緑の袖の女・1
バラを散らす大風が吹いた翌日の事である。
碧生蒼太郎はサナトリウムの廊下で間宮ヨハネ少年と出くわした。
そう広くない建物内、生活時間帯も似ているので患者同士よく顔を合わせる。
初夏なのにネルの寝巻を寒そうに羽織った少年は、薬草茶の湯飲みを手にし、明らかに蒼太郎を待っていた様子だ。
繊細な青白い顔を困ったように俯けている。
「碧生さんごめんなさい。先日は姉が無礼な物言いで失礼しました」
蒼太郎はたちまち不愉快だった時間を思い出したが、少年の姉リカが美しかった事には変わりない。
「君が謝るような事ではないよ。自分も大人げなかったし」
「でも」
「お姉さんが言っていた薄荷煙草の事だって僕は知らなかったから、一つ物知りになれた。言葉の毒はどうあれね」
最後は蛇足だ。だが言わずにいられなかった自分の弱さを蒼太郎は疎んじた。
「ごめんなさい……」
「すまん。こういうのが僕の器の小さなところだ。お姉さんに会ったら僕がありがとうと言っていたと伝えてください」
「姉ともう一度会ってみる気はありませんか?」
「当分いい」
その夕、いつものように学校帰りに見舞った姉、間宮リカにヨハネは噛みついた。
「姉さんは何であんな態度をとるの。あれじゃ普通男は怒るよ。碧生さんは優しい良い人だからちゃんとご紹介したかったのに」
若草色のセーターに千鳥格子のスカートと言う春らしい装いの間宮リカは、整った眉をひそませた。
「あれが悲運の元航空学生作家、碧生蒼太郎氏だったの……」
「そうだよ、僕はちゃんと言ったじゃないか。碧生さんって」
弟に悪い事をしたかなとリカは思った。
あの日彼女は文学同好者の会合で他校の教授とやりあった。
女性が平等を求める声を支持し、法律をも考え直すべきと主張する彼女を、その大学教授は鼻で笑ったのだ。
「だいいち君、今時フェミニズムとか『青鞜』とか全く流行りませんよ。遅れてきたハイカラさん」
そう言い放たれたリカは心ここにあらずのままにサナトリウムに移動し、着替え、絵師片桐のモデルになった。
その鬱憤をたまたま鋭い言葉で注意してきた若い男にぶつけてしまった。それが顛末だった。
確かに困惑した弟の言葉に「碧生さん」という相手の名前はあったはずなのに。
改めて思い出して動揺した。自分が愛読し出版社にファンレターを送っていたその人だったのだ。
だが彼女はその思いを押し殺して、弟の顔を一瞥した。
「なあんだ。思ったよりも世間並みの殿方だったのね。碧生蒼太郎先生も」
翌月の「暁星」誌には、久々に碧生蒼太郎の文章が載った。
『足下の蝶』
詩や随筆が多い蒼太郎にしては珍しく、今度は大人向けの寓話短編小説である。
ある男が公園の花壇の傍、ベンチで眠る美しい女を見る。
女の手元、ベンチの手すりには美しい蝶が羽を休めているようだ。
ふと男は子供のころを思い出す。
幼馴染の不思議な男の子。不思議な言葉を喋りながら、無邪気な、しかし心に重く残る子供だった。
ある夏の日、大きな地震があった。
男が見上げる傍から男の子が上っていた鐘突き堂が崩れ、空を舞うように落ちていった。
男の子は綺麗なあどけない笑顔のまま死んでしまった。
遠くから女を呼ぶ声がし、「男」が見ている間に、美しい女は目を覚ました。
自分をじっと見つめる男の視線を無礼と罵りながら、迎えに来た小洒落た男にしなだれかかって行ってしまう。
力尽きたように女の手元から落ちた蝶を踏みにじりながら。
『足下の蝶』を読みながらリカは怒りを禁じえなかったが、同時に心寂しくもなった。
新聞記者を目指す女学生の彼女は、碧生の文章が好きだった。
彼女は19歳。弟の入所するサナトリウムから遠くない、目白の女学校に通う学生である。
少女の頃から女性の自立、女性も男性も一個の独立した人格として扱われるべきと主張してきた彼女は、ペンの力で世論と戦うという意志を固めていた。
ただその意志を曲げない頑固な性格や率直すぎる物言いもあり、思いが前のめり過ぎるあまり理解されず、周囲から叩かれる事もしばしばだった。
おまけに彼女の唱える女性の権利、フェミニズムという概念も当時既に古臭いものになりつあった。
金融恐慌や陸軍・海軍の拡張競争。時代は急速にきな臭くなっていたのだ。
聡明な彼女もそれは分かっていた。だからこそもがいていた。
数日後、またもや碧生蒼太郎と間宮リカは顔を合わせた。しかも最悪の形で。
その日体調の良かった彼は久々に小石川の家に向かった。
ただ一人妾宅を守っている父の愛人さやに元気な顔を見せたかったし、新作の資料となる本を読みたかったのだ。
冬まで暮らしていた小さな家と面倒を見てくれた父の愛人、そしてきちんと整理されそのままにしてある自分の部屋は心地よかった。
この家を出る時玄関先には水仙の花が咲いていた。
季節が代わり、今は芝生代わりに植えたスズランが可憐な白い花房をつけ、清々しい香りを漂わせている。
その俯いた佇まいは珍しく洋装のさやに似合った。
「また来るよ」
「はいいつでも」
「ここはいつも気持ちの良い所だね」
サナトリウムに戻り自室への回廊を歩いていると、使用していないはずの茶室から話し声がした。
不審に思いノックしてみると爽やかな声で返事があり、出て来たのは間宮リカと先日のカメラの男、片桐と呼ばれた人物だった。
驚いた蒼太郎は思わず後ずさった。
若い女が男と二人きりで密室に居てしかも見られても全く悪びれない。普通に人前に出ている。
ヨハネ少年の言う通り実は心優しい姉だとしても、彼には信じがたい状況だった。
「こんにちは。ヨハネ君のお姉さん」
「こんにちは。碧生蒼太郎先生」
2人の声は固く挨拶を交わすもぎこちない。
片桐さんと呼ばれた男はにやりと笑って、フィルムの缶を手に行ってしまった。
「先生、ですか?」
「はい。文士の碧生先生。今月の『暁星』の御作も拝読致しました」
「何かちょっと照れますね。今まで読者の方と面と向かってお話しした事はなかったので」
お茶でも飲みますか? と碧生はリカをティールームに誘った。
このサナトリウムには英国趣味の徳永医師の意向で立派なティールームがあり、本格的なお茶が飲める。
ただし碧生が頼むのはいつもグリーンティー、緑茶だった。
「今回のお作も素敵でした。特に蝶と少年の印象の重なり合いが」
「ありがとう」
「あの男の子には特別な思い出がおありなんですね」
「ええ。僕の子供の頃の友人でね。実際に震災であの通りに亡くなったんです」
「やっぱり。書き方にいつもの透明感がなくて、自分に引き寄せて書かれていましたわ。今までのような透徹したものが乏しいというか」
「さすがに厳しいですね。自分でも気にかかっていた所です」
熱心な口ぶりと美しい真摯なまなざしに、碧生は目の前の鼻持ちならない若い女性が自分の熱心な読者『間宮リカ』その人である事を思い出した。
と同時に何ともやりきれない気分になった。
文章に鋭く切り込み、まっすぐな感受性で分析してみせるこの聡明な女性は、男と二人きりで部屋に籠りそれを他人に見られても平気な感性の持ち主なのだ。
「話変わって恐縮ですが、先程の男性は先日もご一緒でしたね」
「ああ片桐さんの事ですね。きちんと紹介しようと思ったのですがもう行ってしまいました。気ままな人だから」
リカはきりりとひかれた太めの眉を開いて笑った。
そうすると19歳と言う年齢相応の、実に屈託のない表情になる。
その顔は一瞬で碧生を魅了した。
「あの方は絵師なのです。亡くなった父の古い友人で私のごく幼い頃からのお友達。父亡き後の私達姉弟の後見人みたいな役割もしてくれます。母がからきし生活能力のない人だから」
「先日は写真も撮っていましたね」
「ええ。写真に西洋の音楽、何でも造詣が深いのよ。若い頃西洋に勉強に行っていたらしくて。挿絵とか便箋、封筒の絵柄を書いて生活しているけど時々油絵を描くの。私は幼い頃から彼のモデルをしていて、もう歳の離れた兄のような感覚ですわ」
「だから彼の前ではどんな風にでも振る舞える……」
「そう。彼は大人の男だけど、私を性別の前に一人の人間として見てくれるわ。子供の頃からそうだった」
涼やかな目元を細めて思い出す彼女に碧生は些かの苛立ちを憶えた。
「貴女は片桐さんの事を好きなのですか?」
「え?」
「あなたの今の表情を見ていると、そう思う」
「まさか」
間宮リカは自分を真っ直ぐに見据える碧生の目を見返し、はぐらかすようにクスリと笑った。
「私が好きになった男性も私を好いてくれた男性も何人かいたけど、彼は違いますわ。子供の時にふられたの」
目を逸らしいかにも可笑しそうに笑う、その美しい横顔を見ながら、碧生は混乱してた。
「海軍出身のお堅い方には分かって頂けないかもしれないけれど」
「ええ。分かりにくいです。確かに」
「分からない、とは仰らなかったですね」
リカはぴたりと笑うのをやめ碧生蒼太郎を見返した。
その強い瞳の力に碧生ははっとさせられた。
だが彼は混乱していた。
言葉や態度の端々に彼女が真っ直ぐ過ぎる感性を持った女性だというのは感じ取れる。
弟のヨハネ少年の病的なまでに鋭い感受性と瓜二つだ。
だが女性と男性の性差を否定し碧生の保守的な軍人思考に反発し、まず強気な口をきいて一本太刀を浴びせてから会話に入ろうという彼女は、彼にとって理解しがたい存在でしかなかった。
それでも碧生は残念だと感じていた。
否定しても否定できないところで彼女に惹かれていたのだ。
「あなたはイングランドの古謡に出てくる女性のようですね」
「イングランドですか。片桐さんのアトリエの本で読んだことがあるわ。女王の国で、高い塔のお城や七つの海を制圧した艦隊、騎士道が盛んだった国ですね」
「そう。我が国の航空学は彼の国から多大な影響を受けています。航空学生にとって英語は必須ですし」
「それで、その女性はどんな人なのですか?」
「レデイ・グリーンスリーブス。『緑の袖の女性』というのです」
「素敵な響きですね。どんな歌?」
碧生はつと立って、食堂に置いてある古いピアノの蓋を開けた。
ピアノが本格的に弾けるわけではなかったが、旋律を思い出しつつ指一本でたどる事はできる。
そしてぽつぽつと歌い出した。もちろん英語だ。
人前で歌を歌うなど軍歌以外に経験はなかったが、何故かこの時はそんな気になったのだ。
「美しい歌ですね」
碧生の長い指がたどたどしく鍵盤をなぞる、その朴訥な音が耳に心地よくリカは思わず微笑んだ。
「ですが、この女性には諸説ありまして。緑は愛の色で、対象は宮廷の高い身分の女性、その彼女との忍ぶ恋を歌った歌、二つ目はイングランドの地方での、緑は死者の色という伝承を受けて死んだ恋人を思う男が歌った歌。そしてもう一つ。これが一番信憑性があるのですが」
テーブルに戻った彼を可愛らしい顔で見つめる見詰める間宮リカの瞳は、これから彼が言おうとする事を予測するように曇った。
にもかかわらず、こうしてみると清純な天使のように見える。
だが碧生は言い出した勢いと、さっき強気に挑みかかってきたこの女性への反発もあって止められない。
「緑は娼婦の色です。古くから娼婦である印として、袖に緑の布を縫いつけていたのです。それに」
間宮リカは既に怒りの浮かんだ顔を向けて、言葉の先を促した。
「そういう女性は郊外の野原で商売に及ぶ事が多かったから、草の汁でドレスが緑に染まって汚れた女性、という意味もあります。手練れな娼婦へのかなわぬ想いでしょうか」
彼女はまだ飲みかけの茶の入った湯飲みを手に、血相変えて立ち上がった。
茶をぶっかけられるかと咄嗟に身構えた碧生はそれも仕方がないと観念した。
だが覚悟した次の一撃は来ない。
間宮リカは静かに立ったまま手にした湯のみを見詰め、泣き出しそうに顔をゆがめたまま自分自身に浴びせかけた。
熱い茶が彼女の肩から胸元、腕や背中を濡らす。碧生は面食らい立ちあがった。彼女の白いセーターはみるみる緑色に染まっていった。
「こんな感じなのでしょう? 貴方に見えている私の姿は。汚れた生意気な女。分かっています!」
みるみる瞼の淵に盛り上がった涙をこぼすまいと顔をそむけ、間宮リカは椅子を蹴って出て行った。
残された碧生は自己嫌悪に俯きながら、床に残ったこぼれた茶の跡を見つめていた。
「誰かいるのですか?」
端正な顔を曇らせた院長徳永がドアから覗いた。
たまたま通りかかったところに、目にいっぱい涙をためて飛び出してきたリカと出くわしたのだ。
しかもお茶で緑に汚れた服を着ていた。
「僕です。碧生です」
徳永は意外だという顔を向けた。
「今出て来たヨハネ君のお姉さん、服が盛大に汚れていましたよ」
「はい。僕が悪いんです」
碧生は素直にうなだれだ。
「事情が分からないのであまり言いたくはないですが、間宮さんは泣いていましたよ。女性に乱暴を働いてはいけない。心にも体にも」
乱暴と言う強い言葉に内心ぎくりとしたが、確かにそうだ。
「僕がいけないのです。イギリスの古い話を引き合いに出して、ついつい彼女を傷付けてしまった。彼女は口論の中で興奮して、自分で自分の茶を浴びたのですが、その引き金を引いたのは間違いなく僕です」
「君は若いし、モダンなタイプの女性とお付き合いした経験もなさそうだから免疫がないかもしれないが……後悔しているのならなるべく早く、その悔いている気持ちを伝える事です」
「はい」
碧生はふと目を泳がせた。
蓋が開きっ放しのピアノは、先刻奏でた拙い音と自分の稚拙な言葉を憐れむように、白い鍵盤を光らせていた。
その夜の事である。
「碧生さん、宜しいですか」
碧生が浮かぬ顔で原稿用紙を広げているところに、ドアの外から少年の声がした。
いつもの軽やかに高いボーイソプラノではない、低く押し殺したような間宮ヨハネの声だった。
「はい。どうぞ」
多分今日の事だ。碧生は居住まいを正してドアを開けた。
案の定痩せ細った美しい少年、間宮ヨハネだ。
いつもにこやかな顔をきりりと引き締め鋭いまなざしで碧生を見上げている。
その様子は先ほど自分が傷つけた彼の姉にそっくりだった。
「夜分に失礼します。僕がなぜ来たのか碧生さんはよくご存知ですよね」
「ああ」
碧生も真っ直ぐに彼を見返した。
そうしないと彼に失礼だと思ったからである。
「碧生さんにとっては姉は落ちた蝶を踏みつぶす女に見えるかもしれませんが、実際は逆です。誰にも助けを求めず手も伸ばせず、落ちて踏みにじられていく蝶の側の人なんです」
「ああきっとそうだね」
そう気づいた時には遅かった。碧生は自分の意固地を呪った。
ヨハネはそんな碧生をじろりと一瞥し言い放った。
「いいですか。姉を傷付ける事は僕が絶対に許さない」
そうして静かにドアを閉めて帰って行った。
手荒に閉められるよりもずっと怒りが伝わってくる仕草だった。
翌日以降も、サナトリウムの他の患者たちはこぞって「暁星」誌の碧生の寓話を誉めた。
だが彼はちっとも嬉しくなかった。




