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いのち

 南方から帰還した兵隊は内地は寒いと改めて感じるようだが、極寒の冬の満州から東京へ戻った柘植譲二は、むしろ暖かいと感じホッとした。

 夜や朝方などマイナス25℃位にまで下がるハルビン近郊では、自分の吐息の湿気で瞼も防寒帽の毛も凍り付くし、容易に凍傷に罹ってしまう。

 南方への転戦の直前、一時帰国を許された所属部隊は連隊本部で解散し、柘植は独り省線から降りて四ツ谷の裏通りを歩いていた。冬の日は早く落ち、辺りは墨を流したように漆黒の大気が留まっている。

 街行く人達が寒そうに外套の襟を立て、襟巻の中に顔半分を沈めて言い交わしている。


「今日び空気がからからでいけませんね」

「本当ですね。火事も起こりやすくなるし子供達はすぐ喉を腫らしてしまいます」


 だが陸軍の外套をぎっちりと着こみ重い背嚢を背負った柘植は、全く低湿度を感じなかった。

 部隊が展開していた満州国のハルビン近郊こそ乾燥度合いは凄まじい。冬はほとんど雨が降らず雪も降らない。体を芯から凍らせる寒風が吹き付けるだけだ。静電気も起こりやすく電装系の扱いは特に気を遣う。

 それにしても数年ぶりの東京は人々の湿気で溢れている。中国大陸での戦争が密かに負け戦に転じていたと言っても、それを知らない人々の生活はまだ比較的平和に営まれていたし、道行く市民も夫人は着物に道行き、紳士も国防服ではなく和服や背広姿も多い。ただし陸軍の総司令部のある市ヶ谷が近いせいか、四ツ谷には陸軍の軍服姿も多かった。すれ違う軍服の階級を素早く認識し一礼をするのも大事な事だ。


 四ツ谷の大通りから、寺の多い狭い路地で細かく区切られた街に入り、くねくねと複雑に曲がりくねった道を歩くうちに、すれ違う人は次第に減って行き、暗い路地を歩く者は柘植一人になった。

 妻と息子の待つ家に帰るのも本当に久しぶりだ。突然の帰還だから妻に手紙を書く時間もなかった。恐らくびっくりされるか、怪しまれるだろう。家には鍵がかかっていて、すぐには開けてもらえないかもしれない。

 柘植自身が言ったように『光』と名付けられた息子も、送られてきた写真を見たのは随分前だから、もうだいぶ大きくなっているだろう。自分を受け入れてくれるだろうか。人見知りをされて母親の後ろに隠れられてしまうかもしれない。その光景を想像すると柘植の疲れた顔には笑みが上り、足並みは速くなった。

 時刻は夜の七時過ぎだ。見ると、近所の碧生蒼太郎の家はまだ電気がついている。あそこは本人もかみさんも物書きだから、夜も遅いのだろう。柘植は出来るだけ早く家に帰りたかったので訪ねようとは思わなかった。


 古びた門と低い二階家の佇まいはちっとも変っていなかった。柘植は一足飛びに門を跨ぐと玄関の引き戸に手をかけた。鍵はかけられていない。碧生の家が近所だから安心しているのだろうか。ガラガラと戸を引く柘植は緊張して顔がこわばった。他所の家のような気がしたらどうしよう。妻と子供が他人のように感じられたらどうしよう。音を控えて引き戸を開け、ただいまとひと声出す間に小さな男の子が走ってきた。


「お父様お帰りなさい!」


 柘植は当惑した。自分と同じ顔にさやの暖かい声を持つ子供が、何の躊躇もなく自分をお父様と呼んだのだ。


「おかえりなさい、貴方」


 奥の台所から、地味な毛の和服に割烹着をつけた妻が、満面の笑みで歩いてきた。


「ただいま……」

「何を狐につままれたような顔をしているんです?上がってください。ご自分のお家じゃありませんか」

「うん。だがなぜ俺が帰って来たのが分かった? まだ何も声を出していないうちだぞ」

「貴方の足音ですよ。それと門の上がり方。ひと飛びに来るなんて貴方しかいないわ」


 脱いだ外套と背嚢を受け取ろうと、玄関先に膝をついている妻と息子を、柘植は思い切り抱きしめた。


「……ただいま……」


 お帰りなさい。ただいま。

 寒い玄関先で、早く上がってご飯にしようよと我慢しきれなくなった「光」が声をあげるまで、柘植譲二と妻のさや、息子は抱きしめ合っていた。貴方がいない間に、本当に色んな事があったのよ。本当に……妻のさやは夫の不在の間にあった事を話そうとしたが、涙が出て上手く話せない。そんな妻を夫はただ抱きしめていた。


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