従軍作家・2
1944年(昭和19年)春。
碧生蒼太郎は日本文学報国会の事務局に呼び出された。元海軍の作家として従軍作家としての任務が与えられたのだ。陸軍には現役軍人の芥川賞作家として一躍有名になった火野葦平が居り、中国戦線に取材し「麦と兵隊」「土と兵隊」とヒット作を飛ばし陸軍情報局を満足させていた。海軍もそれに倣ったのである。
朝鮮半島北部の元山海軍航空隊、台湾の東港海軍航空基地、海南島の海口と、軍と共に前線を回り兵士を慰問してカメラマンと共に取材し、帰国して戦意高揚の作品を書いて発表するのだ。撮影隊には義弟のヨハネも参加する。
4月。他の補充要員と共に兵員輸送船で、まだ寒い朝鮮半島の元山に渡ると、そこは既に、出撃しては次々機体を失い荒んだ基地で、最盛期の面影もなかった。
所属していたのは第七五五海軍航空隊だが、あまりに消耗が激しく、他隊と連合し二個飛行隊として活動している有り様だった。燃料もほとんどない基地では、整備兵がひたすら残り少ない機体を整備しているのみだった。
「正直、君に来られても何も見せる所がないんだ、碧生君」
ガランとした基地に立ち、寒々しい滑走路や兵舎を茫然と眺める碧生に、基地の副官はそう囁いた。ヨハネや先輩カメラクルーもイライラしている。どこをどう撮ったら国民の戦意を高められるのか教えてほしい。
「君は海軍の人間だったから正直に言うが、この基地はもうすぐ第一航空艦隊に全機移譲されるのだ。それまで待った方がよかったな。そうしたら書いてもらう材料も出来ただろうに」
副官は気の毒そうに笑った。彼も学生時代は文学青年で、碧生の名も知っていたし作品も読んだ事があると言った。
「今は書きたい事も書けない世の中で、さぞ不自由だろう。私もそうだが君も大層不器用な性質とお見受けする」
蒼太郎は何と答えたら良いのか分からなかった。なぜこの副官は自分にこんな言葉を投げかけるのだろう。答えはすぐに知れた。
「お互い、何とも言えず空が好きなだけなのではないかと思う。あの世界が」
「はい。自分はまさしくその通りです」
彼は首が折れる程に頷いた。
碧生蒼太郎は行く先々で歓迎された。もう既に誰が見ても勝ち戦ではない戦いの前線、人も設備も充分でない基地が多かったが、それでも元飛行学生でパイロットの卵だった悲運の作家というだけで、パイロットはおろか整備兵や基地警備の兵士まで、彼を尊敬のまなざしで見上げ、隙あらば話しかけようとした。勿論彼も時間と監視の軍人の許す限り、兵士達と会話をする機会を持った。皆碧生が作家と知り、自分の話を覚えていてほしい、出来たら故郷に人々に向けて書いてほしいと切り出した。地上の生活に山ほど想いを残している者が大半だった。それはそうだ。皆背負っているものを内地へ置き切れず、背負ったまま外地へ来たのだ。
元山の次は南国台湾の東港、そして更に暑い海南島の海口飛行基地。各地で兵士の声を聴き克明に取材メモを取った。そして日本兵が常駐している地元住民の、自分達を遠巻きにして見る冷たい呪詛の眼を見た。
基地の整備や下働きに駆り出され、危険な労働ばかりを強要される朝鮮の人々や、スパイ容疑をかけられて現地住民が射殺される音も聞いた。彼らを撃ったのは海軍の兵士ではないかもしれない。現地出身の治安維持の兵士だったかもしれないが、日本人を見る憎悪の眼の光は美しい空の光に負けず強かった。
一度海南島でカメラを置いたヨハネ達撮影スタッフと街へ出かけたことがあった。もちろんお目付け役の兵には常時見張られているが、地元住民と日本兵との姿を描写したくて下町に出かけたのだ。
海南島は日本軍の占領地域の中では治安の良い所だったが、それでも自分達を警戒する矢のような鋭い視線は、至る所から注がれた。自分達日本人が市場や通りに入ると、余程愛想の良い商店主以外黙ってしまうし、売り物の値段を聞いても死んだような目の愛想笑いしか帰って来ないし、子供や娘達はそそくさと家の奥へと隠される。
市場の隅で魚や貝を店頭に並べ、ぼうっと空を見上げている少年がいた。汚れてあちこち破れた服に傷だらけの裸足だ。だがその目は青い空を見上げていた。
「君は空が好きなのかい?」
碧生は立ち止まり、少年の前に屈むと笑顔で話しかけてみた。その子の佇まいに、日本での隣人の柘植譲二とさやの息子、光を思い出していた。だが彼はおびえたように国民服の碧生に目を向け、慌てて強く首を振り黙り込んでしまった。
「僕も、空が大好きなんだ。一緒だね」
なおも笑顔で話しかける碧生を、ヨハネが引っ張った。
「蒼太郎兄さん。こっちこっち」
驚いて辺りを見回すと、碧生は少年の親兄弟、親戚と思しき男達にぐるりと取り巻かれていた。けして手を出すわけではないが、厳しい拒絶の視線で彼を睨みつける住民達は、碧生をはっきりと「敵」と認識していた。これが八紘一宇、大東亜共栄圏を謳う戦争の姿だと、彼は瞬時に悟った。
「こら、貴様ら何をやっているか!」
碧生達を見失ったお目付け役の兵隊が慌ててやってきたのを見て、住民達はさっと逃げて行った。あの空を見上げていた少年も、碧生をじろりと睨みつけ、売り物の魚を抱えて走って行った。碧生の心にごうっと大風が吹いた。
「ここでは空が好きとかそういうのは関係ないんですよ。空が美しい事よりも生きのびる事が大事。いかに死なないようにするか。蒼太郎兄さんの大事にしている世界よりも、もっと切迫した世界なんです」
ヨハネは慰めるように義兄に声をかけた。
俺は一体何を見て生きて来たのだろう。世の中を見ているようで聞いているようで何も分かっていなかった。真に生きてもいない俺が書く文章とはなんだ。
「それでも、書かなきゃいけないんだよなあ。皆が俺に話してくれた事を体に取り込んで」
「それを書けるかどうかは分かりませんよ。僕達だって映せるものと映してはいけないものがある。目の前の世界をそのまま切り取る事は、今はもうできないんです」
カメラを操り目の前の世界を直接的に映す義弟は、見たものを文学に落とし込もうとする義兄の蒼太郎に苦言を呈した。文章を書くという作業すらも、もう自由な創造とはいかないのだ。カメラマンと文士の差がここにあるのかもしれない。
だが蒼太郎は本当に分かってはいなかった。自分の中にある『元飛行士の卵だから』という自尊心が、空の下にいる様々な傷を抱えた人の心を、無神経に「空が好きだから」という全て肯定的する言葉の濾紙を通す。それがいかに傲慢か、義弟のヨハネは気付いていたがあえて指摘はしなかった。その一点を崩されたら、この繊細で無神経で限りなく優しい人は壊れてしまう。ヨハネはそう感づいていた。それに治安維持法の元、多くの表現者が逮捕され迫害を受けていた頃から、ものを表す自由など、とっくになかったのだ。
一方東京に残った妻のリカにも従軍作家の話が持ち掛けられた。夫の蒼太郎と同じ日本報国文学会から、軍に同行しての取材と慰問の話を持ち掛けられたのは一度や二度ではなかったが、そのたびに子供が小さい事、夫の看病がある事を理由に断り続けてきた。軍に同行して、というのが生粋のフェミニストであるリカにとっては気づまりで、不愉快だったからでもある。
だが今回話を持ってきた事務局員の男は執拗に勧めてきた。
「間宮さん、もうお子さんも大きくなったじゃないですか。おばあちゃんに預けて何週間かは外出できるでしょう」
リカは筆名に旧姓を使っていた。
「でも私は有名でもない童話作家ですし、軍に同行とかお門違いだと思います」
「そんな事はありません。女性ならではの視点で、銃後の女性達にこそ戦争遂行の意気を高めてほしいというのが情報部の意向ですので、それには間宮さん打ってつけかと」
気安く間宮さんを連呼し、玄関に座り込んで話す男性事務員も、以前は夫の事を蒼井先生、自分の事を間宮先生と呼んでいた。
「それに、この話受けておいた方がいいですよ」
事務員は急に声を潜めた。
「ここだけの話ですが、間宮さんと碧生さんはアカだという噂が出ています。若い頃プロレタリア作家と緊密なお付き合いがあったとか、特高に殺された画家と長い付き合いだったとか。こちらとしても庇って差し上げたいんですよ」
「そんな……私達はただ」
「分かってます。お二人が誠実な作家さんだという事は皆分かっています。でも世の中はそう見てくれる人だけじゃない。だから蒼井先生の方にも、従軍作家の道を紹介したんです。お守りする為に」
軍と行動を共にするという事が、リカには虫唾が走るほど嫌だったが、何も言い返せなかった。
「こんな世の中です。横浜や京都で出版社の編集員や作家、記者達が特高にどんな目に遭わされたかご存じですよね。改造社、中央公論社、朝日新聞、岩波書店……貴女達にはご家族がいる。子供さんとお母さんを守るためです」
「……そしてお国の為」
「その通りです。反対がなかったらこちらで話を進めていきますよ」
リカはお願いしますと固い顔で頭を下げた。私が戦ってきたのは男の考えで時代を動かしている世論そのものだった。でも今は男の考えでも女の考えでもない。「国体護持」、国を守るという男も女も超越した概念が頭上を覆っている。
リカは尊敬するフェミニストの大先輩に手紙を書いた。その先輩女闘士からの返事は、彼女の頭をガツンと一撃するようなものだった。
『女の権利を主張する為には、戦争に協力した方がいい。実績を作って、女性の権利を主張しやすい素地を作る事が、今は大切だ』
リカは軍と共に慰問に行こうと決意した。




