第32話 「三ヶ月も我慢した」皇帝の本音
太后は——一体、どこまで気づいている?
「心に大切な人がいる」
その言葉を、太后の口から聞いた時。
それはいったい、誰を指していたのだろう。
皇帝の心にいるのは「蘇貴妃」なのか。
それとも「太子」なのか。
あるいは。
私ですら気づいていない何かを、太后は見抜いているのか。
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私は机の前まで歩き、椅子に腰を下ろした。
指でこめかみを揉む。
今日は本当に疲れた。
朝議では太子として初めて威厳を示し。
昼には大量の奏上文に目を通し。
夕方には小満と庭を何周も走り回りながら、昔話を聞かせた。
頭の中は、まるでかき混ぜられた粥のように混乱していた。
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その時。
背後から足音が聞こえた。
私は振り返らなかった。
ただ。
細身で長身の影が、机の上に落ちる。
私の身体全体を包み込むように。
「疲れたか?」
低い声。
「……うん。」
答えると。
背後の人物は、二秒ほど黙った。
そして。
大きな手が、私の肩に触れた。
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衣越しに伝わる指先。
強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい力加減で、張り詰めた肩と首筋をゆっくり揉みほぐしていく。
私は反射的に身体をこわばらせ、少し肩を縮めた。
「動くな。」
低い声。
そこには逆らえない響きがあった。
私はそのまま固まる。
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彼の手は肩から首筋へ移動する。
指先が首元の肌に触れ、温かな体温が伝わってくる。
この十八歳の太子の身体を、彼の手が包み込んだ瞬間。
私の頭の中に、ある記憶が蘇った。
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前世で。
彼にこうして肩を揉んでもらったのは——
つい先月のことだった。
私たち一家三人が新居へ引っ越したばかりの頃。
私は残業続きで、夜遅くまで仕事の資料を直していた。
その時も。
彼はソファの後ろに立って。
今とまったく同じように、私の肩を揉んでくれた。
力加減も。
指先が止まる位置も。
何ひとつ変わっていなかった。
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「……あなた、昔からこうやって誰かの肩を揉んでたの?」
思わず口に出していた。
彼は手を止めない。
「さあ。どうだと思う?」
「何その答え。」
「じゃあ聞くけど。」
彼の声に少し笑いが混じる。
「前世で、君は六年間も俺に肩を揉ませていたんだろ?」
「それなのに今さら、俺が他の誰かに同じことをしていたのかって聞くのか?」
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彼が少し身を屈める。
吐息が耳元に触れた。
温かな息が、肌をくすぐる。
「奥さん。」
「その質問は……俺には答えにくいな。」
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一瞬で。
耳まで熱くなった。
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彼は肩から手を離した。
そして。
今度は後ろから腕を回す。
両腕を私の身体の両側から伸ばし、机に手をつく。
まるで逃げ道を塞ぐように。
背後から、私をすっぽり包み込んだ。
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彼の胸が、私の背中に触れる。
顎が、私の頭の上に乗る。
太子である私の身体は、彼より半分ほど小さい。
だから。
後ろから抱き込まれると。
全身の感覚が一気に研ぎ澄まされた。
「あなた……」
「動くな。」
彼はもう一度言った。
けれど。
今度の声は、先ほどよりずっと柔らかかった。
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まるで。
前世で私を寝かしつけていた時のような。
少し甘えた、優しい声。
「少しだけ……こうさせて。」
「三ヶ月も我慢したんだから。」
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私の背中は、彼の胸に触れている。
その奥から伝わってくる心臓の鼓動。
一回。
また一回。
力強く、安定したリズム。
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彼の香りは、ほんのり薄かった。
龍涎香を焚き込めた衣の匂い。
そこに混じる、墨の香り。
前世の彼がいつも纏っていた、コーヒーとコピー用紙の匂いとはまったく違う。
けれど。
心臓の鼓動だけは同じだった。
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私が前世で六年間、何度も寄り添って眠った。
あの安心できるリズム。
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私はゆっくり力を抜いた。
そして。
少しだけ、彼の胸へ身体を預ける。
「……ん。」
自然に漏れた小さな声。
その瞬間。
背後の彼の呼吸が、わずかに乱れた。
---
(続く)
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