第10話 皇帝陛下、太子を鍛えるはずが抱きしめて離しません
「何をつかまるんだ?」
「……あんたを、ですか?」
そう言い返す暇もなかった。
次の瞬間、馬が突然駆け出した。
「うわああああああっ――!」
猛烈な風が、耳元を一気に吹き抜けていく。
怖すぎて、魂まで飛び出しそうだった。
頭の中が真っ白になる。
考えるより先に、私は反射的に皇帝の腕をぎゅっとつかんだ。
そして、これでもかというほど後ろへ身を縮める。
気づけば私は、ほとんど完全に皇帝の胸の中に収まっていた。
「ちょ、ちょっと! もっとゆっくり!」
「父上!」
「ゆっくりってば!」
皇帝は何も答えない。
ただ、背後からかすかな笑い声が聞こえた。
私は固まった。
……今、笑った?
こっちは死ぬほど怖がっているのに、この皇帝、笑ってる?
振り返って文句を言おうとした、そのとき。
低く落ち着いた声が耳元に響いた。
「なるほど。お前も人に頼むことがあるのだな」
「……」
私は歯を食いしばった。
「別に頼んでません!」
「では、何をしている?」
「それは……」
言葉に詰まる。
皇帝の声には、明らかに笑いが混じっていた。
「太子殿下は、何も怖くないのではなかったか?」
「誰がそんなこと言ったんですか?」
「朕だ」
「……」
なるほど。
今日の皇帝は、どうやら何か変なものでも食べたらしい。
私は必死に言い返そうとした。
その瞬間。
馬がさらに速度を上げた。
「ひっ……!」
私は反射的に目を閉じた。
腕に力を込め、皇帝の身体にしがみつく。
そして、そのまま完全に彼の胸元へ逃げ込んだ。
すると。
背後の皇帝が、一瞬だけ静かになった。
次の瞬間。
手綱を握っていた手の動きが、わずかに緩む。
馬の速度も、ゆっくりと落ちていった。
私はようやく、ほっと息を吐いた。
……もちろん、私は気づいていなかった。
皇帝が、腕の中にいる私を見下ろしていたことに。
その瞳に、隠しきれないほど深い笑みが浮かんでいたことに。
どうやら皇帝は。
私がこうして自分を頼ってくる姿を、ひどく気に入っているらしい。
ほんの一瞬だけ。
彼はすべてを忘れそうになった。
ここが大周であることも。
自分が皇帝であることも。
ただ、腕の中にいるこの人を見ていた。
昔と、何も変わっていない。
臆病で。
痛いのが嫌いで。
素直じゃなくて。
それなのに、怖くなると決まって自分の胸に飛び込んでくる。
あの頃と同じ。
何ひとつ変わっていない。
――もちろん。
そんな皇帝の心の内など、私が知るはずもない。
私が知っているのは、ようやく狩場へ戻ったときには、両脚が自分のものとは思えないほど震えていたことだけだ。
馬から降りた瞬間。
私はその場に膝をつきそうになった。
「危ない!」
皇帝が素早く私の腰を支えた。
「……」
私は慌てて姿勢を正す。
「へ、陛下。私は大丈夫です」
けれど、皇帝はすぐには手を離さなかった。
大きな手のひらが、私の腰に触れたまま。
その視線が、ゆっくりと私の顔をなぞっていく。
私はだんだん落ち着かなくなった。
「父上……?」
その声で、皇帝はようやく我に返ったようだった。
ゆっくりと手を離す。
そして――
笑った。
しかも。
ものすごく綺麗に。
私は思わず呆気に取られた。
なぜだろう。
胸の奥に、嫌な予感が込み上げてくる。
そして。
その予感は、見事に的中した。
皇帝は何でもないことのように言った。
「次も来よう」
「……」
私はその場で土下座したくなった。
「……また来るんですか?」
「うむ」
「……」
終わった。
私の人生、終わった。
これは騎射の訓練なんかじゃない。
殺人だ。
しかも、じわじわと追い詰めてくるタイプの。
私はその場で固く決意した。
次に呼ばれても絶対に行かない。
たとえシステムの任務に失敗したとしても。
絶対に。
――そう思っていた。
まさか。
東宮へ戻った私を待ち受けていたのが、別の意味での地獄だとは知らずに。
私は何とか今日の出来事を頭から追い出そうとしていた。
そのとき。
屏風の向こうから、小満がひょこっと顔を出した。
「ママ」
「……何?」
小満は、じーっと私の顔を見つめた。
そして。
突然、聞いてきた。
「皇帝に抱っこされた?」
「……」
私は自分の唾でむせかけた。
「な、何を言ってるの!?」
小満は首を傾げる。
「だって、匂いがするもん」
「……え?」
「ママから、皇帝の匂いがする」
その瞬間。
私の身体が、ぴたりと固まった。
なぜだろう。
その言葉を聞いた途端、頭の中に狩場での光景が鮮明によみがえった。
背中に感じた、あの人の胸板。
身体の両脇から伸びてきた腕。
耳元に触れた低い吐息。
そして――
『なるほど。お前も人に頼むことがあるのだな』
「……」
いや。
そんなわけない。
絶対に、私の考えすぎだ。
皇帝が私に優しいのは、親子の情があるからだ。
何しろ私は、あの人の太子なのだから。
息子を心配する。
それは普通のことだ。
ものすごく普通。
最近、やたらと私を呼び出すのだって。
きっと、私が優秀な太子だからだ。
うん。
絶対にそう。
私は必死に自分へ言い聞かせた。
けれど。
その頃の私は、まったく気づいていなかった。
東宮の外。
皇帝が御書房へ戻ったあと。
彼が最初にしたことは、政務を処理することではなかった。
「福海」
「はい、陛下」
「今日、狩場で太子が乗った馬を替えろ」
福海は目を瞬いた。
「替える……のでございますか?」
「もっと大人しい馬に」
「……」
福海は一瞬、意味が分からなかった。
「陛下。では、明日も太子殿下に騎射の稽古を?」
皇帝は答えなかった。
ただ、先ほどの光景を思い出していた。
怖がった瞬間。
無意識に自分の腕をつかんできた人。
そのまま、自分の胸へ逃げ込んできた人。
皇帝の唇が、ゆっくりと弧を描く。
「急ぐ必要はない」
「ゆっくりでいい」
「……」
福海は沈黙した。
なぜだろう。
その瞬間、彼はふと思った。
今回、陛下が太子殿下を狩場へ呼んだ理由は――
もしかすると。
最初から、騎射の稽古などではなかったのではないか。
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