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オシロイバナ

 昭和8年、1934年。

 長期間の咳と微熱、訓練中の喀血の症状を示した海軍予科練修生碧生蒼太郎は、肺結核と診断され予科練を除隊した。

 19歳、パイロットとして就任直前であった。


 陸戦の訓練中グランドで倒れた碧生蒼太郎は、一度救護室に担ぎ込まれた。

 軍医は彼の痩せた体を診察し血を吐いた様子を聞き、即座に診断を下した。

 痰や血中の菌の培養結果など待つまでもなく、重度の肺結核である。

 その頃蒼太郎は40度近い高熱と、呼吸が困難な程の胸の痛みを訴えていた。

 汗をびっしょりかいても一向に熱が下がらない。

 激しい咳は寝ているうちに収まり喀血も落ち着いたが、彼は悪夢にうなされ、しきりと譫言を言った。

 夢の中で自分は練習機に乗り込もうとするのだが、スッと足を滑らせて落ちてしまう。

 するとそこは渓谷にかかった吊り橋で、あっという間に何も掴むものなく落下していく。

 ふっと体が浮いてから落ちていく感覚の気持ち悪さに、かすれた悲鳴を上げて目を覚ますのだが、また熱でうとうとと眠ってしまう。

 そしてまた落ちる夢を見る。碧生蒼太郎は眠った気がしないまま、固いベッドの上に半ば放置されていた。


 彼は横須賀の海軍病院に収容された。

 鎮守府内に建設された明治から続く近代的な巨大病院で、海軍の軍人軍属およびその家族が無料で治療・入院ができた。

 治療費は国費負担である。

 彼は学生ではあったが軍籍にあるという事で、比較的余裕のある海軍病院に入れられたのだ。

 ただし他の傷病兵とは隔離された、感染症の患者向けの狭い病棟。

 それでも看護は手厚く、出される病院食も上等であった。

 結核は現代でも、栄養不足や過労で体力が落ちると薬が効かなくなるという厄介な病気である。「贅沢病」と言われる所以がそこにある。

 ただし彼は出された食事もほんの少量しかのどを通らなかった。

 看護婦や医師に注意されても幽霊のような表情で申し訳ありませんを繰り返すだけだった。

 そこにはつい先日までの、俊敏に訓練をこなし勉学に励む、輝く澄んだ目の青年の面影はなかった。

 見舞いに来た同級生や家族は、こんなにも短期間で面変わりするものかと驚いた。


 軍医の『結核につき軍務に堪えることを得ず』という申請が通り、碧生蒼太郎は予科練を退学となり軍籍を解かれた。

 軍籍を失ったとはいえ重篤な状態にある元学生を急に転院させるのはしのびず、上官は退院まで彼を入院させておく事に決めた。

 学校から湘南の実家に連絡は行ったが、家から病院の蒼太郎の元に届いたのは実家に帰る事はならないという電報だった。

 少しずつ回復しつつあった青年は茫然と電信紙を握りしめた。

 ややあって、実家より腰の曲がった年寄りが彼を訪れた。

 蒼太郎が小さいころから面倒を見てもらった小作の一人だった。

 蒼太郎は彼を慕い爺やと呼んでいた。爺は兄からの長い手紙を言付かってきた。


「蒼太郎殿。体の具合はどうか。

 爺に見舞いを頼んだ。着替えや日常のものを持たせたので、必要なな物は折り返し爺に頼むように。

 今回の帰宅は不可だという知らせは、お前にとって冷たく残酷なものだろうと思う。俺もそう思う。だからそう思ってくれて構わない。

 知っての通り、お前が予科練にいる間俺は嫁を娶った。

 お前は訓練で祝言に参加できなかったが、肺病病みの母のいる家に来てくれる等なかなかない事だ。

 そして今嫁は子供を宿し、もうすぐ産み月だ。

 赤ん坊と出産したばかりの嫁に病気がうつるような事になっては、碧生家に関わる一大事なのだ。

 病に苦しむお前には残酷だが家に帰るのは諦めてくれ。

 そのかわり、東京の小石川に親父の妾の一人が住んでいる。

 そこなら部屋も余っているし家族の代わりにお前の面倒を見るように命じた。

 仕送りは充分にするつもりだ。

 退院したらそこで養生しろ。

 退院の日が決まったら、その女と爺を迎えにやらせるから、決まり次第連絡するように。


 碧生蒼太郎殿


                         兄より」

 ふふ……と乾いた笑いが蒼太郎の口許に上った。

 兄貴に赤ん坊が生まれるのか。それじゃ邪魔なわけだ。

 こんな将来の道を断たれた肺病病みの叔父がいたんじゃ。俺は余計者なんだ。文字通りの疫病神だ。

 蒼太郎は一瞬、土蔵に寝かされている自分を夢想した。

 愛する母が自分と同じく肺を病んだ時、寝かされていた土蔵。

 夏は暑く冬は凍えるほどに寒い中に、古い荷物のように放置されていた痩せ衰えた姿。


「蒼太郎さん、顔を見せてもらって嬉しかったわ」


と、彼の話を聞き安心して眠っていった愛する母。自分と同じ病気で先に逝ってしまった。


「お母さん、あの家には新しい命が産まれるんです。だから僕は居られないんです」


 蒼太郎は心の中で力なく呟いた。故郷のみかんの花の香りが一瞬鼻先をかすめた気がした。


「お母さん、僕はまだ、生きていなければなりませんか?」


 1カ月後、碧生蒼太郎は退院した。

 痰に結核菌が排出されなくなったので、他への感染の恐れは低いと診断されたのだ。

 彼は爺が持ってきた背広に着替え、わずかな手荷物をまとめて病院を出た。

 門を出た青年はふと立ち止まり振り返った。

 中学を卒業して以来5年近く、空を飛ぶ夢の為に全身全霊を捧げてきた海軍の、その施設。今放逐同様に門を踏み出してみると、離別は驚くほどあっけないものだった。

 この日も空は高く晴れ上がり、風は弱く肌にあたる空気は乾いていた。

 思えば蒼太郎はいつも海と丘の向こうから吹く澄んだ空気の中に生きてきた。

 厳格な予科練の学舎の中でも、彼の周りにはいつも清浄な風が吹いていた。

 これから行く帝都はよい風が吹いているだろうか。

 年老いた爺は断っても無理やり荷物を担いだ。


「蒼太郎坊ちゃん、なんておいたわしい事……」


 涙を滲ませ痩せこけた碧生家の末っ子の傍らを歩く。

 幼い時、父や兄に叱られてみかん畑に隠れて泣いていた際、探しに来てくれたのは母親と爺だった。

 家の事で忙しい両親に代わって度々面倒を見て可愛がってくれたのは、この爺と婆の夫婦だった。

 腰は曲がり白髪は増え、自分の身長の半分もない程小さな、だが相変らず屈強な体に荷物を背負い、蒼太郎について来てくれた。

 横須賀駅まで歩いて行くつもりだったが、病み上がりの坊ちゃんを歩かせるわけにはいかないと爺がタクシーを拾った。

 円タクを下りると爺が安心したようにつぶやいた。


「ああ、もう来ておりますな」


 爺の視線の先には、薄紅色の紬の着物を着た若い女が、薄杜松色の小さな風呂敷包みを持って券売窓口の前に立っている。

 彼女は蒼太郎と爺がタクシーを降りるのを目にすると、スッと白足袋の足を進めこちらに近づいた。

 黒地に萩の柄の帯を締め、トンボ玉の帯留めをしている。

 先程若い、と書いたが、面長なうりざね顔に緩やかなウエーブがかった髪をゆったりとまとめ、襟足で小さな髷にしたその表情は、白い弾むような肌や薄桃色の脣、ほっそりと固い線を持つ首筋から漂う若々しさとは対照的に、物事を達観したような妙な大人びた空気があった。

 ふっくらとした頬、やや上を向いた丸い鼻の親しみやすい幼さとは相いれない諦観がその容姿を覆っている。

 いわば子供が無理やり大人にさせられたような、いびつで不健康な美だった。

 彼女が話に聞いた父の愛人の一人か。蒼太郎は表情が強張るのを感じた。


「さや子さん、わざわざお疲れ様でございます」


 爺の言葉に女は静かに頭を下げ、二人に挨拶をした。


「お迎えに上がりました。さやと申します」


 彼女の声は子供のように細く高く澄んでいたが、すぐ近くで話しているに遠くから喋っているような不思議な距離感を感じさせた。


「兄から聞いています。厄介者ですが宜しく願います」


 蒼太郎はどう受答えしていいのか分からず、出てきた言葉に自分でもなんと頭が悪い事かと呆れた。


 横須賀から東京駅までの旅はそれなりに時間がかかる。

 さや子と呼ばれる父の愛人は、列車に乗る前に売り子から透明なガラス瓶に入った茶を買い、動き出してしばらくすると持参した風呂敷包みを開いた。

 中には箱に納められた真ん丸なキツネ色のどら焼きが数個。


「坊ちゃん召し上がってください。滋養にいいと思いまして」


 蒼太郎は礼を言い長い指で一個をつまんだ。


「上野の『うさぎや』のものですがお口に合うかどうか」


 歯にしみるほどの甘さが優しく体に染み込む。


「坊ちゃんは甘い物がお好きだったと思い出して、さやこさんに持ってきてもらったんですよ」


 長身を座席に預けて黙々とどら焼きを頬張る蒼太郎を、爺は眼を細めて見ていた。

 そして涙を流し、坊ちゃんが不憫だ、お父様とお兄様は酷過ぎると泣き出した。

 さや子は若い女にしては太い眉をひそめて、目線を膝に落とした。

 隣近所の席の客も何事かと覗き込む。

 余りの居心地悪さに、泣くなよ、と蒼太郎は声をかけた。

 だがそれは逆効果で、爺はかえって辛そうにさめざめと泣きだす始末だった。

 年寄だから涙脆くなっているのだと蒼太郎は思ったが、その泣き萎れる姿にどこか他人に見られる自分を意識しているような、理不尽に放逐されたお坊ちゃんを気遣う自分を演出しているような、些細なわざとらしさを感じないではいられなかった。

 だがそう感じる自分のひねくれ具合にも軽く腹が立ち、彼は憮然とした表情で押し黙ってしまった。

 三人は東京駅に着くまでの二時間近くを、気詰まりな沈黙と投げやりな僅かな会話のみで過ごした。


 東京駅からは市電に乗り換え、さやにあてがわれた妾家のある小石川まで向かった。

 伝通院と言う古い寺の近くにある狭い家に着く頃は、さすがの蒼太郎も疲れ切って息が切れてきた。

 だが爺と女の手前恥かしく、必死で様子に出さないよう努めていた。

 特に目の前の父の若い愛人の前では弱いところは見せたくなかった。

 坊ちゃんの荷物を用意された上座の部屋に置くと、爺は名残惜しそうに帰って行った。

 とんぼ返りをしないと湘南の碧生家に戻る頃には夜になってしまうのだ。

 さや子は熱い茶と洗いたての浴衣と丹前を持ってくると、すぐに廊下に控えた。


「お食事の時間になったらお声かけ致しますからそれまでどうぞ……お湯を使われる時は申し付け下さい。準備を致します」

「ありがとう。とりあえず疲れたから今は横になりたい。それと、この浴衣……」

「はい?」


 蒼太郎はふと意地悪な気持ちが湧いた。


「この丹前と浴衣、父がここに通うときに着る物?」


 さやは一瞬頬を赤くし、すぐ真っ青になった。

 射るようなまなざしで真っ直ぐに蒼太郎を見つめて言った。


「いいえ坊ちゃん。旦那さまのお召しものはすぐ出せる桑折にしまってございます。そちらはご家族から丈を聞いて私が縫いました物です。新しい物ですからお気にかける事なくお召しになってください」


 それでは……と、さやは襖を閉めて出て行った。


 さや子は実の名を「清」と書いて「さや」と読む。

 呼びにくいので皆は子を着けて「さやこ」と呼ぶのだ。歳は蒼太郎より4つ上の23歳だった。

 風呂の用意ができました、と言いに来た際に尋ねたのだが、女性に年齢を聞くのは実は大変失礼な事だ。

 だが相手は父の愛人だし、と見下す意識がどこか彼にはあった。

 なので聴き出した23歳という年齢に内心驚いた。その容貌と眼差しから、自分と同じかせいぜい一つ上程度だろうと思っていたのだ。

 風呂にさっと浸かり到着の日はさっさと寝てしまった。


 東京での奇妙な療養生活は小石川の家で始まった。

 彼は軍隊と同時に家からも見捨てられたという無常感に満ちて、ただ自分の部屋で書物を読み、疲れを感じれば横になり、たまに歩いて神田の古書店街に出かけた。

 途中すれ違う、神田周辺の大学で法律や文学を学ぶ学生達の姿が眩しかった。

 彼は中学卒業後ひたすらに空と飛行機を追ってきた。

 まだ地上での歩き方が分かっていないのだ。

 父の愛人は彼を放っておくようでいて、細やかに面倒を見てくれた。

 彼女は学校には通わなかったが、周囲の知識ある人々から素直に物事を聞き応用していくしなやかさがあった。

 食の細い蒼太郎の為にいつも好みそうな菓子を買い求め、少しでも滋養がつくようにと、当時珍しかったイギリス輸入の紅茶の葉を混ぜて牛乳を沸かしたっぷりの砂糖を入れた飲み物や、生姜の効いた甘酒を熱くして供してくれた。

 寒い時には布団の中にいつの間にか湯たんぽが用意されていたし、何時の間に用意したのか手縫いの綿入れ半纏や暖かな冬用の足袋、ネルのシャツなど細々と部屋の入り端に準備して置いていった。

 だが食事を一緒にとる事はなかった。

 蒼太郎が一人卓につき、さやはいつも慎ましく脇に控えて給仕をしていた。

 それは多分父がしげしげと通ってくる時も一緒なのだろう。

 そう考えるだけで味噌汁の味が苦くなる気がした。

 そして、お代わりに備えて静かに茶の間の隅に控えている父の若い愛人に対して、心痛む思いを感じた。

 ただ、決して彼女に心を許したわけではなかった。

 彼が彼女にお代わりを頼む事は全くなかった。

 風に吹かれればよろけそうな長身を黒い外套に包んで外に出ようとする蒼太郎を、さやはいつも心配そうに見送った。


 寒さが厳しくなってきた秋の終わりの夜。

 彼は早めに床に就いたはずなのに、軽い咳が続いて眠りそびれた。

 用を足そうと廊下に出た時、台所脇の小部屋に静かに入っていくさやの、白い浴衣の後ろ姿を見た。

 それはほんのちらりと目にしただけで、彼女は気づかず静かに襖を閉めてしまった。

 洗いざらしの背中に長く垂らした黒い髪と白い素足、匂い立つような上気したような背中は風呂から上がったばかりなのだろう。

 蒼太郎は突然思い出した。

 以前彼女、さやを目にした事があった。

 数年前、彼が予科練に合格した日の祝宴の夜だった。

 その時もこんな風に、早めに退席させてもらい床に就いた蒼太郎は、夜中に用足しに立った。

 祝い客がすっかり帰った祝いの後の座敷。誰もいないはずの室内から物音が聞こえ、厠に続く廊下の障子の隙間からそっと覗いてみた。

 まだあどけない、先日雇ったばかりの下働きの少女を、父が無理やり抱いていた。

 片付け途中の祝いの膳はひっくり返り、抱かれて嫌がる少女の掌の中で祝い箸の紅白の箸袋が握りつぶされていた。

 彼女を犯しながら、父は紙幣をその胸元に差し入れていた。

 蒼太郎は足音を忍ばせて廊下を駆け抜けた。

 それ以来、父に何とも言えない気持悪さを抱くようになってしまったのは事実だ。

 父は豪農として成功し、羽振りもよく体力も気力も充実した漢気のある人物だったから女にはもてた。

 だが15歳当時の蒼太郎の知る限り、それまでの相手は街の芸者か酌婦、粋筋の玄人の女であった。

 自分とそう歳が変わらないように見える、つい先日雇ったばかりの農家の娘な手を出すとは、と蒼太郎は嫌悪感を抱いた。

 自分と同じ小学校に通っていた、何学年か上でしかない娘ではないか。思い余って兄に見てしまった事を告げた。


「母への裏切りは許さない」


 だが「お前は子供だ」と突き返され、それきり相手にしてもらえなかった。

 さやはよりによってその時の少女だったのだ。

 翌朝、蒼太郎は出された朝餉に全く手を付けなかった。

 白粥と温泉卵、鯵の開きとお新香に大根と里芋の味噌汁。

 硬い表情で胡坐をかき、茶だけを飲む蒼太郎の前で冷えてゆく朝餉の品々を、さやはいつもの茶の間の隅から寂しげに眺めていた。


 蒼太郎はいくら世話をされても、父の若い愛人である彼女に心を開かなかった。

 満足に食事をとらない彼をさやは心の底から心配していた。

 だが父の妾である自分を嫌っているという事はひしひしと感じる。

 彼女は淡々と、家族から聞いた蒼太郎の好きなものを作り、栄養の為に牛乳や高価な果物や西洋菓子を買い求め、少しでも食べてもらおうと食卓に並べた。

 だがそれらは食べてもらえたりもらえなかった。

 食べてもらえるとしても蒼太郎が部屋に持ち帰った後の事で、彼女の目の前で食べてくれるという事は滅多になかった。

 食欲旺盛で元気な少年だったと家族に聞いてはいたが、彼の美味しそうに食事をする顔をさやはまだ見た事がなかった。

 よほど機嫌と体調がいい時は食事を残さないでくれるが、食べている表情は厳しく、味を楽しむというよりも修行をしているようだった。

 父親の世話になっている自分と暮らしている、という事は坊ちゃんにとって修行なのかもしれない。

 そう思うとさやは、食器を洗う音をたてないように注意しながら、物悲しい気分にしばし顔を俯けるのだった。


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