空は遠く・近く・2
昭和20年8月15日。
空襲警報もアメリカの飛行機の音もしない、妙にしんとした穏やかな朝だった。空襲であちこち焼かれ破壊された四ツ谷の街の大通りから路地を、隣組の男達の自転車が走り回っていた。国民服に身を包み、軍の使いの如く威張っている隣組の指導員は大声で怒鳴っていた。
「本日正午、全員ラジオの前に居るように。日本国臣民にとって極めて重大なる放送があらせられる。全員ラジオの前で待機するように」
「やれやれ、せっかくの貴重な静かな朝が台無しだわね。あの怒鳴り声で」
リカは夫の蒼太郎と娘の亜希子と共に目覚めた。寝室に強烈な朝日が差し込んでいる。今日は防火訓練もないのかな。珍しいなあ。暑さにうだる寝室で、せめてもと黒いカーテンを開き、ガタガタと軋む窓を開けた。とたんに涼しい風が室内を吹き抜けた。
「今日は珍しくいい日だね。とても静かだ」
青白い幽鬼のように痩せ細った夫が床から囁く。
「そうね。防火訓練が無いようなら後で何か買い出しに行ってくるわ。起き抜けで悪いけど先生は何が食べたい? 」
「夏の空と入道雲を丸い果実として実らせた、西瓜が食べたいねえ」
蒼太郎は目を輝かせて枕から頭を上げた。汗ばんだ寝巻の浴衣から浮き出た骨が見える。痩せた、というより骨格標本に皮を貼ったという状態だ。
「立原道造ね。五月の爽やかな風をゼリーにして食べたいと言った詩人……」
「材料が手に入るようになったら、リカの作った『ぷでぃんぐ』もいいね」
「貴方、茶わん蒸しと間違えて食べるのをためらっていたじゃないの」
「よく覚えているね」
「そういう事ってよく覚えているのよ。教育勅語は暗唱できなくてもね」
お腹空いたよ、朝ごはんにしましょうよお、と亜希子が二人の体を揺すってせがんだ。穏やかな朝だった。ご飯と言っても庭で育てた野菜に、芋、雑穀の雑炊なのだが。
正午。
時報に続いて日本放送協会の和田信賢アナウンサーにより、これから重大なる放送が行われると、起立を促すアナウンスが行われた。だが正午の時報が鳴った時点で間宮家の茶の間にいた人々は皆起立脱帽してかしこまっていた。がりがりと盛大に雑音が鳴る茶の間のラジオの前に、間宮家、碧生家、柘植家、そして家を焼け出されて身を寄せている同じ町内の家族が整列し、ガガガ、ギリギリという身も心も軋むような雑音を聴いていた。
アナウンスの後は下村宏国務大臣兼内閣情報局総裁の、天皇陛下直々の御言葉を賜るとのアナウンス。そして盛大な雑音の合間合間に、古式ゆかしい抑揚の声が聞こえた。大元帥天皇陛下の声だ。あまりに難解な言葉で、しかも雑音のせいで何を言っているのか聴き取れない。
「ねえリカちゃん、なんて?」
「分からないわ」
間宮家のラジオは電池が切れかけていたので、雑音もお声も急に小さくなったり、果ては数秒途切れたり。まともには聞こえなかった。
「最後の一人になるまで戦い抜けと仰せなのではないかな」
避難してきた近所の一家の、腕の火傷に包帯を巻いている父親が、ぼそっと言った。
5分足らずの天皇陛下の御言葉の直後、とうとう電池が切れてぷっつりと鳴らなくなった茶の間のラジオに一礼し、間宮家に集った人達は夫々自分達の生活に戻って行った。
リカと娘の亜希子は食料の買い出しに出かけた。終戦に伴いやがて国家による物資の配給が止まり、戦争中より苦しい飢餓状態になる事を、国民はまだ知らない。
「先生、蒼太郎先生」
「お父様ったら」
風の通る寝室でよく眠っている蒼太郎は、妻と娘が声をかけても気持ちよさそうに寝息を立てたまま目を覚まさない。母娘はせっかく珍しく咳も出ずに寝ているのだからと、それ以上声をかけずに出かけて行った。
8月半ばの空は眩しく高い。空襲警報も鳴らずとても静かな日。薄い、汗の沁み込んだ煎餅布団で碧生蒼太郎は眼を開けた。
光だ。なんという眩しい光だろう。空が8月の強靭な光で覆われている。眩しさに圧倒されてしばし目をつぶっていた蒼太郎は、爽やかな気分で起き上がった。あれほどしつこかった咳が出ない。喉に絡みつき息をふさぐ痰もない。素晴しい日だ。
碧生蒼太郎はしっかりとした足取りで庭に降りた。皆どこへ行ってしまったのだろう。買い出しや建物疎開、演習に行ったのだろうか。でもそれにしては何時も聞こえる勇ましい掛け声や喧しい軍人の怒鳴り声がしない。全ての音か消えている。何だろう、自分だけ隔離されてしまったようなこの違和感は。
8月の庭には野菜や豆に交じって夏の赤い花が咲いている。全身趣味に生きる絵師・故片桐惟人が愛した西洋の花・ダリヤだ。いつの間にかリカがアトリエの跡地から移植したのだ。
美しく派手やかな花の咲きっぷりに、蒼太郎は机の引き出しから大事に使わずに置いたメモ帳とガラスペンを出して来た。ガラスペンは一度ペン先を漬けると長く書き続けられるインクの持ちの良さから、彼は愛用していた。
花の美しさはいったいどこから来るのか。こんなに死と荒廃が身近に迫っている世界なのに。彼は夢中で瑞々しい花や艶々とした葉、凛とした若枝の様子を描写し始めた。庭の外は歩いている人も居らず、ラジオの音も軍事教練の掛け声もしない。
ふと妻のリカと娘の亜希子の声が聞こえた気がして、彼は歩きだした。狭い庭の木戸を開け、家の前の路地に、そして大通りへと。汗ばんだ男物の白と藍の浴衣と下駄姿の彼は、このご時世の街中にあっては大層目立つはずである。だが大通りにも人っ子一人いない。
なんて気持ちのいい日だろう。きっと妻と娘は買い出しに行って、すぐ近くまで戻っているのだ。迎えに行って驚かせてやろう。
彼は悪戯心を起こして歩き出した。やがてその足取りは早足になり、ついには軽やかに走り出した。
見上げると、どこまでも青い空だ。雲がみるみる切れて、晴れから快晴。絶好の飛行機日和だ。こんな日に飛ばさないで何時飛ばす。
彼の駆ける足元はいつの間にか一面のレンゲ畑になっていた。青い空の端の色がすこうし薄くなっていて、行く手の空一面に大きな虹がかかっていた。
走っているのは一人ではない。いつの間にか着物に兵児帯を閉めた裸足の子供達が、大勢一緒に走っている。ワーッと意味もなく歓声をあげながら、身体の中から湧き上がる力のままに走っている。まるでサバンナを駆ける美しいトムソンガゼルの群れだ。
と、彼は花を咲かせたレンゲに足をとられた。二・三歩たたらを踏み、もんどりうって顔から地面に叩きつけられた蒼太郎は、首元にちりっとした痛みを感じた。転んだ拍子に刈残した稲の株でひっかいたのだろう。
顔をあげると、目の前に、自分と同じように転んだ少女に手を貸して起き上がらせる少年がいた。
あれは、あれは誰だろう……
「自決だ」
「この作家さん、元軍人さんだっていうから……」
「ペンで喉を突いたって……」
「宮城の方を向いて自決したんだ。立派な最期じゃないか」
8月15日の夕方。
四ツ谷の間宮家に、戸板に載せられむしろをかけられた碧生蒼太郎の体が運び込まれた。首に折れたガラスペンが深く刺さり、頸動脈からの出血はもう止まっていたが、筵の端からだらりと垂れた手先や裸足の足指は真っ青で、既に死後硬直が始まっていた。
妻のリカは涙も出なかった。四ツ谷から離れた宮城の近くのお堀の傍で見つかった蒼太郎は、首にペンが突き立った状態で、両手足を大きく広げ、空を飛んでいるようにうつぶせに倒れていたという。
『蒼太郎先生、今になって飛ぼうとするなんて。ちょっと遅かったし無茶もいいところだわ』
泣きじゃくる娘の亜希子を抱きしめ、運んでくれた人達に頭を下げて礼を言うと、リカは心の中で呟いた。
日本国内は終戦のこの日を境に何もかも変った。自身も従軍作家として軍に同行し文章を発表したとして、戦争協力者・間宮リカが文壇から遠ざけられたのは間もなくの事だった。リカだけではない。多くの作家、評論家、詩人、音楽家。『表現者』が『軍におもねった』表現したが故に公職を追放された。
先頭に立って彼らを攻撃したのは、かつて父の書生だった槇村や湯浅神父、絵師片桐の仲間。当局の弾圧に遭っても転向せず、思想犯、共産主義者として特高に捕まり戦後釈放されたプロレタリア作家達だった。




