サナトリウムの少年
昭和10年、1935年4月初日、碧生蒼太郎は徳永医師が院長を務めるサナトリウムに入った。
院長の客人だったので無料に近い破格の待遇であった。
徳永氏は金は受け取れないと言ったが、碧生は強引に、赤十字にでも寄付してほしい、食事代だけでもと渡した。
彼は貯金等全く興味がなかったので、原稿料は全て徳永に渡すつもりだった。
もっとも徳永氏の方に受け取るつもりはなく、全てまとめてさやに渡していた。
彼女はそれを、元々の碧生蒼太郎名義の貯金口座に全額そっくり貯金していたが、碧生は全く知らなかった。
徳永の療養所はイギリス人の邸宅を改造したもので、蔓バラが伝うエントランスから、ジキタリスやヘリオトロープその他外国の見慣れない薬草が茂る前庭を抜け、重厚な赤レンガの建物に至る。
石段の脇に車いす用のスロープまで設置した玄関は軽い威圧感を与えたが、一歩重い扉を開けて中に入ると、英国の木々や花が生い茂る中庭をぐるりと回廊が囲み、日当たりのよい休憩用のデッキチェアや簡易ベッドが置かれている。
食堂も中庭に面し緑を眺めながら食事をとる事ができた。
徳永氏の美意識を反映した、個人経営ならではの質の良い看護体制が見て取れた。
日当たりのよい丘の途中の斜面にこんな療養所がある等、碧生蒼太郎は知らなかった。
彼は院長の徳永氏から歓迎を受けた。
日当たりのよい小さな一部屋が与えられ、図書館や音楽室、娯楽室も自由に出入りできた。
暖かい季節になってきた事も幸いし、碧生蒼太郎は微熱や咳も落ち着き小康状態を得た。
落ちついたところで他の患者達を見てみると、彼の他は皆上流階級と思しき、優雅な身のこなしと囁くような上品の小声の会話を絶やさない人達ばかりであった。
彼は疎外感を感じるよりも、自分の今まで接した事のない人達に興味を覚えた。
他の患者も院長の客人扱いの若い文士を歓迎した。
時間が有り余っている彼らはありとあらゆる文芸誌を読み、投稿もしている愛好家が多かったのだ。
その中で、異質なまでに若い少年の姿があった。
旧制中学の生徒であろうか。長期入院している、新聞記者の子息だ、と紹介された。
不用意に触ると折れてしまいそうな薄い体に、いつも分厚いガウンと毛糸の靴下を履いている少年は、ヨハネと名乗った。
彼は生まれつき体が弱く、子供の頃から入退院を繰り返し、近所の子供とはほとんど遊んだ事がなく、常に大人とばかり接してきた。
そのためか脆い体に過敏な感受性を秘めた少年だった。
「でもあまり寂しくはありません。こうした状態が当たり前という環境で育ったもので」
食堂で新入りの碧生に人懐こく話しかけながら、ヨハネ少年はその大きな目を輝かせた。
自分の知らない外の世界を豊富に知っている、大人の碧生蒼太郎に近寄ってきて、話を聞きたがった。
「僕には姉がいていつも頻繁に会いに来てくれるんです。とても綺麗で優しい人なんですよ。近くの女子大で勉強をして学者になるんだと言っています」
「それはすごいね。頭のいい人なんだね」
「色んな本をたくさん読んだり会合に参加したり、外国に手紙を書いたり。強いと思われがちですけど、本当はとても傷つきやすい心の細やかな人なんです。僕には分かります」
「そうか、君のお姉さんはとても美しい心の人なんだね」
「はい。僕の憧れです。こんな弱い男だから姉を護ってあげられないけど。いつもハラハラして見ています。女だというだけで攻撃してくる男達と戦う、なんて言っているから……」
蒼太郎は誰かさんも同じような事を言っていたな、と思い出した。
「毎日のように学校の帰りに寄ってくれるんですが、今日はまだ。忙しいのかもしれません」
間宮ヨハネというその少年は残念そうな顔をした。
「姉が来たら碧生さんにご紹介したいと思っているんです。姉も文学が大好きなので絶対にお二人話が合うはずです」
「そうか。いつかご挨拶したいな。楽しみだね」
春の日差しが徐々に暖かく初夏が近づく。
緑豊かになるにつれ、療養所の庭園も西洋から取り寄せたバラが咲き誇っていた。
小石川のさやの小さな家では、冬は福寿草や南天、春はマンサクやボケやシャクナゲ、夏はリンドウや桔梗、秋のナデシコと華やかさとはおよそ関係のない花が植えられていた。
だがこの療養所の中庭庭園は、日本とは思えないほど清々しく肉感的なバラの芳香に満ち溢れ、レンガ造りの重厚な建物のそこかしこに西洋の花が咲き乱れていた。
それは非常に情熱的で生きるエネルギーに満ち、蒼太郎の心に迫ってきた。
空と風に慎ましく同化してそよぐ植物ではなく、拮抗し空の力を受け止め、風と戦っていく力のある花たち。
中庭のベンチに腰を掛けノートと鉛筆を膝に、彼は詩想を巡らせていた。
ふと目を上げると、バラの茂みに真赤な中輪の花が房になって咲き盛っている。
白い小さな蝶と蜂がせわしなく花に停まり、また女性のドレスの中に潜るように入り込み蜜を吸っている。
蒼太郎は夏に向かう小さな生物達の生きる戦いに思いを馳せ、夢中で紙に鉛筆を走らせた。
サワサワ……と風に揺れるバラの茂みが、風がやんでもまだ動いている。
誰か来たのかなと目を上げると、茂みの中から長い髪を波打たせた若い女が現れた。
真っ白い顔にバラの花の赤やピンク色が映え、物思いに憂うような大きな澄んだ目に高い細い鼻梁。
海に沈む夕日のような珊瑚色の脣。
真珠の輝きを放つ肌は胸元や二の腕までむき出しで、風にそよぐ薄物の象牙色のドレスをまとっていた。
若草色の光沢を放つストールは申し訳程度に美しい腕や胸元を覆い、細身の絹のドレスの裾に絡み合い、スッスッとためらいなく歩みを進める銀色の靴の先に垂れている。
女は蒼太郎に全く気付いていないのか、こちらに目も向けず風に翻る羽根のように軽やかに歩を進め、また別のバラの茂みの中へと消えていった。
「どうかしましたか?心が飛んでいますよ」
話しかける軽妙な声に蒼太郎は我に返った。
黒い詰襟、ローマンカラーの司祭服に身を包んだ小柄な神父が、にこやかにこちらを見て微笑んでいる。
近くのカトリック教会から患者の話し相手に来ている湯浅という神父だ。
人の心の奥までスッと入り込む柔和な瞳で、じっと蒼太郎を見つめている。
「ああ湯浅神父、今そこに花の妖精のような女性が歩いていたんです。まだ夏でもないのに薄物の西洋女性の格好をして、長い髪で……」
「美しい人だったんですね?」
「はい。とても。若い女性でした」
「それは大変よろしい。春の満開のバラのなせる業かもしれませんよ。貴方も植物の生命力が多少移ってきたかな」
「何の事ですか? 」
おかしな事を言う神父だ、と蒼太郎は内心首をかしげた。
神父は時々柔和な外見からはかけ離れた、人を食ったような言葉を吐く。
「貴方の顔色ですよ。先日までは地中で何年も暮らしてきたような青白さだったのに、今は頬にほんのりと血の気が戻って赤みが差しています」
「え?」
「きっとその女性がかけていった魔法でしょう。おっと。聖書的には正しくない言い方ですが」
にこやかに笑いながら湯浅神父は会釈をして去って行った。
碧生蒼太郎はある程度書き溜めた原稿用紙を置きに部屋に戻り、未清書の他の原稿と共に紙留めで止めた。
今日は良い言葉が紡ぎだせそうだ。碧生は先程とは別の日の当たるベンチを探した。春の午後の陽は傾きかけている。
「片桐さん、私はもうとても寒いのですけど、まだこのコスチュームをしていなければならないの?」
「もう少しですリカさん。傾きかけた日の光の中の、春の精のビジョンです。もう何枚か写真を撮りたい」
「そう言われても私は冷えてきましたわ。熱い物でも飲みたい気分です」
「そうですね。妖精が風邪を引いてはいけない。私の上着を羽織っておいでなさい。台所から温かいお茶でももらってきましょう」
バラの茂みを抜けて、カメラを首からかけた長身の男が建物の中に入って行った。
蒼太郎が男の来た方を見ると、若い女が日の当たるベンチに座っていた。
長い髪を肩の下まで垂らし、じっと陽の光を受けて目を閉じている。
薄いドレスをまとった肩から男物の上着を羽織り、やはり薄い裾からむき出しの白い膝下には毛布がかけられている。
間違いなく先程薔薇の茂みからそぞろ歩いて通り過ぎた女だった。
新しい患者だろうか。だがそれにしては薄着すぎる。
蒼太郎はじっと彼女を見つめていた。
柔らかい春の日差しに頬の産毛をキラキラと輝かせて目を閉じている女は、うたた寝をしている迷子のようでとても美しいと思った。
見ているとそろそろと手を動かし、胸元から小さな煙草入れを取り出しくわえ、しゅっと手慣れた手つきで火をつけた。
白い煙をゆったりと吐き、目を閉じたまま深く呼吸している。
蒼太郎は軽く衝撃を受けた。
この春の精のような若い娘は病院の中なのに煙草を吸っている。
しかも肺を患う病人のための療養所なのに。思わず席を立って娘に近づいた。
「君、その煙草の火を消しなさい。ここは肺を病んでいる人のための病院です。煙草の煙も病を悪くするんだ。消しなさい」
「あなたは何? お医者さん? 」
女は美しい目を開けて蒼太郎を一瞥すると、気怠く口を開いた。
「僕は患者ですよ。ともかくすぐに火を消して、煙草を捨てなさい」
「これは煙草じゃないわよ、薄荷の葉です。かえって喉の薬なのよ」
娘はふてぶてしく呟くと深く息を吸って煙を吐き出した。
言われれば薄荷油のスーッとする匂いが漂っている。
「江戸時代の漢方書の和漢三才図会に既に書かれている、歴史ある喉の薬なんです。覚えておかれるといいわよ」
そこへ、先ほど建物の中に入った首からカメラを提げた長身の紳士が戻ってきた。
「おや、春のニンフが東洋の紳士と既に面会ですか。美しい光景ですが薄荷煙草は美的ではない。お消しなさい」
「はい片桐さん、あなたもこの堅物さんと同じ事を言うのね」
片桐と呼ばれた長身の優男は湯飲みに入れた熱い茶を女に渡し、憮然と立ち尽くす碧生に軽く挨拶をした。
「日が落ちてしまう前にもう少し撮ろうと思ったが、ちょっと無理なようですね。この若い方に説明をした方がいいのでしょうね。誤解のないように」
「別に誤解だろうが何だろうが私は構わないわ。受け取る人の勝手と言うものよ」
片桐と呼ばれた男は、意地になって薄荷をくゆらす女を困ったような目で見ながら、碧生に説明を始めた。
自分は絵師で、風俗画や雑誌の挿絵、便箋や帳面の表紙を書いて生計を立てている事。
この女性は子供のころから知っている作家のお嬢さんで、時々油絵や写真のモデルになってもらっている事。
ここの院長徳永氏とも知り合いなので、たまに写真撮影の場所を貸してもらっている事。
彼女の弟がこの病院に入院している事。
「ああお姉さん、いらしていたんですか。今日はまた素晴らしく美しい装いですね」
「ヨハネも元気そうじゃない。写真撮影の休憩をしていたんだけどね、ここにいらっしゃる朴念仁さんが気分を見事に壊してくれたわ」
「朴念仁……」
何故喫煙を注意しただけの俺がそこまで言われなくてはならない。
自分が今まで知る女とは全然違う、繊細な外見とはかけ離れた逞しいこの娘に蒼太郎はむっとした。
「リカ姉さん、碧生さんをそんな風に言うのはやめてください。僕、お二人をきちんと紹介して引き合わせようと思っていたのに……」
ヨハネ少年は泣きそうに二人をかわるがわる見た。
彼の言う「気が強く見えるけど本当は優しい姉」とはこの目の前の娘の事なのか。
残念ながら碧生にはそうは見えなかったし、見方を変えようとも思わなかった。
片桐と名乗る優男が、終始面白そうににやにやしてこちらを眺めていたのが気に障った事もあった。
ただ彼女の自分を睨み返す強い目線には、反発を感じながらも美しいと思う瞬間はあった。
やがて間宮リカという名の娘は憮然としたまま帰って行った。
春の大風が咲き誇っていたバラの花びらを散らしていったのは、それから間もなくだった。




