第29話 賢妃は敵か味方か
私は思わず賢妃を見た。
彼女はそこに静かに座り、茶盞を手にしている。
姿勢は優雅で、表情も穏やか。
けれど。
その視線は何度も私と小満の間を行き来していた。
瞳の奥にある感情が、私には読み取れない。
悪意ではない。
むしろ……。
不安?
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皇帝が口を開いた。
「この件について、朕は把握している。」
「太子と貴妃の間に、礼を逸したことはない。」
「朝廷で広がっている噂についても、すでに福海に処理させた。」
「処理?」
太后が眉を上げる。
「どう処理したのです?」
皇帝は淡々と答えた。
「噂を広めた者は、宮から追放した。」
「発端は御膳房の買い付けを担当していた宦官だ。」
「貴妃が夜に東宮へ泊まったのを見た、と酒の席で話していたらしい。」
「すでに杖刑三十を命じ、宮門から追い出した。」
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その時。
賢妃が茶盞を置き、静かに口を開いた。
「陛下のお処置は適切でございます。」
「ただ……」
彼女は少し間を置く。
「臣妾、恐れながら申し上げたいことがございます。」
「噂というものは、塞ぐより流れを変える方がよいかと。」
「一人を追放しても、また第二、第三の者が現れます。」
「このままでは、太子殿下と貴妃娘娘のお名に傷がついてしまいます。」
賢妃はそこで一度言葉を止め。
私へ視線を向けた。
その瞳には。
何かを伝えようとするような、微かな意味が込められていた。
そして続ける。
「臣妾が思いますに。」
「暗闇で好き勝手に噂されるより、表で正式な形を決めてしまった方がよろしいかと。」
「貴妃娘娘はお身体が優れず、太子殿下が側でお世話をされている。」
「それは兄弟……いえ。」
彼女は一瞬言い直した。
「太子殿下の、年長者への孝心でございます。」
「宮中でこの形を定めれば、朝廷でも大きな騒ぎにはならないでしょう。」
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私は一瞬、言葉を失った。
この説明。
あまりにも完璧だった。
賢妃は告げ口をしに来たのではない。
太后と皇帝に。
私たちを守るための「逃げ道」を用意しに来たのだ。
孝という大義名分で、全ての噂を正当化する。
あまりにも賢い方法だった。
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賢妃が話し終える。
殿内は数息ほど静まり返った。
太后は彼女を見つめ、わずかに目を細める。
皇帝も賢妃へ視線を向けた。
その瞳には一瞬だけ驚きが浮かんだ。
だが。
すぐにいつもの冷静な表情へ戻る。
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そして。
私の隣にいる小満は。
この緊張感など一切理解していなかった。
下を向いて。
こっそり足の指で絨毯を弄っている。
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太后がふっと息を吐いた。
「何かと思えば。」
「貴妃の身体が悪く、太子が世話をしているだけでしょう。」
「それを朝廷の者たちが好き勝手に言うとは。」
太后は皇帝を見る。
「皇帝。」
「あなたも早く説明をすればよかったのです。」
「今になって、賢妃にこのような心配をさせるとは。」
皇帝は立ち上がり、賢妃へ軽く頷いた。
「賢妃、心遣いに感謝する。」
賢妃もすぐに立ち上がり、礼を返す。
「臣妾にはもったいないお言葉でございます。」
「ただ……太子殿下と貴妃娘娘は、陛下にとって大切なお方々。」
「臣妾は、お二人が噂によって傷つけられるのを見ていられませんでした。」
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彼女が。
「陛下にとって大切なお方々」
そう口にした瞬間。
賢妃の視線が小満へ一瞬だけ向いた。
そして。
ほんの僅かに瞬きをする。
私は見逃さなかった。
皇帝も。
見ていた。
ただ。
太后だけは気づいていなかった。
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寿康宮を出る時。
太后は小満を残し、少し話をすると言った。
皇帝と私は並んで長い宮廊を歩く。
両側の朱色の壁は、昼の日差しを受けて温かくなっていた。
私は声を落とす。
「賢妃……」
「分かっている。」
皇帝は歩みを変えず答えた。
「彼女は、私たちより先まで考えていた。」
「彼女は……何か気づいたのか?」
皇帝は数歩沈黙した。
そして言った。
「真相まで知る必要はない。」
「彼女が理解すれば十分なことは、一つだけだ。」
「何?」
皇帝の声は淡々としていた。
「もし太子と貴妃に何かあれば、私は壊れる。」
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私は足を止めそうになった。
皇帝は続ける。
「賢妃という人間は、争って寵愛を奪うことより、風向きを読むことに長けている。」
「彼女は流れを見た。」
「そして、私たち側に立つことを選んだ。」
「だから今日ここへ来た。」
「告発するためではない。」
「火種が大きくなる前に、消すためだ。」
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胸の奥が少し揺れた。
以前の私は。
後宮の妃たちが私と貴妃を応援するのは、ただ暇を持て余した遊びだと思っていた。
でも。
今なら分かる。
「推し」というものも。
時には政治的な選択になる。
彼女たちはもう選んでいる。
「太子と貴妃」という船に乗ったのだ。
そして賢妃は今日。
自分の名誉を賭けて。
私たちの代わりに一本の矢を受けた。
もし秘密が暴かれれば。
彼女も巻き込まれる。
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「どうして賢妃は、そこまでしてくれる?」
私が尋ねると。
皇帝は私を見る。
「彼女が賢いからだ。」
「もし私が倒れれば、次に処分されるのは後宮全員だ。」
「彼女が私たちを助けることは、彼女自身を守ることでもある。」
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私は黙った。
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宮廊の先へ進む。
突然、視界が開けた。
そこへ。
小満が後ろから走ってきた。
裸足で青い石畳を踏みながら。
腕には橘猫を抱えている。
猫の尻尾が左右に揺れていた。
「ママ!」
小満は顔を上げる。
「太后様がね、いっぱいお菓子をくれた!」
「明日も遊びに来てって言われた!」
その絶世の顔には。
お菓子の欠片が少しついている。
笑顔は、何も知らない子供そのものだった。
私は手を伸ばし。
口元の欠片を拭う。
そして突然思った。
この人を食らうような宮中にも。
思いがけない優しさは残っているのだと。
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皇帝は数歩先に立っていた。
陽光が彼の肩に落ちている。
彼は振り返り。
私たちを見る。
その視線は穏やかで。
温かかった。
何も言わない。
ただ。
私たちが追いつくのを待っている。
そして。
私たちは三人並んで。
東宮へ向かって歩き始めた。
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背後で。
寿康宮の朱い扉がゆっくり閉じる。
遠くから。
太后と嬤嬤の話し声が風に乗って聞こえた。
内容までは聞き取れない。
ただ。
一言だけ。
風が運んできた。
独り言のような。
ため息のような声。
「……まあいいでしょう。」
「子や孫には、それぞれの幸せがあるものですから。」
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私は足を止めなかった。
握った手の中には。
小さな、けれど大人の女性の手。
温かく。
しっかりと私の指を握り返している。
腕の中の橘猫は大きなあくびをして。
小さな牙を見せながら、気持ちよさそうに目を細めていた。
太陽の光はゆっくりと降り注ぎ。
宮道は、どこまでも長く続いていた。
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