第19話 蘇貴妃と皇帝、今夜の「交渉」
「それで、朕に会いに来たのか?」
小満は背筋をぴんと伸ばした。
「うん。話し合いに来たの」
皇帝が、初めて興味を示した。
「話し合い?」
「そう」
小満は指を一本立てた。
「一つ目。もう太子殿下を怖がらせないこと」
二本目の指を立てる。
「二つ目。毎日のように太子殿下を呼びつけないこと」
そして三本目。
「三つ目は……」
小満はそこで言葉に詰まった。
皇帝が静かに尋ねる。
「三つ目は?」
小満はしばらく考え込んだ。
「三つ目は……もっと太子殿下に優しくすること」
皇帝の眉がわずかに動く。
「朕が、太子に優しくないと?」
「だって、太子殿下を怖がらせてるじゃない」
「朕がいつ、太子を怖がらせた?」
小満はすぐさま訴え始めた。
「いつもじっと見つめてる」
皇帝:「……」
「それに、変なことばかり聞く」
皇帝:「……」
「急に頭を撫でたりもする」
皇帝:「……」
「それから!」
小満はますます勢いづいた。
「太子殿下を抱きしめたこともある!」
皇帝の指が、ぴたりと止まった。
空気まで、一瞬静まり返る。
「朕が……太子を抱きしめた?」
小満はこくこくとうなずいた。
「うん!」
皇帝は目の前の小満を見つめた。
なぜだろう。
その瞬間、脳裏にひとつの光景がよぎった。
自分の腕の中に抱いた少年。
抱きしめた瞬間、その身体が本能的に強張った。
けれど――
しばらくすると、まるで力が抜けるように、ゆっくりと身を委ねてきた。
皇帝は初めて、小満の顔をじっと見つめた。
小満も、その視線に気づいた。
思わず腕の中の猫をぎゅっと抱きしめる。
「……何で私を見るの?」
皇帝は答えなかった。
ただ、別のことを尋ねる。
「お前は、太子のことをずいぶん気にかけているようだな」
「もちろん」
「なぜだ?」
「それは……」
小満の言葉が止まった。
危うく、口を滑らせるところだった。
――だって、太子殿下は私のママだから。
けれど、寸前で母親の言葉を思い出す。
言ってはいけない。
絶対に。
この秘密は、誰にも知られてはいけない。
小満は慌てて言い直した。
「太子殿下は、私にすごく優しいから」
皇帝の瞳が、わずかに揺れる。
「太子が、お前に何をした?」
小満は首を傾げた。
「一緒に遊んでくれる」
「本を読んでくれる」
「私が病気になったら、ずっとそばにいてくれる」
「眠るときだって、それに……」
そこまで言って、小満は突然口を閉じた。
皇帝の眼差しが、少しずつ深くなる。
「それに……何だ?」
小満はぎゅっと口を閉じた。
しまった。
また言いそうになった。
「……何でもない」
皇帝は黙って小満を見つめる。
しばらくして。
ふいに、その手が伸びてきた。
小満の頭を、そっと撫でる。
その瞬間。
小満の身体が、ぴくりと強張った。
頭の上に触れた手のひら。
温かい。
そして――なぜか、ひどく懐かしい。
封じ込められていた記憶の奥底から、ひとつの光景が何の前触れもなく蘇った。
誰かも、こうして自分の頭を撫でてくれた。
眠る前には、物語を聞かせてくれた。
一緒に積み木で遊んでくれた。
大人になったら、いろんな場所へ連れて行ってやると約束してくれた。
小満は呆然と皇帝を見つめた。
皇帝もまた、小満を見ている。
二人の間に、言葉はなかった。
なぜだろう。
この瞬間。
小満はふと思った。
――この人を、知っている気がする。
どこかで。
ずっと昔から。
小満は、無意識に少しだけ身を乗り出した。
皇帝は避けなかった。
もう一歩。
さらに近づく。
近すぎて、皇帝の瞳に映る自分の姿まで見えそうだった。
皇帝は、じっと見つめてくる小満に、思わず苦笑する。
「どうした?」
小満は答えなかった。
ゆっくりと手を伸ばす。
小さな両手が、皇帝の頬をそっと包んだ。
皇帝の身体が、わずかに強張る。
けれど小満の瞳は、どんどん大きく見開かれていった。
その瞬間。
ひとつの呼び名が、喉元までせり上がる。
「パ……」
声が漏れた。
小満は、はっとして口を閉じた。
皇帝の目が、鋭く細められる。
「今、何と言った?」
小満の心臓が、どくんと跳ねた。
皇帝が見つめている。
小満も皇帝を見つめ返す。
時間が止まったようだった。
小満はごくりと唾を飲み込む。
そして、慌てて手を離した。
「パパ……」
皇帝の目の色が、一瞬で変わった。
小満の心臓がさらに跳ねる。
まずい。
慌てて声を張り上げた。
「パパが言ってたの!」
「そう! 私のパパが!」
皇帝:「……」
「何と言っていた?」
小満の頭が高速で回転する。
「えっと……」
「何て言ってたっけ……」
皇帝の目が細くなる。
「思い出せ」
小満:「……」
終わった。
完全に自分で自分を追い詰めてしまった。
そのとき。
外から、太后の声が響いた。
「皇帝!」
皇帝は答えなかった。
視線は依然として、小満から離れない。
「先ほど、朕を何と呼んだ?」
小満は橘猫をぎゅっと抱きしめた。
そして、必死に首を横に振る。
「何も呼んでない!」
「呼んだだろう」
「呼んでない!」
「朕は確かに聞いた」
「聞き間違いだよ!」
皇帝は小満を見つめた。
やがて。
ふっと笑う。
「そうか?」
小満は力いっぱい頷いた。
「うんうん!」
皇帝は、それ以上追及しなかった。
けれど、その瞳の奥に浮かんだものは――
先ほどまでとは、明らかに違っていた。
「まあいい」
皇帝は静かに言った。
「お前の願い、聞いてやろう」
小満は目を瞬かせる。
「何を?」
「もう太子を怖がらせない」
小満の目がぱっと輝いた。
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、毎日のように太子殿下を呼びつけるのもやめる?」
皇帝はしばし沈黙した。
「……努力しよう」
「それから!」
小満はすぐさま付け加えた。
「いきなり太子殿下を抱きしめるのも禁止!」
皇帝:「……」
それからしばらくして。
皇帝は長い廊下の端で足を止めていた。
その後ろを、福海が慎重に付き従っている。
「調べろ」
福海が目を瞬かせた。
「何をでございますか?」
皇帝は振り返らなかった。
ただ、瞳の奥だけが静かに深く沈んでいく。
「蘇貴妃を調べろ」
この「交渉」、蘇貴妃の勝ちだと思いますか?
それとも……皇帝は、もう何かに気づき始めているのでしょうか?
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皇帝は蘇貴妃の秘密に、いつ気づくと思いますか?




