどん近くなる。
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次の瞬間。
後ろから伸びてきた手が。
私の耳たぶをそっと摘んだ。
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薄いタコのできた指先が。
耳の縁をゆっくり撫でる。
くすぐったくて。
逃げたくなるほど優しい。
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そして。
男の声が、甘く響いた。
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「奥さん~」
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まるで甘える猫のような声だった。
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