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空は遠く・近く・1

 昭和19年の大晦日、夜10時近くに警報が鳴った。

 既に寺の鐘は金属拠出で失われた寺が多く、大晦日の東京の空に響いたのは空襲警報、そして爆撃機B29の翼の音と焼夷弾投下の音、そして機銃の音だった。爆撃は夜半過ぎに二度目、そして明け方に三度目と繰り返され、空は正月の神社の篝火のように明々と照り渡った。それは渋谷や目黒、高輪からも見える程であった。

 下谷、浅草、本所向島地域に焼失被害を出し、5人の死亡が確認されている。来たるべき3月10日の下町大空襲の予行演習のような空襲範囲は、その後なぜか山手線の内側に範囲を移している。

 米軍の攻撃目標がより広い範囲に検討、立案されていた事を示すものだったかもしれない。


 新年の祝い気分もない年明け早々、碧生蒼太郎は喀血し、練馬の療養所に再入院した。従軍作家活動と、元海軍パイロットという肩書のために都内各町内の防空訓練や訓話に駆り出された事で疲弊し、治癒したと見えた持病の結核が再発したのである。

 入所したのは前回と同じ東京市立療養所だが、退院していた2年の間に院内の様子はだいぶ変わっていた。医療用物資の不足、患者への配食の不足は明らかだし、人手も足りず、付き添いのない患者達の不衛生な様子は目についた。

 結核療養所なので薄い壁の各部屋の窓は開け放たれ、身を切り裂く冷たい風が病室と言わず廊下と言わず吹き荒れていた。その寂寥感に付き添ってきたリカとヨハネは首をすくめた。


 病室のベッドは相変わらずぎしぎしと軋み、古いシミも付いていた。何人もの患者がこの寝台の上で、もがき苦しみながら命の火を消していっただろう。

 元結核患者でもあるヨハネを早々に帰すと、リカはありったけの夜具や冬用の上着を蒼太郎に着せ、分厚い靴下をはかせ、薄い布団の上から重ねた。夫のくっきりと頭蓋骨の形までむき出しになった顔、落ちくぼんだ眼窩、突き出た頬骨と、関節が一個一個数えられる程に細くなった首。

 リカは小さくなった夫の顔を両手で挟み、口づけしようとしたが、夫は拒否した。


「口づけは絶対に良くない。君に移ってしまう」

「私は大丈夫です。構わないわ。このご時世いつ死ぬかなんて誰もわからないもの」

「いや、君は生きなさい。僕は元々若い頃に一度死にかけた身だ。君と出会って息を吹き返したとはいえ、それは余生みたいなものだったんだ」


 蒼太郎の声は吐息に音が載った弱々しいもので、耳を寄せてやっと聞き取る事ができた。


「だからそう近くに顔を寄せるんじゃないよ。離れなさい」

「余生だなんて言わないでください」

「いや、人生はみな一瞬の光の中の残像だよ。それを瞼に焼き付けたまま残りを生きていくんだ。貴女はまだ光の中にいるから大丈夫だよ」


 その夜、リカはペコペコにへこんだ病室の床に薄い布団を敷き、外套を着たまま横になった。綿入れは全部蒼太郎の体にかけたので、自分は寒さに震えていた。

 夜はさすがに窓を閉めるが、古い建物の隙間からは容赦なく冷気が入って来るのだ。


「明日は家に帰りなさい。これは僕からの命令だと思ってください。貴女は亜希子達のそばに居て、お母さんやヨハネ君と亜希子を護ってください。さやさんと光君もいる」

「どうしても帰らなければなりませんか? 」


 リカの呟きはしんとした夜の空気に溶けて消えた。夫の手を握ると、骨と血管の位置も形も全部分かる、餓鬼絵のような細さだった。


「どうしても。僕は元気になって帰るから。余生は余生として一日でも長く現世に留まりたいからね」


 翌朝、眼に涙をためて振り返りながら帰って行く妻の姿を見送りつつ、蒼太郎は同じ病で逝った母を思い出した。

 まだ海軍飛行学校の学生だった頃、見舞った自分を見送る母のあどけなく感じた目は、きっと現世の色んなしがらみや欲望から少しずつ引き離され、世界に拒絶されていった人の悲しみの目だったのだろう。だが自分にはまだ戦いが残されている。日本が戦っているように、自分も戦い続けなければならない。

 蒼太郎は、従軍作家として書き上げて提出した、海軍飛行隊基地の訪問記が、情報局の逆鱗に触れボツになった事を知らなかった。


 やがて3月に入り、それまで局地的なものが多かった東京への空襲は、昼夜を問わず大規模なものとなった。

 3月10日。日付が変わったばかりの0時7分過ぎ。深川、本所、浅草、日本橋区に第一波の焼夷弾が落とされた。まずぐるりと輪を描くように目標の広範囲に炎の壁を作り、住民を閉じ込め、慌てて目を覚ました人々が逃げられないようにした後、ゆっくりと時間をかけて中心部に焼夷弾を落としていった。

 記録によればその夜は極めて強い季節風が吹き、まるで野焼きのように燃え広がり、はじめは日頃しつこく指導されていた消火訓練にのっとり火を消そうと努める人々をじりじりと追い込んでいった。


 たまたま前日、卒業式のために疎開先から東京に戻って来た小学校があった。久しぶりの家族団欒に安心して寝入った六年生の子供達は、逃げ惑ううちに次々と紙に火が付き、火だるまになり、燃え落ちた家屋の崩落に巻き込まれ、焼け死んだ。

 通りという通り、路地、全てに火が付き、風にあおられて炎の吹雪となって人火 戸を巻き込んだ。悲鳴、助けて、熱い、死にたくない。全ての言葉が町が燃える、否世界が燃える竈の中に飲み込まれ、動くものはなくなっていった。


 0時20分。第二派の攻撃が港区、神田、麹町、渋谷、赤坂、大森、世田谷等広範囲に焼夷弾を落とした。日本軍の迎撃機は大幅に遅れ、高射砲による地上砲火もほとんど用を為さなかった。

 米軍の使用したナパーム焼夷弾の中身は粘り気のあるゲル状の油脂で、人間の皮膚上の皮脂になじみやすい事から、投下・炸裂して飛び散ったナパームの炎は水では消えない。隅田川や横十間川に飛び込んで逃れようとした人々を炎が舐めて焼き尽くしたのも、水の表面に浮かんだまま勢いを衰えさせることなく燃え続ける、その威力の為である。

 下町の川という川、防火用水の壺、皆飛び込んでは焼かれ、人の姿の炭となった遺体はいつまでも燃え続けた。900℃から1300℃という超高音の炎の壁の中、何万人もの人々は炎の隙間の出口を探して右往左往し、火の壁にぶち当たり、熱せられた空気に自然発火して燃えていった。動く蝋燭のような人の形の炎の塊がふらふらと揺れ、やがてくずおれてそのまま消し炭になって燃え尽きても尚火勢も攻撃も止まなかった。

 助けて下さい、せめて子供だけでも。言葉は激しい火災旋風に乗ってかき消された。

 この一晩で失われた命は推定10万人。罹災者は100万人を超える。


 療養所のある練馬当時は板橋区の一部 からも夜空を明々と焦がす炎が見えた。碧生蒼太郎はもはや飛行機が悪魔の道具であることを痛感した。


 この3月10日の下町大空襲の後は、帝都防衛の高射砲も迎撃機も役に立たぬほどの攻撃機、爆撃機の数と焼夷弾の量で、東京と言わず日本中に襲い掛かった。

 迎撃がないと見越した米軍機による、逃げる人々への低空からの機銃掃射は容赦なく、撃たれた人達の体はざくろかスイカ割りのスイカのように弾け、内臓や脳漿をまき散らした。東京は実に100回以上の空襲を受けた。その大半が軍事施設というより一般市街地を狙ったものだった。数日おき、もしくはほぼ毎日空襲警報は鳴り、どこかで繰り広げられる焼夷弾の落とされる音、着弾の音、間を縫って繰り出される機銃掃射の音は体に染み付いてしまった。


 5月24日。

 療養所の近くにも焼夷弾が落ち、患者達は逃げ惑った。

 蒼太郎は国民服に着替え、靴を履いて建物から逃げた。持参した金と重要と思われる書類、そして家族の写真を体に着け、ぶかぶかになってしまった国民服のまま、燃え盛る街に飛び出していった。この日の空襲は死者762名である。


 翌5月25日は、山の手大空襲と言われる猛烈な爆撃が都心部及び城南部を襲った。東京駅や国会議事堂も焼け、火は皇居にも及んだ。宮城内の明治宮殿も焼失し、7千人以上が死傷した。また陸軍刑務所に収容されていた米軍捕虜62人も焼死した。


 どこをどう彷徨ったのか、碧生蒼太郎が再び家族の元に戻ったのは山手空襲の翌日、5月26日の午後だった。途中何度も血を吐き、倒れ、そして歩き続けての帰還だった。あちこち焼け焦げた国民服は黒くすすけ、そこら中に自分が吐いた血の染みが付いていた。暑く焼けた路上を歩いてきたので靴の底は焦げ、戦時下の粗悪な素材のため、縫い目から火が入り、焼けた。蒼太郎の両足の甲と底は火傷でべろべろと剥けていた。それでも彼は帰ってきた。四ツ谷の坂道を焼け焦げた石塀に凭れ、転がるように玄関に入ってきた夫を、リカは抱きしめた。


「早く、姉さん」


 朝から焼け跡の片づけに出ていたヨハネは戻るなり、枯れ木のような義兄を抱きかかえて奥の寝室に運んだ。蒼太郎の意識は数日戻らなかった。

 四ツ谷区や新宿淀橋、代々木、渋谷、豊島や目白台と都心至る所が焼けくすぶった中、娘と夫を自分一人で背負い込もうとする娘に、母はすました顔で諭した。

 なけなしの米を、あんたのダーリンに、と持ってきてくれた後である。


「リカちゃんの、全部自分で乗り切ってみせるって考え方はカッコいいけど、実際的じゃないわ。そうやって一人でしょい込んで共倒れになったら、今度は二倍三倍の負荷が別の人にかかるのよ。突っ張った木の枝は遅かれ早かれ折れるの。その辺見極めないと」


 そして早口で囁いた。


「この国だってそうよ。こんなに毎日やられてるのにラジオの大本営発表じゃ負けていない勝っている、もう一息だなんて。誰が信じるものですか」


 息子が軍と一緒に映像を撮っているのに、あたしったら失礼な奴よねえ。これじゃ娘に嫌われるはずだわ。そう言って母は笑った。

     

 昭和20年8月9日。

 その日長崎は朝から雲に覆われていたが、朝もやが晴れるように、時間を追うごとに青空が広がってきた。今日も暑い日になりそうだ。カトリック長崎司教区の司教座聖堂である浦上天主堂の、テラコッタ色の2本の尖塔と白い縁取りは、夏の強烈な光の下に明るく照り映えていた。

 朝から鳴り響いていた警報は10時頃には止み、街は働きに出る人々、学校の授業、商売、その他の市民活動が始まった、いつもと変わらない朝であった。

 広島に落とされた新型爆弾の話は、全国の県や市町村の首長に伝わり、長崎も警戒に入っていた。何しろぴかっと光ったら全てが瞬時に破壊されている。そんな逃げようのない爆弾という話が広まっていた。

 だがこの日、戦時下ではあったが長崎のカトリックの象徴というべき教会、浦上天主堂では8月15日の聖母被昇天のミサに向けて告悔ゆるしの秘蹟が行われていた。


 『聖母被昇天」とは、この世の人間として受肉されたキリストを生んだ聖母マリアが地上の死の際に天使達によって天上に引き上げられたというキリスト教・カトリックの祭日である。その日を清らかな心身で迎える為、今まで犯した罪を神父に懺悔し、罪の許しを請い反省して祈る。告解とは世界中のカトリック信徒達が行う祈りの一つである。

 荘厳な浦上天主堂は当然信徒も多く、朝から大勢の人々が懺悔に詰めかけていた。主任神父の西田三郎師、助任神父の玉屋房吉師は告悔室に入りきりで、列をなす信徒らの懺悔を聴いて赦しを与えていたが、とてもとても追いつかない。神父達は近隣の教会に応援を求めた。

 一番近い教会からミカエル湯浅神父が応援に駆け付けた。昨年東京から赴任してきた神父だが、この地の司牧生活に慣れようと一生懸命だと評判だ。


 使いの少年侍者と共に天主堂に急ぐ湯浅神父は、坂を上る途中、汗を拭くために立ち止った。見上げた青空の中に、ちかっと光る物を見たような気がした。それはテニアン島から飛び立ったB29「ボックスカー」だった。そして全ての音が消えた。


 昭和20年8月9日午前10時58分。

 高度9000メートルからプルトニウム239型原子爆弾『ファットマン』は手動で投下された。その4分後、長崎市浦上地区上空で炸裂した。

 浦上天主堂に集まった大勢の信徒、二人の神父、天主堂の入口に着いた湯浅神父と侍者の子供。近くの長崎医科大の教授陣や学生、患者達。人々は光と炎と爆風の中に蒸発していった。

 廃墟の天主堂跡には黒く焼け、溶けた聖アグネスや聖母マリア像、吹き飛ばされた鐘が残った。その時に聖堂や教会の周り、医大の内外にどれだけの人がいて、焼け焦げ溶けて消えていったのか、はっきりとした数は今でも分からない。


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