第11話 太子が皇帝陛下の寝殿から出てきた瞬間、朝廷が大騒ぎになった
帝王の異変にいち早く気づいたのは、朝廷で長年揉まれてきた古参の臣下たちだった。
北疆から八百里の急報が届き、大勝利の知らせが都へ伝えられた日。兵部尚書は朝早くから礼服に着替え、意気揚々と朝廷へ向かった。
金鑾殿に立つなり、彼は熱弁を振るった。
北疆の将兵がいかに血を流して戦ったか。敵軍がいかに惨敗し、敗走したか。この一戦でどれほどの領土を奪還したか。そして、この勝利が大周の国運にどれほど大きな意味を持つのか。
実に半刻以上。
兵部尚書は語りに語った。
最後には喉が枯れ、もはや自分が知っている美辞麗句をすべて使い果たしたほどだった。
そして、ふと気づいた。
陛下が、まったく話を聞いていない。
正確に言えば、陛下は確かに玉座に座っている。
確かに兵部尚書のほうを見ている。
だが、その瞳はまるで彼の姿を通り越し、別の誰かを見つめているようだった。
兵部尚書は、皇帝の視線を追った。
そして、黙り込んだ。
太子殿下だった。
百官の先頭に立つ少年は、今日はよほど寝不足なのか、どこか気だるそうに立っていた。目尻にはまだ眠気が残っている。
その視線に気づいたのか、太子がわずかに顔を横へ向けた。
たったそれだけだった。
なのに。
玉座に座る帝王の視線まで、太子の動きに合わせるように動いた。
兵部尚書は無言になった。
……いや。
まさかな。
さすがに、そんなはずはない。
そう思った彼は、わざとらしく咳払いをした。
そして、先ほどよりもさらに声を張り上げる。
「陛下!」
「北疆、大勝利でございます!」
静まり返る朝廷。
ようやく皇帝が我に返った。
「……ああ。」
淡々とした返事。
「朕も聞いている。」
兵部尚書は、ほっと胸を撫で下ろした。
これでようやく話を聞いてもらえる。
そう思った。
だが、次の瞬間。
皇帝の視線は、再び太子へ戻った。
兵部尚書:「……」
その瞬間、彼の胸に、とてつもなく馬鹿げた疑問が浮かんだ。
まさか。
まさかとは思うが。
北疆から八百里の急報で届くほどの大勝利よりも、太子殿下が一度こちらを見ただけのほうが大事なのでは……?
しかも。
奇妙なことは、これが初めてではなかった。
太子が朝議に現れて挨拶をすれば、陛下は笑う。
太子が一言発言すれば、陛下はなぜか長いことその顔を見つめる。
太子がほんの少し咳をしただけで、陛下は手にしていた奏折を置き、すぐさま福海に太医を呼ばせる。
そして先日など。
太子が長時間立っていたというだけで、陛下は百官の前で椅子を用意させた。
大周が建国されて百余年。
太子が金鑾殿で座ったまま政務を聞くなど、誰が見たことがあるだろう。
ところが皇帝本人は、まるで何もおかしいとは思っていない。
それどころか、わざわざ自分で柔らかな座布団まで持ってこさせた。
「敷け。冷える。」
その瞬間。
朝廷全体が、針一本落ちても聞こえそうなほど静まり返った。
俺はというと、ただ困惑していた。
「父上。俺、そんなにヤワじゃないんだけど。」
皇帝は俺を一瞥した。
「朕が敷けと言った。」
「……」
はい。
あなたは皇帝です。
あなたがそう言うなら、従います。
俺は仕方なく座布団を抱え、その場に腰を下ろした。
そのときの俺は、まったく気づいていなかった。
玉座の上の男が、俺がきちんと座ったのを確認してから、ようやく表情を緩めたことも。
その眼差しが、帝王とは思えないほど優しかったことも。
まるで。
長い間、失っていた大切な人を、ようやく取り戻したかのように。
一瞬でも目を離せば、また俺が消えてしまうのではないか。
そんな不安を抱えている人間の目だったことも。
もちろん、俺はそんなことなど知る由もなかった。
そして数日後。
朝廷の臣下たちが完全に崩壊する出来事が起きた。
その日、十数名の重臣たちが御書房に集められ、河川工事についての協議が行われていた。
空気は重い。
戸部は予算を計算し、工部は工事計画を立て、兵部は必要な人員を算出する。
礼部に至っては、なぜか祭祀まで持ち出してきた。
誰もが自分の主張を譲らず、室内は激しい議論で騒然としていた。
そのときだった。
御書房の奥から、足音が聞こえた。
軽い。
ゆっくりとした足音。
十数名の重臣たちは、ほぼ同時に口を閉じた。
そして。
屏風の向こうから、一人の少年が姿を現した。
ゆったりとした黒い外袍。
明らかに少年の体格には大きすぎる。
髪は緩く束ねられ、寝起きのせいか少し乱れている。
そして何より。
見るからに、たった今まで眠っていた顔をしていた。
重臣たち:「……」
空気が凍った。
俺はそんなことには一切気づかず、目をこすりながら歩いていく。
「父上。」
十数人の重臣たちの表情が、一斉に固まった。
「父上」と呼ぶこと自体は問題ない。
問題は。
なぜ太子殿下が、陛下の寝殿のほうから出てきたのか。
しかも。
なぜ陛下の外袍を着ているのか。
俺は、周囲の異様な空気など気にも留めていなかった。
ただ、ひたすら眠かった。
昨夜はシステムに振り回されて、ほとんど眠れていない。
そのうえ朝から皇帝に呼び出され、
「朕と一緒に奏折を見ろ」
などと言われた。
仕方なく隣に座っていたら、いつの間にか眠ってしまったのだ。
俺は確か、眠りに落ちる直前までこう考えていた。
……最近、皇帝って暇なのか?
なんでこんなに頻繁に俺を呼ぶんだ?
俺は大きくあくびをした。
「父上。まだ終わってないの?」
その瞬間。
御書房にいた重臣たちの顔が、一斉に引きつった。
しかし、龍案の向こうにいる皇帝だけは、何もおかしいとは思っていないらしい。
皇帝が最初に見たのは、奏折ではなかった。
俺だった。
頭の先から足元まで、ゆっくりと視線を走らせる。
衣服に乱れはないか。
どこか痛そうにしていないか。
ちゃんと眠れたのか。
眉間に皺は寄っていないか。
まるで一つ一つ確かめるように俺を見つめる。
そして。
俺が本当に無事だと確認してから、ようやくその表情を緩めた。
「起きたか?」
低く落ち着いた声。
なのに。
その声音は、帝王が臣下に向けるものとは思えないほど柔らかかった。
俺は素直に頷いた。
「うん。」
皇帝は龍案の隅を指差した。
「そこに菓子がある。」
そして、ごく自然に続ける。
「腹が減っているだろう。先に少し食べろ。」
俺は指差されたほうを見る。
そこには。
俺が大好きな菓子が、きれいに並べられていた。
俺の目が輝く。
「俺のため?」
皇帝は俺を見る。
「他に誰がいる?」
「……」
確かに。
俺はすぐに駆け寄り、一つ摘まんで口に入れた。
甘さがちょうどいい。
思わず目を細める。
「父上、ありがとう。」
皇帝は何も言わず、ただ俺の顔を見つめていた。
しばらくして。
「……ああ。」
小さく、低い声が返ってくる。
その瞬間。
御書房にいた十数名の重臣たちの心が、完全に折れた。
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