ギンヤンマ・2
5月半ばの太陽が格子のはめ込まれた狭い窓から差し込み、中はむっとするほど熱が籠っていた。
風が流れていないのだ。
澱んだ空気が充満していた。
その土蔵の奥に布団を一枚敷かれて、母はぽつんと寝かされていた。
兄の声に頭を上げたその姿に、蒼太郎は衝撃を受けた。
これが美しく優しかった母の姿だろうか。
顔は頭蓋骨の形が分かる程に痩せ、髪は乱れ、垢じみた浴衣から骨に薄く皮膚が張り付いたばかりの体が覗けていた。
幼い頃に自分が甘えて抱き着いた、綺麗な着物に包まれた母の豊かな胸とお腹。
それは全く面影もなく、今目の前にいるのは行燈の燃え尽きようとする灯心のような、細い糸の如き女性だった。
「蒼太郎さん、なぜ来たの。こんな姿のお母さんに会わなくともいいでしょうに」
弱々しいかすれ声は、だが確かに慕わしい母の声だった。
蒼太郎はあらゆる感情が一時に吹き上がってくるのを感じた。
彼は何も言えず、倉の入り口から少し入った所に立ち尽くしていた。
「蒼太郎、折角来たんだ。母さんにきちんと挨拶をして顔を見せてやれ。しっかりしろ」
兄が土蔵の入口で声をかけたが、絶対に足を踏み入れようとはしなかった。
蒼太郎は茫然としたまま母の布団に近寄った。
「お母さん……」
「こんにちは蒼太郎さん。元気でやっている?」
「はい……」
「お母さんこんなになっちゃったわ。貴方の言う事を聞いてすぐ街のお医者に行っていればよかったわね。大丈夫だと思って無理をしてしまった。ごめんなさい……」
喘ぎながら言葉を絞り出していた母は、突如激しく咳き込み、枕元の蓋つきの壺を手元に引き寄せた。
蓋を開けると中には水が入っていて、真っ赤な血痰が幾つも浮いていた。
母は全身を折り曲げ苦しげに激しく咳込み、壺の中に何度も何度も血を吐いた。
蒼太郎は思わず近寄って背中をさすろうとしたが、母は激しい勢いで振り返り
「近寄っては駄目」
と苦しい息の下で叫んだ。
彼は何もできずただ茫然と見ているしかなかった。
激しく咳込み、こみ上げる血を吐き続けると、母は次第に落ち着いてきた。
枕元の懐紙で口を拭うと、その紙も放り込んでから壺の蓋を閉め、布団にまた戻って行った。
蒼太郎は心が飛んで行ってしまったかのように目を見開いて母の動きの一部始終を見ていた。
「ごめんね。汚い姿を見せてしまって……ちょっと横になります。頭を上げていられないの」
「いえ……どうぞご自愛ください。構わないで」
母は埃臭い掛け布団を口元まで引き上げ、子供のようなまなざしで息子を見上げた。
「顔を見せてもらって嬉しかったわ。そうたちゃん。」
それはごく幼い時、また赤ん坊に毛が生えたような年齢の時に呼ばれていた呼び名だ。
蒼太郎は再び胸が詰まって色んな思いが一度にこみ上げてきた。だが、言葉にできた感情はごく僅かだった。
「お母さん、もう眠ります?」
「ええ。ただこうしているだけで疲れてしまうの。ちょっと眠いわ」
「じゃ眠るまでお話をしてあげます。お母さんの好きな海やみかん畑や、お魚の話」
「ありがとう。子供の頃と立場が逆ね」
蒼太郎はゆっくりと穏やかな調子で話し始めた。
ゆったり話さないと涙があふれてきて言葉が詰まりそうになるからだ。
ここに来るまでの間電車の窓から見たり、訓練中に学校から見える穏やかな光に溢れた春の海。
駅近くの港で水揚げされた新鮮な春の魚達が、籠の中で元気に銀色の体を光らせ跳ねる様子。
まるで銀の鋭利な刃物のような、美しく躍動的なその姿。
そして、母が大好きなみかん畑に今咲き誇っている白く香り高い花……
蒼太郎は口が達者な方ではなかった。
次から次へと言葉が流暢に出てくる方でもない。
一つ一つ言葉を選びながら、朴訥に間を置きながら、静かに語っていた。
母は弱々しく微笑みながら、末っ子がぽつぽつと喋る話を聞いていた。
初めは病み衰えて皺だらけとびっくりした母の顔だったが、今穏やかにまどろみながら自分の話を聞いているその顔は、次第に童女のようなあどけない安らぎに満ちてきた。
「蒼太郎さん、ありがとう」
話が途切れた沈黙の後、寄り添って自分を見詰める末っ子に、母は目をつぶったままささやいた。
「でももうここから出なさい。もう……あまり来ないように……」
そしてそのまま眠りに落ちて行った。
余りに静かに寝入ったので、心配になった蒼太郎は思わず顔を寄せて母の息を確認した。
やっとの思いで息を繋いでいるように、母の骨だらけの胸は眠りに落ちながらもゼイゼイと激しく波打っていた。
「おやすみなさい。お母さん……心安らかに……」
蒼太郎は静かに言い置いて立ち上がった。
立った時ふらりと少し体が揺らいだ。
まだ動揺しているせいだ。
蒼太郎は自分の心の弱さを恥じた。
土蔵の扉を開けて外に出ると、庭先で喫煙していた兄が煙草をもみ消して近寄ってきた。
「ずいぶん長いこと居たな」
「はい……」
「おふくろとも充分に話せたか?」
「いえ、まだまだ……なんか言葉に詰まってしまって……」
「無理もない。お前はお母さん子だったからな」
吸うか? と煙草を差し出しながら兄は微笑した。
厳しいだけと思っていた兄の意外な優しさに、蒼太郎は驚いた。
いいえ、自分吸わないので……と丁寧に断りながら、兄と並んで母屋に向かう。
「お母さんは、どんなふうに?」
「うん、この前お前が来て学校に帰った直後だった。風邪をこじらせたと言って少し調子が悪そうだったが、本人も俺達も大した熱もないしとたかをくくっていた。今年の風邪はしつこいねと話していたのに、昼ご飯の支度中に突然ばっと血を吐いて倒れたんだ」
蒼太郎は歩いている足から力が抜け、自分のものではないような気がした。
「お前も見たろう、お母さんの様子を。もう先が長くないとお医者は言っている。どのくらいとは言われないが、もういつ死んでもおかしくないと」
「そんなに……」
「ああ。見舞いに及ばずとは言ったが、可愛がっていたお前とこうして逢って話ができたのはお母さんには良かったかもしれない。お前に移る心配はあるけれど」
母屋に着くと蒼太郎は兄に礼を言って、狭い自室に閉じ籠ってしまった。
父に「取り乱した姿を俺に見せるな」と言われた通り、今、自分を失わずに父と兄ときちんと話ができる自信がなかった。
窓の障子を通して注ぐ柔らかな日の光の満ちる中、彼は座卓の前にじっと座ってうなだれていた。
長身の背中を丸め細い体は小刻みに震えていた。
母がもう長くない。その事実は甘えん坊の蒼太郎を打ちのめすに十分だった。
その日の夕方五時過ぎの事だった。
武装した海軍の青年将校達が総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を射殺した。
その他内大臣公邸や大手銀行なども襲撃した。
多数の民間人も参加した大規模な同時多発のクーデターであった。後世に言う「五・一五事件」である。
ちょうど蒼太郎は学校の最寄り駅に帰り着いていた。
予科学校にも学生と教員の待機命令が出ていた。学生は担当下士官に帰還の報告をしなければならない。
碧生蒼太郎は下士官の前に立ってもボーっとしていたままだったので、この非常時にと鉄拳で殴られてしまった。
鉄拳制裁は軍隊に置いては珍しい事ではなく、受ける方もベテランになるとうまく力を逃がす方法を会得して、最小限のダメージで済むようにやり過ごす。
だがこの時の彼は心ここにあらず状態だったため、その場に昏倒して鼻血を出してしまった。
情けない姿だと口汚く罵られて立ち上がった彼は、手のひらで拭ったその血に喀血して苦しむ母を思い出した。
母は死の国に迎え入れられようとしている。
今は元気に見える自分達も死に向かって突っ走っている。
確実なものなんて何もない。憧れている空だって、学校の前に広がる海だって、この大地ですら。
事件は首謀者と実行部隊の海軍将校、陸軍士官学校生等の自首で終息した。
死者は首相の犬養毅と警備の警官一名のみ。
他に首都の中枢、首相官邸、日本銀行、警視庁、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行と襲撃し、負傷者を出した。
これほどの大規模クーデター未遂にもかかわらず裁判での判決は軽いものだった。
海軍将校は横須賀、陸軍士官学校生や民間人は、東京地方裁判所で裁かれたが、反逆罪で訴追され死刑を求刑されたにもかかわらず誰一人として死刑判決は出ていない。
この甘い処分の結果が、後の昭和11年の2・26事件への引き金になるとは、この時誰一人知る由もなかった。
昭和7年9月23日。
残暑が厳しく日差しの強い日。海軍予科学校の碧生蒼太郎の元に母が死んだと電報が入った。
ケイトウの花が真赤に咲き誇る日だった。
許可を得て校門を飛び出した蒼太郎の目に、キラキラと光るものが映った。
道端に落ちているトンボの死骸だ。
陽の光を受けて、透き通る羽根に反射させながら、びっしりとたかった黒いアリに曳かれていく、ギンヤンマの亡骸だった。
蒼太郎は一瞬立ち止まり、大きく目を見開き、我を忘れてその列を見つめた。
「さようなら、蒼太郎さん」
ギンヤンマが話しかけた気がした。
碧生蒼太郎は足が地面にくっついたように動けないでいた。
不審に思った門の歩哨が怒鳴りつけるまで、彼は青ざめた顔でただ立ち止まっていた。
昭和8年(1934年)
碧生蒼太郎は長期間の咳と微熱が続いていた。
咳は激しくむせかえるようなものではなく軽いもので、訓練や座学に支障はなかった。
ただ軽い発熱が止まず体力が落ちたような気がするのが悩みだった。
教官や指導の下士官も風邪がなかなか治らない蒼太郎を心配していた。
訓練生としての期間もあと一年。20歳になったら卒業し、いよいよ一人前のパイロットとして赴任するのだ。
蒼太郎は青白い顔に微熱で頬を紅潮させ、歯を食いしばって厳しい訓練について行った。
成績も抜群なこの長身の青年は、優秀な飛行士になると前途を嘱望されていた。
秋の日、湘南の空にトンボが群れを成して飛び交う穏やかな日。
まだ青いみかんが徐々に黄色に色づき始めた日。
碧生蒼太郎は陸上戦闘の訓練中倒れた。
指導教官達は陸戦は得意な奴にしては珍しいと訝しがった。
相手の銃剣の当たり所が悪かったのか。近寄って怒鳴りつけても蒼太郎は地面に伏したまま起き上がれなかった。
木刀で体を転がすと、グランドの固い土の上には彼が吐いた真っ赤な血が幾筋もこぼれていた。
彼の肺には穴が開いていた。
死んだ母のような激しい咳が出なかったため、まさか自分が罹患したなどと思わなかったのだ。
碧生蒼太郎は重症の肺結核と診断され海軍を除隊された。
19歳。パイロットとして基地への赴任直前であった。




