オシロイバナ・2
昭和9年1月、碧生蒼太郎は20歳になった。
寒い時期の生まれのせいか風邪もひかず、検査での肺病の菌も検出されず、症状も安定していた。
持ってきた服は小さくなり、さやは大体の目見当で新しい服を買ってきて、着物も縫った。
蒼太郎が体に触れさせなかったからだが、目見当にもかかわらず袖丈も身丈もぴったりと合った。
彼は再び勉強を始めていた。目標が生まれたのだ。
教師になって子供達に学問を教え、子供達と一緒に学び、世界と繋がる空の素晴らしさを教える事。
彼はかつて学んだ座学の本を勉強し直し、古書店街に通い苦手だった文学も読み始めた。
三月。桃の節句の頃。彼は府立の東京府師範学校に合格した。
赤坂区青山北町にある小学校教師を育成するための学校、就学期間は5年間。寮もあり当時は高等小学校卒業時から入学できた。
さやは喜んで湘南の蒼太郎の実家に電報を打ったが、おめでとうという短い返事と、真新しい下着と服と着物が届いただけだった。
無理もない。兄に赤ん坊が生まれてそれどころではないのだ。
蒼太郎はもはや寂しいとも思わなくなっていた。
母が死んだのを境に、生まれ育った家とはわずかな細い糸を残しただけで限りなく縁が遠くなった気がした。
15歳まで毎日見ていたみかんの繁る青い段々畑、木々の緑に溶け込んだ青い空、白い雲と広がる海のある故郷は想い出の中にあって、時々引っ張り出して眺めるものになりつつあった。
北青山は小石川のさやの妾宅から充分通える距離であるが、碧生蒼太郎は寮に入る方を選んだ。
さやが優しくまめで性格の良い女だという事は分かっているが、やはり自分の父の年若い妾だという事が受け入れられず気詰まりであった。
自分が外出した後、調べものや図書館の勉強を終えて遅く帰ると、さやの体と家からは父が来ていた名残が立ち上るのを感じた。
それはごく些細な玄関先の風情の違いだったり、座敷の座布団の位置のわずかな変化から感じられるに過ぎないのだが、自分のいない間にしげしげと女の元に出入りする父の姿を身近に感じる程に蒼太郎のやりきれなさは募った。
そうした日のさやの出してくれる食事は普段より豪華なのが常だったが、蒼太郎は到底口をつける気になれなかった。
さやも抱かれて少しほつれた後ろ髪を気にしつつ、ただうつむいて冷めてゆく坊ちゃんの膳を前に控えているしかなかった。
その妾宅から出て環境を一新する事は、蒼太郎にとって大いに望むところだった。
風がすっかり春の温かさをまとった三月も末、蒼太郎は帳面やペン、鉛筆などの文房具や本を買いに、いつもの神田神保町に出かけた。
小石川のさやの家からは路面電車の行き交う春日通りをやや歩く。
退院して小石川に来た直後は爺と一緒に市電に乗ったが、体がよくなってからはいつも歩いていた。
本を買い近くの学生街で学生達に交じって珈琲を飲み、ゆったりとした時間を過ごすのも悪くない。
当初彼は、そうした青臭いインテリ臭を嫌っていたが、買った文学書を読むためにカフェーやフルーツパーラーに出入りを始めると、その雰囲気が嫌いではなくなった。
特に靖国通りの近江屋洋菓子店の喫茶はお気に入りだった。
その日も重い本や帳面類を買い愛用の古い革鞄に詰めて歩いていると、向こうから小柄な若い女がいそいそと歩いてきた。
黒っぽい銘仙の着物に紅花染の帯と鶯色の帯揚げの初々しい、さやだった。
いつもの薄杜松色の風呂敷包みを抱え小股で急ぎ足、こちらには全く気付いていてない態だ。
「さやさん。今日はこっちにお出かけだったのか?」
さやは弾かれたように顔を上げ、つぶらな目をさらにまん丸く開いて蒼太郎に気付いた。
「ああ坊ちゃん。申し訳ありません。全く気が付いていなかったものですから……」
「何か買い物?」
「はい。お茶の水のニコライ堂の近くのパン屋が美味しいと評判で。卵と牛乳のクリームパンというものとジャムパンを買って参りました。坊ちゃんがお好きと思い出したんです」
さやは蒼太郎の態度が普段より柔らかいのが嬉しく、手にした風呂敷包みを示した。蒼太郎が触ってみるとまだ温かかった。
「焼き上がりの時間が決まっているので、それに合わせて出かけたのです。お口に合うと嬉しいのですが……」
4歳年上、しかも父の妾とは思えない清純な微笑と佇まいに、彼も思わず顔をほころばせた。
家の中では、彼女はいつも自分の顔色を窺っている。
それが気に触る事でもあったのだが、彼女なりに引け目を感じているのだろう。
蒼太郎はふと、この美しい女の立場を忌む自分が、とても小さな情けない者に思われた。
これでは根っこの部分で父と同じではないか。
「もうすぐ昼だ。ちょっと早いけど蕎麦でも食べていかないか?」
「え、私とですか? 」
「そうだよ。他に誰もいないじゃないか」
「でも、よろしいのですか? 私はご一緒させてもらうような……」
「いいんだよ。別に何を憚る必要がある? それとも俺と一緒じゃ不満か?」
「いえそんな」
「この先に老舗の美味い蕎麦屋がある。そこでいいな」
「はい。ありがとうございます」
どう答えていいか困っていたさやは、蒼太郎の思い切りの良い言葉に安心した顔を向けた。
神田司町にある明治五年創業の浅野屋本店は、東京府下においても老舗の蕎麦屋である。
間口は狭く店は小さかったが、挽きたての蕎麦粉八割と小麦粉二割の手打ち蕎麦は、江戸前らしく甘みがかった濃いめのつゆと相まって評判となり人気が衰えない名店であった。
春の埃っぽい風に急き立てられるように二人は縄のれんをくぐり、元気な女将の声に迎えられた。
昼前の店を開けたばかりの時刻と見えて、他の客はまだ誰もいない。
二人掛けの席に着くと、蒼太郎は鴨南蛮蕎麦、さやはおかめ蕎麦を頼んだ。
「お銚子は如何なさいます?」
「いや、いらない」
女将は見事な詩吟のような声で厨房に注文を通した。
「坊ちゃん、さくら蕎麦もあるみたいですよ」
さやが珍しく自分から話しかけた。弾んだ声だ。
「いやいい。東京で春のさくらを食べようという気になれないんだ」
さくらとは、春先に三浦海岸や駿河湾で取れる初物のサクラエビの事である。
そのサクラエビと、やはり新物の三つ葉の柔らかい芽先とを一緒にからりとかき揚にし、温かい蕎麦に載せたのがさくら蕎麦だ。
蒼太郎は確かに品書きのそれに目を留めたが、実家の湘南の地以外でサクラエビを食べようという気にはなれなかった。
やがて二人の前に、盛大に湯気を立てた鴨南蛮とおかめが運ばれてきた。
蒼太郎は冬限定の鴨南蛮を柚子で食べるのを好んだが、今は三月、もう間もなく鴨南蛮も品書きから消えるので、薬味は渋々ながら七味唐辛子である。
ぱっぱっと盛大にかけてしまい、思わずくしゃみをしてしまった。
「ごめんください、坊ちゃん」
さやは思わず笑ってしまったのを小さな声で謝った。
そう言いながら小さな口をすぼめ、汁を飛ばさないように静かに蕎麦をすすり、具のかまぼこや伊達巻き、結び三つ葉を齧る。
その白い小さな歯が眩しかった。蒼太郎は照れ隠しに、わざと音を立てて蕎麦をすすった。
厨房からは蕎麦を切るトントンという音が小気味よい調子で響く。
昼時が近くなり次第に客が入ってきた。
二人の卓には熱々の蕎麦湯が置かれた。
「さやさん、今までありがとう」
「いえ、そんな言葉をかけて頂くいわれはありませんので」
「作ってくれた物をあまり食べないで残してばかりだったなと思い出したんだ。すまなかった」
「いえ、坊ちゃんの美味しそうに召し上がっているお顔を初めて拝見して、さやはとても嬉しいのです」
「親父の別宅だと思うと、あの家で飯を食う気になれなくて」
「わかります。申し訳ないと思っております……」
「いいんだ。親父をよろしく頼む」
さやの勧めてくれる蕎麦湯を一杯飲み、二人は店を出た。
蒼太郎はさやのために長い腕で暖簾を押さえてやり、先に出るように促した。
レディーファーストなど知らない彼女は面食らったが、嬉しそうに微笑んで従った。
神田司町から小石川まで大分あったが、二人は前になり後になり、のんびりと歩いた。
「蒼太郎坊ちゃん、お気をつけて。お体には十分注意なさってください。さやは心配しながら祈っている事しかできません」
「大丈夫だよ。お医者も大丈夫だろうと言っている。物騒になってきたからさやこそ気を付けるんだよ」
「はい」
今日は随分多く言葉を交わしたな、と思いながら蒼太郎とさやは家路を急いだ。
道沿いの神田川の土手の桜は蕾が膨らみ、もう咲くばかりになっていた。
満開の桜の中、碧生蒼太郎は青山の師範学校へ入学した。
同時に身の回りの物を持って、学校付属の寮に入った。
空と飛行機の世界しか知らなかった自分を変えたいと晴れやかな気分で門をくぐった師範学校だったが、蓋を開けてみると学校内でも寮でも、彼は異分子に近かった。
既に20歳を越していた蒼太郎は、高等小学校卒が大半を占める生徒たちの中ではまず群を抜いて年長だったし、それだけで年の近い教師からは疎まれた。
さらに予科練の座学で物理や化学、外国語まで学んでしまった事も、教師達から見ると面白くない存在だった。
自分達よりも教師の方に年が近い蒼太郎は、寮に於いてもやんちゃ盛りの子供である他の入寮生から見れば気詰まりな存在だったし、彼にしてみれば静かに勉強どころではない他の生徒の煩さに、ついつい怒鳴りつけてしまい閉口された。
海軍仕込みの規律を叩き込まれた蒼太郎にとっては、彼らの騒ぎ振りは常軌を逸していると感じられたのだ。
だがそれは彼をますます孤立させるだけだった。
学校でも寮でも、彼は煙たがられ、口をきいてくれる者は皆無だった。
悪戯を仕掛けて来るような勇気ある者すらおらず、蒼太郎は完全に孤立してしまった。
それでも学ぶ事自体は楽しく、彼はそれだけに集中した。
だがいつの間にか心労と過労が重なり、一度回復した彼の体は次第に悪化していった。
初めはお決まりの微熱と軽い咳。食欲不振。元々痩せている蒼太郎の体は一気に体力を奪われた。
だが彼は空元気を振り絞り、級友や教師の悪意の視線を受け流しながら勉強を続けた。
だが限界は来た。彼は再び高熱を発し、血の混じった痰を吐いて倒れた。
師範学校は退学となり病院の結核病棟に収容された。また元に戻ってしまったのだ。
症状が落ち着いたところで彼は退院した。
やはり湘南の日光が輝く実家からは帰宅を拒否され、彼は小石川の小さな家に戻るしかなかった。
季節は夏の盛りを過ぎ9月になっていた。
先に身の回りの物を送っていたので、身の回りの物を詰めた古い革の鞄を下げただけの姿で、蒼太郎は小石川の家の玄関に立った。
「お帰りなさいませ」
静かに出迎えたさやは涼しげな木綿単衣の普段着を着ていた。
何も聞かず初めの時のように荷物を持って彼の部屋に案内し、浴衣と洗い立ての下着類を出して、木の小さなたらいに水と手ぬぐいを持ってきて、顔と手を洗うように勧めた。
「暑いし埃っぽいですから。坊ちゃん」
蒼太郎は言われるままに手と顔を拭き、汗くさい学生服からさっぱりとした夏服に着替えた。
お風呂のご用意ができました、とさやが声を掛けに来た時、彼は中庭に面した縁側に腰を下ろし、小さな庭に青く茂る夏の竹と石に生した苔を見ていた。
狭く日当たりのよくない庭に羊歯や熊笹、竹が所狭しと植えられているこの家は、元は都都逸の師匠が住んでいた物だったらしい。
だがさやも蒼太郎もそんな事は知らない。
「坊ちゃん、お風呂のご用意ができました。いつでもお声を……」
数か月前と全く変わらず、さやは慎ましやかに声をかけた。
「この庭はこんなにも暗かったんだね」
「はい?」
「いや、俺がここを出て学校に行った春先は、この庭の木も冬枯れで葉が落ちていたし、枝もまだ伸びていなかった。今は竹も他の木も伸びてしまって、空が見えない」
「夏の間に若い木がぐんぐん伸びましたから……」
「そうだね。若いものの勢いはすごいからね……瞬く間に繁って、空も太陽も隠してしまったんだね」
さやはやや困った顔をして、控えていた廊下の隅から膝を立て立ち上がった。
「枝や葉の間からお日様も見えますよ。坊ちゃんは大層お疲れでしょう。甘い物でも持ってきましょう」
困った顔をしながら、さやは台所に消えた。
蒼太郎は彼女の運んできたお茶とみつ豆を傍らに、まだぼんやりと中庭を眺めていた。
小石川の窪地にあるこの界隈はあまり風も吹かず、むっとする熱気が漂っている。
夕暮れになれば少しは涼しい良い風も吹くのだが。
「師範学校の周りでも、空はこんな感じだったよ。青山の御所の直ぐ近くだったけど」
「それはとても素晴らしい所にございますね」
「ああ。でも空は青くないんだよ。けぶっていた。美しくないんだ。横須賀の海の近くの、あの学校で見ていた空みたいには……」
蒼太郎はふと目線を空に向けた。
何重にも重なった庭木の枝と葉で中庭は木陰になっていた。
さやにはその日陰は好ましいものだったが蒼太郎には違った。
「俺にはもう、本物の空は見られないかもしれないな。飛行士になって空に上がれば、見られた」
さやは黙って傷ましそうに青年を見つめていた。
「今見ている空の上にある、本当に美しい、本物の澄んだ空をね」
蒼太郎の言葉は途切れた。彼はいつの間にか低く喉を鳴らして嗚咽を漏らしていた。
女の前では絶対に見せたくない姿だった。特にこの、さやの前では。
だが止めようとする努力は無駄だった。
彼はいつしか深くうなだれて、痩せ細った背を震わせ泣いていた。
「坊ちゃん、生きるのはお辛いですか?」
さやの涼しげな声が真近で響いた。
「今の坊ちゃんにはさぞお辛い事と思います。さやも生きていくのが辛いと何度も思いました」
彼女は静かに蒼太郎の近くににじり寄ると、帯の間から白いハンカチーフを取りだし、差し出した。
「でも最近よく思うんです。自分はこのちっぽけな庭の石や、隅っこの雑草にすぎないのですけれど、でも神様はそんな私でも生かしておいて下さる。世の中に意味のないものなんて何一つないんです」
彼は初めためらったが、さやの手からハンカチーフを受け取り顔を拭いた。
「私はちっぽけな取るに足らない者で、世の中からしたら邪魔で余計な、踏みつけても良い存在なのかもしれませんが、それでも生きております。だとしたら、私が生きている事だけでも何か意味があるんじゃないかって。さやはそう思います。ましてや坊ちゃんなんて、お体さえ治れば何でもおできになりますよ」
お風呂お使いになられたら如何でしょう、とさやは立ち、風鈴を取り込みながらささやいた。
「さやは小さいですが、こうして立っていると、風が吹いた時にきれいな空が眺められます。ましてお背の高い坊ちゃんはこれからいくらでもご覧になれます」
涙を拭いた蒼太郎の目には、そう言って立ち去る姿が大きく伸びやかに見えた。
夏の日々は静かに過ぎた。
落ちついて療養生活を過ごす蒼太郎は、その頃ペンと帳面を手に部屋で過ごす事が多くなった。
元々痩せた体はますます細くなり、肌は透き通るように青白くなっていった。
彼は自分が諦めざるを得なかった空への思いを、文にする事を知ったのだ。
詩歌や文学は気持ち悪いと感じて苦手だった。
そんな物を書いてうじうじと悩んでいるくらいなら行動したほうが早い、という性格だったが、いざ体の自由が利かない身になってみると自分の思いを書き留めておきたい、という気になってきたのだ。
ややもすると食事と用足し風呂以外は部屋に閉じこもりきりで、ペンを走らせ、文章に悩んでは破いてゴミ箱に放り投げる。
そんな蒼太郎をさやは心配した。
「ちょっと郵便局へ行ってくる」
秋の気配が次第に増してきた昼下がり、彼は珍しく上着を着て出かけた。
書き溜めた空への憧れと痛みを書いた詩や文章を、ある文芸誌に送ってみようと思い立ったのだ。
彼には文章家になろうなどという気は毛頭ない。
ただ誰かに読んでもらいたくなった、それだけだった。
郵便局で切手を買い投函した後急に気恥ずかしく、自分の行為がとても愚かなものに思えて、たった今投函したばかりの原稿用紙の束を返してもらいたくなった。
彼は気晴らしに舶来のチョコレートを買って帰った。
さやにもあげようか、大分心配をかけているし。そんな気になったのだ。
そしてそのまま投稿した事を忘れてしまった。
二か月後、秋の日のとっぷりと暮れた頃、さやの家に電話がかかってきた。
蒼太郎が詩歌と短文を送った出版社の、編集長からだった。
彼の瑞々しい手垢の付いていない文章のセンスを誉め、今月末に発行される本誌に掲載したいというのだ。
さやから受話器を受け取った蒼太郎はすぐに快諾した。
載ると言っても後ろのページにほんの少し、読者の投稿と言う形だろうと思っていたのだ。
昭和9年11月の末、書店に並ぶ前に郵送されてきた文芸誌は、文壇でも格式が高いと評判の本だった。
もっとも蒼太郎は全くそれと知らずに送ったのだが。
彼について、空を歌う悲運の青年詩人として3頁に渡る特集が組まれていた。
何時の間に調べたのか、彼の境遇や軍暦まで載っていた。
蒼太郎は驚いたが、出版社と言うものは余程優秀な人達の集まりなのだと、のどかに感心していた。
そして、彼の詩の載る文芸誌「暁星」は発売された。
編集部の見立て通り、軍人上がりの彼の清潔な文章、若々しい固さの残る詩は、詩歌愛好家の間で評判を呼んだ。
碧生蒼太郎は自分も知らない間に詩歌の世界の静かなる新星として注目を浴びる存在になっていた。




