水仙の女
碧生蒼太郎は真冬の宮城近くを白い息を吐きながら歩いていた。
彼の作品を載せてくれる文芸誌「暁星」編集部に通うためである。
そこは靖国神社の近く、神田神保町からも少し離れた九段の陸軍会館の近くで、小石川の家からも歩いて行ける距離だったので、体調が良い時は気分転換も兼ねて歩いた。
家の周りは静かではあるが風が凪ぎ、空気が滞っている気がする。
地厚の黒いコートに帽子、毛の襟巻を巻き、耳が切れるような冷たい空気の中を歩くと、自分自身が清浄になっていく気がする。
埃っぽい靖国通りを書きあげた詩歌の原稿用紙を抱えて歩くと、ほどなく編集部のある古ぼけた建物に着いた。
彼は編集者達のそっけない声と煙草の煙に出迎えられ、いつも隅の小さな机をあてがわれた。
女子事務員の入れてくれる茶と持参した森永キャラメルで喉を潤しながら、彼宛に届いた便りを開けて読む。
碧生蒼太郎は若き文章人として一定の評価を得るようになっていた。
この「暁星」以外からの詩歌原稿の依頼もぼちぼち入るようになった。
ただしそれで生計を立てるまでには至らない。
しかし一人だけの慎ましい生活なら営んでいける程の収入は得られた。
彼は編集部に寄せられた手紙を読むと、原稿料を受け取りまた静かに帰って行く。
寡黙で美しい顔をした長身の姿は先輩作家の話題となり、中には是非会いたいという者もいたが、彼は体調を理由に誘いを断り続けていた。
どうしても断れない文士同士の寄合等には顔は出すが、元軍籍にあった者らしく謹厳実直な姿勢を崩さず、礼儀正しく先輩文士達に挨拶をしそこそこに切り上げて帰るのが常だった。
実際彼の体調は一進一退で、歩いて編集部に顔を出せる時もあれば、床に伏せったまま、さやに原稿を口述筆記させ郵送してもらったり、原稿料も郵便で届けてもらったり安定しなかった。
彼の俗世離れした暮らしぶり、長身の儚げな佇まいと作品が誌面に載ると、読者の反響は大きかった。
彼の元へは実に様々な感想が届いた。
文学青年崩れと思しき男性読者層からは、修辞技術が稚拙だとか文章が固すぎるとか、文章に関するありがたい批判と批評が多かった。
彼が予科練上がりだという事を批判する、思想がかった便りも多かった。
編集員は
「ま、あまり気にしないように。自分がなれなかった文章家と言うものに、八つ当たりする者も世間には多いから」
と言っていたが、元々が白紙状態から文を書き始めた彼には、そういうものかと批判も素直に受け入れられた。
その真摯な態度は海千山千の編集部員達からも好感を持たれた。
ああ、またこの女性から来ている、と蒼太郎は一通の手紙に目を留めた。
それは女性にしては骨太で大胆な字で、いつも鋭い感想を寄せてくる「間宮リカ」という差出人からの手紙だった。
何の気なしに選択した言葉や季節の描写に目を止め、ぐいぐいと核心に迫ってくる分析力には、一緒に手紙を読む編集者も舌を巻いた。
手紙の内容からすると彼女は女子学生のはずだ。
「この人が出版界に居たら俺達のお株を奪うやり手の編集者か、もしくは喰えない批評家になりますよ」
他には、文壇でも評判の裕福な医師で病院経営者の徳永淳三という随筆家も、彼に関心を寄せている一人だった。
文に滲み出る視線の哀しさ、心根の純粋さを大いに評価し、事あるごとに誌面でも文壇の中においても彼を誉めていた。
蒼太郎は一面識もなかったが徳永はどこかで彼を見かけた事があるらしく、編集部を通して会いたいと言ってきた。
だが年が明けた昭和10年の大寒の最中、21歳を迎えたばかりの碧生蒼太郎はまた体調を崩していた。
初めは軽い風邪をひき、症状は喉の痛みとくしゃみだけだった。
さやは蒼太郎の部屋の火鉢の上に鉄の湯釜を置き、絶えず湯を沸かして湯気を部屋に籠らせるようにした。
布団には湯たんぽを欠かさず、分厚い綿入れの丹前や羽織を用意した。
喉が腫れて食べ物がよく飲みこめない彼の為に葛湯を作り、やや冷まして温かい状態で供したりした。
だが彼はみるみる消耗していった。
さやは献身的に看護を続けたが、結核患者の蒙った酷い風邪である。
自宅での治療は限界があった。
さやは渋る蒼太郎にことわりを入れ大学病院に入院させた。
彼女の判断は正しく、彼はインフルエンザから肺炎を起こしかけていた。
元々が肺病を病んでいてのインフルエンザは致命的である。
彼はすぐに点滴に繋がれ結核病棟の奥に隔離された。
今回ばかりはさすがの実家も兄を上京させた。
蒼太郎は面会謝絶状態だったので会う事は出来なかったが、父と自分の書いた手紙とまとまった金を持ってさやに託した。
「いつも弟の世話をしてもらってすまない。お前も自分の体に気を付けて、おかしいと思ったらすぐに医者にかかりなさい。お前が蒼太郎をしっかり見てくれているおかげで湘南の家は安泰で、子供も元気に育っている。いつも感謝しているよ」
そう言って兄は、病院の医者にも挨拶と付届けをして帰って行った。
傍目には随分と薄情に感じられるかもしれないが、碧生の家を守らなければならない兄とその家族の暮らしを考えると、仕方のない事なのかもしれない。
さやは近くの伝通院と白山神社に参拝を欠かさなかった。
そして蒼太郎の入院する病院近くの、古いキリスト教の教会にも寄った。
天井の高い石造りの聖堂の中で静かに祈り、帰ってくる。
彼女の中で仏教の寺院、神道の神社、キリスト教の教会に同時に祈る事は矛盾ではなかった。
太陽は一つだが呼び名は世界中で様々に違うものがある。
本当に大事な神様は一人だけかもしれないが、宗教が違ってもその一人の存在を見る道が違っているに過ぎない。
彼女はそう漠然と考えていた。
蒼太郎の入院は長引いた。
元々消耗していた彼は医者にも体力が続くか危ぶまれたが、幽霊のように痩せ細りながらも持ちこたえた。
そうして立春を過ぎた頃からゆっくりと回復の道を辿り始めた。
熱が下がり胸の痛みが取れつつあっても肺の白い影はなかなか消えなかった。
だが結核の病巣がさらに広がっていないのは幸いだった。
徐々に口から固形食がとれるようになり、点滴が外れ、彼は久しぶりに顔と手足を湯で拭いてもらいさっぱりとした。
やがて桃の節句の頃、彼は一般病棟に移った。
痩せてますます尖った顔に眼ばかりが大きく、久しぶりに面会に行ったさやは驚いた。
蒼太郎は彼女が手渡した父と兄の手紙を読んで考えに耽っていた。
氷雪と霜の季節を打ち破りマンサクと蝋梅の花が咲く頃、碧生蒼太郎はようやく退院した。
結局ひと冬近く病院で過ごした事になる。
久々の小石川の家に彼の気持ちも落ち着いた。
狭い庭に雪を被ってもなお輝く南天の赤い実や、厚い氷を割って花を咲かせる福寿草の黄色が彩り豊かだった。
「坊ちゃん、お電話です。徳永さんと仰るお方からです」
退院で疲れた体が落ち着いた頃、蒼太郎宛に電話がかかってきた。
相手は富裕な医師の徳永と言う随筆家だった。
文壇の会合で何度か会った事はある。随筆家と言うより一流のホテルマンのような、飄々とした洒脱な熟年という印象だった。
「はい、碧生です……」
「徳永と言います。僕が分かるかな?」
「はい。暁星社の会合でお話しさせて頂いたと思います」
「その通り。君が体を壊したと聞いて、僕はちょっと心配した。いやかなり心配した。君の清々しい文章をまた読みたいと思っているからね」
「それはどうも、ありがとうございます……」
蒼太郎は返事をしつつ首をひねった。
地位も名もあるこの紳士は、わざわざそれだけの為にこの自分に連絡を寄越したのだろうか。
「君に興味を抱いたと言うか、とても心惹かれましてね。君の文章にも君自身にも。それで編集部から色々と聞いたんです。とても、とても大変だったようですね。お気持ちお察しします」
「いえ、一病息災と言うつもりで、病と一緒にやっていくしかないと思っていますから」
「潔い。そういう点も私が君に惹かれるところです。文章も君自身も、実に潔い。そこで提案なんですが、僕は目白に結核専門の病院を一つ経営しています。そこは自分で言うのもなんですが、治療の質も環境もかなり上の上だと思っている。どうです。そこに入所してくれませんか。いつまでとは言わない。君が居たいというだけ」
蒼太郎は事情がよく飲みこめなかった。
「はあ。それは大変にありがたいお申し出だと思いますが……」
「費用の面は心配いりません。あなたは僕の客人です。お客として僕からの最高のおもてなしをを受けてほしいだけです。お客からお金を頂くなどと言うシンパシーのない事は私の信条とは合わない」
「あの、突然の事で、とても素晴らしいご提案だとは分かるのですが……少し考えさせてください」
「はい。どうぞご存分に。よくお考えになってください。で、結論が出ましたらこちらの番号にお電話ください。僕は待っていますよ」
「あのう、一つだけ教えてください。なぜこんなに親切な事を仰るのですか」
電話の向こうで徳永と言う紳士は小さな息をついた。ややあって、静かに話し出した。
「君は、僕の書きたかったものを書いてくれるんです。感じたかったものを、君のその鋭くて優しい感受性で感じて、奇をてらわずに素直に文に表現してくれる。それは僕にはできなかった。
そういう風に感じて表現したくても、邪念が入ってこねくり回して、読者の目をかわそうとして……色んな小賢しい垢にまみれた文章しか書いてこなかった。
君は、僕の書きたかったことを書いてくれる、天使のラッパの吹き手のようなものなのです。
そんな人が体の具合でペンを持てないでいる。それを黙って見過ごすなんて僕にはできません。これで納得していただけますか?」
碧生蒼太郎は黙って、電話のこちら側でうなずくしかなかった。
「さやさん。自分は療養所のお話しを受けようと思う」
徳永氏の電話から1週間ほどたった日、蒼太郎は切り出した。
「はい坊ちゃん。そうなさるのが一番良いと思います」
徳永氏からの電話を受けてすぐ、蒼太郎から概要は聞いていた。
それでも彼が迷っているのを何故なのだろうと思い見守っていた。
さやには、なぜすぐにお受けしないのだろう、こんな素晴らしいお誘いを、としか思えなかったのだ。
それでも彼は考えるのに1週間かかった。
徳永氏に申し出を受諾する旨の電話を返したのは、更に数日後だった。
徳永氏は喜び、引っ越し用に車と人足を寄越そうかと言ったが、蒼太郎は断った。
元々身一つで小石川の家にやって来たのである。
柳桑折一つ分の衣類と本、原稿用紙類。あとは愛用の古い革の鞄一つに収まるだけの身の回りのもの。それだけだった。
買い集めた書籍はさやが見舞いの度に少しずつ持って行くという事になった。
それでも少しはこのまま部屋に置いておきたい、と蒼太郎は言った。
「全部お持ちになられたら良いのに。坊ちゃんはすぐお読みになりたくなりますよ」
「少しここに置いておきたいんだ」
変わった事を言い出す人だと内心さやは呟き、困ったように微笑んだ。
部屋はどうせそのままにしておくつもりだった。
そして、一度去ったこの家にまた蒼太郎が戻る日が来るとは思えない。
今までは多少なりとも気を遣って訪問を控えていた蒼太郎の父、さやの「旦那様」も、息子が療養所に移ったとなれば大手を振って足繁く通って来るだろう。
今までがそうだったように。
そして、自分はまた旦那様の「持ち物」に戻る。ただそれだけの事だった。さやは小さなため息をついた。
明日は療養所に入所するという日。蒼太郎は初めて、一緒に夕飯を食べたいとさやに申し出た。
「いつもお傍に居させていただいているではありませんか」
さやはたすき掛けの着物に大きな前掛けを締めて鍋の煮ものをかき混ぜながら、きょとんとした目で振り返った。
「いや、そうじゃない。いつものお給仕をしてもらうのではなくて、一緒の食卓を二人で囲みたいんだ」
最後なんだし、という言葉を彼はほとんど聞こえないくらい小声で付け足した。
変わった坊ちゃんですね、とさやは微笑んだ。
「……あと、何かお望みの事はありますか?」
「飯の前に風呂屋に行きたい」
「お風呂なら外に行かなくとも家でいつもお入りでは?」
「外の風呂に行ってみたいんだ。春日町の桜並木通りの近くに大きな風呂屋があるだろう。そこに花を眺めついでに行ってみたい」
「ああよろしいですね。行ってらっしゃいまし。ご飯の支度は整えておきます」
「それが……さやさん、貴女と一緒に行きたい」
「私と?」
「ああ」
さやはどういう顔をしていいのか迷った。
自分は彼の父の愛人である。
大人の余裕を見せて笑ってやり過ごせばいいのか、それとも真面目に諭してあげればいいのか。
蒼太郎の目はとても恥ずかしそうで、また真剣だった。彼なりに随分考えたに違いない。
当初は父の愛人と言う事で不機嫌な態度をぶつけられた。
だがどんなにぶっきらぼうにされても年下の病身の青年が、可愛くもあり切なくもあった。
最後なんだし、という言葉は年上のさやの耳にも魔法のように甘美に響いた。
「わかりました。全部作り終えて温めるばかりにしておきます。ご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「もちろん。お願いします」
小学生の作文のようなぎこちないややりとりに、さやと蒼太郎はどちらからともなく噴き出した。
二人は初めて連れ立って銭湯に行った。
本郷菊坂下の「菊水湯」は明治からの歴史ある古い銭湯で、市電の通る春日通りから何丁目か入った旧街道の坂下にあり、昔ながらの破風屋根が堂々としていた。
行きも帰りも小石川の印刷所脇の桜並木を通る。
つい先頃労働争議のあった印刷所は昼夜を問わず動いており、ひっきりなしに機械の音や台車の行き交う音が響いていた。
その裏手、漏れてくる灯りの元で蒼太郎とさやは風呂道具の風呂敷包みを持って歩いていた。
桜のつぼみはもう咲くばかりにぷっくりと膨らんでいる。
「桜もだいぶほころびかけてきたね」
「左様ですね」
からころと下駄を鳴らしながら、歩幅の狭い小柄なさやに合わせて蒼太郎は歩を進めた。
二人ともあまり言葉を交わさなかった。
菊水湯に着くと、男湯と女湯に分かれて入った。
女は長風呂と古今東西相場が決まっている。
蒼太郎は極力ゆっくり、湯あたりにならない程度に時間をかけた。
湯上りの火照った肌に、毛織のセーターと上着を通じて春のひんやりとした空気が撫でてゆく。
長身脚長の彼のやや後ろをどうしても遅れ勝ちになるさやも、洗い髪をただの櫛巻きに束ねて俯いて歩く。
二人は帰る道は無言だった。
夕暮れから夜になり、闇に溶けたような並木の濃い桜色の蕾の下を歩く時も、来た道と違い二人は無言だった。
小石川の家に戻ると、さやは食卓の火鉢の火をかきたて部屋を暖かくした。
そして熱燗でもお付けしましょうか、と珍しく声をかけた。
蒼太郎は晩酌はしない。今日が最後ですから、と彼女は付け加えた。
「いや、体を壊してから、酒を飲むと食事が腹に入らなくなるんだ」
「それは困りました。それではいつものように美味しい番茶を用意しましょう」
今日が最後の家での夕餉だという事で、心尽くしの品々が卓に並んだ。
春の鯛の昆布締め。特別に桜鯛の良いところを魚屋に届けてもらったのだ。
結び三つ葉のちょこんと載った鯛の潮汁。
萌え出たばかりのヨメナの芽を塩揉みして混ぜた菜飯。
土筆と蛤のぬた。
ふきのとうの天ぷら。
一品一品は小食の蒼太郎に合わせてほんの少しずつ、ままごとのような量だったが、目と鼻でも楽しんでもらおうという春の色と香りがいっぱいの膳であった。
この家に来て初めて、蒼太郎とさやは食事を共にした。
神田の蕎麦屋で一緒に蕎麦を食べた事はあった。
だが家の中で同じ食卓を囲むのは初めてだった。
二人とも妙に緊張し無言だった。
黙って吸い物に口をつけ、冴えた緑が散った菜飯をかきこんだ。
沈黙のまま箸を進めていると、熱々の天ぷらを口にしたさやが、顔をしかめてはあはあと舌を冷やし始めた。
「さやさん、猫舌だったの?」
「はい……」
強いて猫舌という事もなかったが、さやはいつも蒼太郎の食事が終わってからすっかり冷めた物を食べていた。
彼の父親が来た時も同様である。
彼女は出来立て熱々の食事という物に慣れていなかった。
「あの、坊ちゃん、お口に合いませんでしたか?」
「いや、そんな事ないよ。美味しいよ」
そして蒼太郎はほっとしたように微笑んだ。
「一人じゃなく、誰かと食卓に着くというのは、良いもんなんだね」
「はい」
さやも頷いた。
「やっぱりほんの少しお燗をつけてもらおうかな。最後なんだし」
「はい」
最後なんだし、という言葉はやはり甘く蠱惑的に二人の心と体に沁みた。
二人の食卓は切り良いところで終わった。
深夜、寝室の灯りがポッと点った。
それは部屋全体を照らす電球ではなく、枕元のスタンドのようだった。
やがて中で人が動く気配がすると、スーッと窓の障子が細く開き、肘まで寝間着の袖から剥きだした白い腕が伸びた。
黒い夜の空気の中、薄い光を吸収するような不思議な艶めかしさを放つ女の白い腕だ。
さやの白い腕は窓の外をしばし泳ぎ、何かを確認するようなそぶりであった。
春の小雨が降り出していた。
手先を温かい雨が濡らすと白い腕はまた引っ込んでいった。
スッと障子戸も閉まった。
中で二言三言、囁き交わす声がしたかと思うと、灯りは消された。
翌朝まだ早い時間、黒のコートに帽子、毛のマフラーを巻いた碧生蒼太郎は小石川の家の玄関を出た。
花冷えの朝はしんと静まり返り、玄関先から道路までキンキンに凍り付いていた。
昨夜の雨が思いもかけない寒気に当たったのだ。冬用の靴を履いても蒼太郎の足は滑りそうになった。
「それじゃ」
「坊ちゃん、お気をつけて」
薄化粧の白い肌にうっすらと紅をはいたさやの、吐く息もまた白かった。
古ぼけた革の鞄を下げた蒼太郎は振り返って、ゆっくりと右手を差し出した。
さやは静かにその大きな手の長い指を見つめると、庭先の白い水仙の花を一本手折り、そっとその手に渡した。
二人の指が軽く触れた。
さやも蒼太郎も黙っていた。
牛乳屋の自転車の荷台で配達の瓶がカチャカチャと揺れる音が、表通りを過ぎて行った。
蒼太郎は軽く頭を下げて踵を返すと、ゆっくりと門をくぐり歩いて行った。
さやは長身の姿が角を曲がって見えなくなるのを見つめながら、冷たい両手を口許にやり、ほうっと息を吐きかけた。
そして口元を覆ったまましばらく佇んだ。
息で温められた小さな掌からは、今手折った水仙だろうか。否、それとは違う青臭い匂いがした。
さやはその匂いを愛おしむように、口元から手を離さなかった。
蒼太郎もまたポケットに入れてある革手袋をはめる気にはならなかった。
右手に受け取った水仙の花を左手に持ち替え、歩きながら右手の長い指を広げて嗅いでみた。
中指と人差し指そして掌からは、昨夜の名残の温もりが匂い立つような気がした。
それは今もらった水仙の花の清々しい香りとは違う、艶めかしいものがあった。
澄んだ寒空の下、蒼太郎は歩みを緩めず進んだ。




