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青と蒼の間

 昭和21年2月11日。

沖縄本島を出発したすし詰めの復員船が、三浦半島の浦賀に帰還した。柘植一等兵の所属する陸軍歩兵第三連隊が、防衛にあたっていた宮古島から沖縄本島を経由して帰って来たのだ。

 浦賀港に上陸して解散となった歩兵第三連隊は、久しぶりの内地の寒さに震えながら各人バラバラに帰途に着いた。ある者は徒歩で横須賀の町に向かい、またある者は浦賀の駅から私鉄に乗った。

 鎮守府のあった横須賀は彼と親友・碧生蒼太郎の故郷、みかんのなる陽だまりの丘の村の近くだったが、生まれ育った地に係累のいない柘植は真っ直ぐ東京を目指した。愛する妻・さやと息子・光に逢いたい。その一心が宮古島での飢餓と組織内制裁、マラリアから彼を生き延びさせた。

 すし詰めの現在の京浜急行本線に乗って、新橋に降り立った柘植は、そのまま都電に乗り継いで四ツ谷へ向かった。彼が軍役について本土にいない間に、東京市は東京都になっていた。


「おかえりなさい」


 さやと息子は荒木町の間宮家から舟町の粗末な借家に戻っていた。

 転戦の際ほんの一時戻った時と同様、妻は自分の軍靴の音を聞き分け、手早く纏め髪と顔に手を入れて整え、玄関に迎えに出た。小学校から帰った息子は


「おかえりなさい、お父さん」


 と、母に代わって父の重たい背嚢を受け取り、玄関に脱いだ軍靴を揃えた。いつもこうやって助け合って生きてきたのだろう。柘植は妻の荒れてささくれ立った傷だらけの手を握り、抱きしめた。息子の光も抱き寄せ、固く抱き合った。

 夫の親友・柘植譲二が帰還したという知らせを聞きつけ、碧生リカとその娘亜希子が顔を見せた。


「おかえりなさい。御帰還おめでとうございます。お勤めお疲れ様でした」


 笑顔で声をかける親友の美しい妻と娘は、喪に服したまま黒い服を着ていた。



 真っ黒な画面の上半分を、下半分の光る地面が照らしている。


「I'm going to step off the LM now」(これより着陸船から足を踏み降ろす)


 冷静な男の声と口調とは裏腹な荒い呼吸音が、テレビ画面から聞こえる。


 昭和44年、日本時間7月21日午前11時53分過ぎ。

 アメリカの月面着陸船・アポロ11号からアームストロング船長がタラップを降りる映像が全世界に放送された。

 全身を重装備の白い宇宙服に覆われ、ヘルメットのバイザーに月面の様子を反射した宇宙飛行士は、地上から空へと飛び立ち、その空をも振り切って宇宙を駆け、月に到達したのだ。

 太平洋戦争の終結から四半世紀足らずの24年目。当時は超高高度からのB29の爆撃が世界を恐怖に陥れたが、今は戦争中の兵士達も、紛争中の地域も、ベトナムもクレムリンもベルリンも、世界中が宇宙飛行士達の一挙手一投足に目を凝らし、送られてくる月の様子にリアルタイムで息を飲み、飛行士の会話に耳を傾けている。


「That's one small step for a man, one giant leap for mankind」(これは人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては大きな飛躍だ)


 アームストロング船長が月面に足を着いた。地面はふわりと細かい霧のように舞い上がる。


「みかねえ、月の砂漠って海岸のそれっていうより、メリケン粉の浜辺みたいねえ」

「そうですねえ。もっとざらざらしているのかと、ねえやは思っていましたけどねえ」


 メキシコの小さな町の白い壁の家。南国の樹木に囲まれたコロニアル風の明るいロッジの中で、サングラスをかけたアジア系の精悍な男が、年老いた召使とテレビを見ていた。

 ソビエトを脱出し、メキシコに亡命したレフこと富士見レオ少年の45歳の姿だった。

 日本にいた幼少期からずっと傍を離れず仕えてきた乳母のみかねえは、すっかり年をとってしまったが、モスクワからパリ、イスラエルを経てアメリカ経由メキシコの主人の逃避行に付き従い、いま亡命先の家でも甲斐甲斐しく世話をしている。

 スターリンの独裁が終わり、事実上の後継者だった上官のラヴレンチー・ベリヤが粛正されると、レオはかねてより準備してきたルートを使い、日本人の旅券を偽造してソビエトを脱出した。この暑い中南米でやっと安住の地を得たかに見えたが、ソビエト秘密警察の追跡者がいつ自分を消しに来るかわからない。政治亡命者であるレオには心の休まる時はなかった。ワンナイトラブの相手は豊富だが、けして相手には入れこまず、自分の生活には立ち入らせなかった。おかげで45歳の今でも独身で、老女の乳母と暮らしている。

 こういう生活も悪くない。宇宙を飛び、月面を歩く宇宙飛行士達の姿を見ながら、レオは昼からラム酒のカクテルを呑んでいた。


「呑みすぎはご法度ですよ、坊ちゃま」

「はいはい。でも今日くらいいいでしょ。人類が月に立った記念日だもの。みかねえもちょっと飲まない?」

「……ほんの少しですよ」



 宇宙は暗い。窓の外に広がる空はこんなに明るく青いのに。


「じゃお母さん、行ってきます」

「亜希子、またデート?今日くらいゆっくりテレビ見ていればいいのに」

「うん。だから合流して彼のアパートで見るの。今日は遅くなるか、泊まって来るわ」

「はいはいご自由に」


 50代になっていた碧生リカは、じゃあねとドアを開けて出て行く娘の後ろ姿を見送った。鍵をかけるとまたテレビの画面に向かう。

 早朝の5時過ぎからずっと中継は続いている。のんびりテレビを見て、自分達の頭上に焼夷弾をまき散らし、原爆を二発も投下した国の宇宙飛行士に声援を送る。


「いい時代になったものだわ」


 リカは台所のキッチンテーブルに座り、冷蔵庫から冷たい水を出して飲みながらテレビに集中した。冷凍冷蔵庫。24時間物が冷やされ、氷を作る事ができる。全く便利な物が次から次へと世に出てくる。


 戦争が終わって24年。ずっと物書きを続けてきたリカの人生は平穏ではなかった。

 戦争が終わると軍協力者として糾弾され、作品は封印され発表の機会が閉ざされた。終戦時に死んだ夫の碧生蒼太郎も、自分と同様従軍作家・軍の御用作家として、文壇から抹殺されていた。

 だが朝鮮戦争が終わり、日本が戦後復興・反共・日米協力体制の波に乗って来ると、戦前から力を持っていた実業界、文壇、芸術界の保守派の面々の巻き返しが始まった。

 夫の著作は真っ先に復刻され、悲劇の元軍人作家として売り出された。彼の繊細な詩や随筆は学生運動の最中にある大学生や、早熟な中高生によく読まれ、人気らしい。それがいい事なのか、学生時代から彼の一番のファンであり続けた妻のリカには分からない。

 一方自分が長年書いてきた子供向けの作品、児童文学も復刊され、売れ行きは地味だが各地の図書館や児童館の本棚にボチボチ揃えられている。今も精力的に執筆を続けているリカは、そろそろ大人向けの小説も発表したいのだが、温かい作風の児童文学者という取り付けられた看板に苦戦をしている。


 テーブルには今朝の新聞。一面に大きく踊るのはもちろん『アポロ今朝にも月着陸』という一報だが、ベトナム戦争、学生運動、過激派の破壊活動、成田闘争……見出しの文字がひしめき合っていた。青い空の上はテレビに映る通り真っ暗かもしれないが、こんなにも死と生が対峙しあっているこの世界の上の蒼は、夫・碧生蒼太郎が愛した青だ。


『テレビじゃ真っ暗な死の世界だっていうけれど、空の上は本当はどうなっているんでしょうね、蒼太郎さん』


『ずっとずーっと青い空気と白い雲が続いているんだよ。そしてその上に本当に尊いものが待っていてくれるんだよ』


 夫の明るい声が聞こえた気がした。

 貴方はそこで待っていてくれるんでしょう。碧生蒼太郎先生。


リカは呟いて、くすりと笑った。


(了)


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